25、初めての家出のその後

 私の家出を経ても、父の態度が変わることはありませんでした。私が作ったおかずを食べながら「お前は家事を何もしない」と言うのもいつも通り。ご機嫌ナナメだと物に当たり散らすのもいつも通り。繰り返す悪夢みたいに、何一つ変わらない日常が続きました。

 やがて十二月末になりました。毎年、お盆と年末年始は青森にある祖父母の家で過ごすことになっていました。来年は私が受験生で行けないこともあり、その年は否が応でも青森に出向くことになりました。

 青森までは、車で九時間程度かかりました。その間は、父と共に、車という密室に閉じ込められることになります。助手席に座ることになる私は、毎年のように、運転をする父へ甲斐甲斐しく世話を焼くことが求められました。飲み物のキャップを開けたり、飴やガムの包み紙を開けたり、なんてのはまだ優しいものでした。時には、「なんで俺の代わりに左方を見ないんだ」と叱責され、「俺の代わりにスマホを操作しろ」と初めて触る機種をいきなり渡され、父の思い通りできずに苛立たれることもありました。

 父の運転そのものも好きではありませんでした。急発進急ブレーキをカッコいいと思っている父の運転は、乗り物に酔いやすい身からするとかなりしんどいものでした。寝て居ようにも「俺は運転しているのに」とへそを曲げられる始末。ただでさえ気の短い父ですから、前方の車の遅さに悪態をつくことや、時には煽り運転さえすることもありました。見ていて気分のいいものではありませんでした。


 家出のことはどう説明するんだろうな。どうせなかったことになるんだろうな。そんな気分を抱えたまま、青森にたどり着きました。

 なかったことになるくらいならまだましでした。父が出た行動は、「うちの娘が馬鹿やってさあ」と笑い話にすることでした。

 私の気持ちなどまるで気に留めていないのが、これではっきりとわかりました。同時に、ほんの少しだけ残っていた父への信頼も無に帰しました。「よくある反抗期ってやつだよ」「難しい年ごろだもんね」「女の子は特にね」と、親戚は若気の至りとして父の話を真に受けました。これも、いつもの話ですが。

 家の中では暴君のようでも、父は非常に外面が良い人でした。職場や親戚の間では「男手一つで女の子二人を育てる殊勝な父親」として通っていました。父は自分に都合の悪いことは伏せながら、母のことを悪し様に言い立てていました。

 父の陰口の甲斐あってか、親戚たち、特に父方の祖父母の間では、母は「子供を捨てて逃げた身勝手で酷い母親」に仕立て上げられていました。帰省のたびに、気の強い性格の父方の祖母は、「あの人はこんな時にも帰らないのね」「子供たちがお母さんの代わりをさせられて可哀相」と母を詰りました。私は祖母のそんな言動が嫌で仕方ありませんでした。

 父は次第に私のこともあることないこと吹聴するようになりました。夕方から座敷で何本もビールを開けては、私にビールを持ってこさせながら、「こいつは家で本当に何もしなくてさあ」と冗談交じりに言うのでした。

「ちゃんとしなさいよ長女なんだから」

「ちょっとはお父さんのこと助けてあげなさい、お父さんだって頑張ってるんだから」

 親戚たちは揃って私をそう諫めました。表立って問題を起こすのも嫌だったから、私は苦笑を決め込んでいました。

 

 父は三人兄弟の末っ子でした。二番目の兄弟とは八歳年が離れていました。甘やかされて育ったんだろうなと言うのは、本人の話を聞いていても、周囲を見ていても痛感します。(父は、学費の高い私立の大学で好き勝手やっていたことを、まるで武勇伝のように語る人でした。昔は悪だったんだぜと誇らしげに話していました。学費は当然のように祖父母持ちだったし、本人は隠していたみたいだけれど、結局中退しているようでした)

 父をこんな風になるまで培養してきた環境が、好きになれるはずもありませんでした。


 苦痛でならない里帰りでしたが、お年玉やお小遣いをもらえることと、ご飯がおいしいことだけは好きでした。我ながら現金だとは思います。

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