27、殺したくて死にたくて殺せなくて

 受験生になっても家事が放免されることはありませんでした。「受験生だからって特別扱いされるとでも思ってるのか」と事あるごとに言い聞かせられました。気分のいい時には「俺がやっておくよ」と父が申し出たことも、後日には「俺に家事を押し付けている」と捻じ曲げられることもありました。

 殴られて泣き腫らしたままの目で定期テストを受けた日もありました。「塾なんて金の無駄」という父の方針で、塾や予備校には小学校時代から一切通えませんでした。台所に立ちながら勉強をしました。それにさえ父は「料理に集中しろ、だからいつまでも下手クソなんだよ」と苦言を呈しました。

 死ねばいいのに、とずっと思っていました。

「そんなこと言ったって、お父さんに死なれたら困るのはあなたでしょう」

 母はそう言って私を諫めたけれど、憎しみは日に日に募るばかりでした。肉の下ごしらえの時、肉を父に見立ててフォークを突き立てることが、数少ない憂さ晴らしでした。


 五月の初頭。きっかけは覚えていないけれど、おそらくいつもの些細なことでした。それで口論になるのも、いつまで経っても埒が明かなくて話が通じないのも、ごく慣れたものでした。

「もういい? そろそろちゃんと勉強したいんだけど」

 そう言って部屋に籠ろうとするたびに、父は部屋の扉を蹴り開けて、「お前本当にこのままでいいのか」などと強制的にリビングに連れ戻すのでした。(もっとも、父に怒られた日などは、部屋に籠ることができたところで、勉強が手に着くほうが稀でした。受験生としての私の成績は低迷していました)


 真剣に話し合いをさせろと言っては一方的に浴びせられる憶測と罵声。

 家族を壊したのは他ならない自分だという自覚もなく、呪文のように繰り返される「家族」という言葉。

 もはや滑稽なほどでした。「家族は助け合うべきなのに、お前は享受しかしていない」ということを言いたいのでしょうが、興奮すると言葉が支離滅裂になるせいで、言っていることがめちゃくちゃでした。例え話を多用する癖に、比喩がびっくりするほど下手でした。本当馬鹿だなァこの人、国語力ゼロかよ。なんて内心笑っていたのは内緒の話。

「お前は調子に乗っている」と何度も言われました。「誰の金で学校に行っていると思ってるんだ」とも。

「俺が払ってやってる金」を強調されるごとに、心のわだかまりは膨らんでいきました。嫌々払うくらいなら、いっそ学費を払うのを止めてくれればいいのに。いっそ悪人に振り切ってくれれば、堂々と糾弾できるのに。それでも表面上だけはお金を出しているから、外野からも本人からも感謝を強要される。嫌で嫌で仕方ありませんでした。

「そんなにお金出すのが嫌なんだったら生活費も学費も出さなきゃいいじゃん。奨学金でもなんでも借りるよ。嫌々お金を払われてそれを引き合いに好き勝手言われるのは、私だってもう嫌なんだよ」

 私のそんな言葉も、「お前一人の力で生きていけるわけがない、お前は世間を甘く見すぎだ」なんて一笑されるだけでした。

「出ていくなら出ていけよ、ここは俺の家なんだから。一人の力で生きていくんだろ。やれるもんならやってみろよ」

 父は挑発するように言って、顎で外を示しました。行くあてがないのは私にとっても火を見るより明らかでした。せめてもの抵抗に、無視するのが一番相手の癪に障るとわかっていたから、私は無反応を決め込んでいました。

 頬杖をついて窓の外を眺めました。深夜。部屋は二階。ここから飛び降りてもさすがに死ぬのは無理かな、なんて無意識に思いました。

「なんでこの人は、私が生きていく前提で話を進めているんだろう?」と、私は不思議でなりませんでした。いますぐ窓の外から飛び降りたらこの人はどう反応するんだろう、逃げたと言って嘲笑うんだろうか。ちょっとは嫌だけど、別にそれでもいいかな、この不毛な日々が続くよりは。

 死んじゃってもいいか、別に。

 思いのほかライトにやってきたそんな感情が、頭からこびりついて離れませんでした。


「俺のことがそんなに憎いかよ」

 そう言って父がふらりと立ち上がりました。キッチンの照明をつけ、引き戸を開けました。そこに何があるかは言われずとも知っていました。

 包丁。

 父は刃渡りの長いものを手に取りリビングに戻ってきました。

 ああ、ついに刺されんのかな。頭の中は意外と冷静でした。殺されても死にきれなくても、これでやっとこの人が法的に裁かれるんだと思うと、「いい気味だ」としか思えませんでした。堂々と一一〇番をする口実がやっとできるのです。せいぜい残りの人生ドブに捨てるんだな、ざまあみろ。なんて内心で毒づいたりもしていました。

 しかし、父の行動は私の予想に反するものでした。


「そんなに憎いなら俺を殺せよ」

 右手を刃の方に持ち替えて、父は私に包丁の柄を押し付けてきました。

 卑怯だ、と思いました。

 自分の人生くらい自分で片付けろよ、私に背負わせんなよ。死ぬなら私の人生を巻き込まずに勝手に死んでくれよ。

 私は父の差し出してきた包丁を払いのけました。どうしても柄を握ることができませんでした。

 意気地なし、と父が笑いました。お前も所詮度胸がない人間なんだなと。


 違う、と思いました。私の胸の中は父に対する怒りで満ちていました。

 けれど結局、ひとつも違うことなんてないのです。私は父を殺せなかった。あんなに憎いと思っていたのに。決して認めたくはないけれど、怖気づいたのは事実でした。人を殺すことの重みにも、反撃されるかもしれないという恐怖にも、私は打ち勝てなかったのでした。

 

 あの時、どうして包丁を握らなかったんだろう。どうして殺しておかなかったんだろう。

 後からそうやって、何度も後悔しました。

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