4、年の離れた弟が生まれた話

 しばらくして母が帰ってくると、何事もなかったかのように、再び家族四人での生活が始まりました。小学校五年生だった私は、地元にある中高一貫校の受験を考えていたので、父や母にせっつかれながら勉強をしていました。

 そのうち母の妊娠が明らかになりました。私が十一歳、妹が六歳でしたから、かなり年の離れた末っ子でした。

 当時は子供のできるメカニズムもまるで理解しておらず、「夫婦仲がいいと自然と身ごもる」程度の認識しかなかった私ですが、それだけに何か現実味のないものに思えました。子供心ながらに、自分の両親の夫婦仲が冷え切っていることには、気づいているつもりでした。

 本当にお母さんのお腹に赤ちゃんがいるのか、という疑問は、母が臨月を越えても、言ってしまえば本当に弟が生まれてしまうまで、まるで解消されませんでした。それは妹も同じだったようで、病室で泣きわめくしわくちゃの赤ちゃんを見て、妹が「本当に妊娠してたんだ」と呟いたのが印象的でした。私も全く同じ感想を抱いていたからです。

 弟は十二月末の寒い日に生まれました。彼が家にやってきたのは母の産褥が安定してからしばらくのことで、その頃にはもう年が明けていました。

 小さくて壊れ物のようで、ふにゃふにゃとすぐ泣いてしまう新生児は、小学生の私にとってまるで未知の存在でした。妹はまだ世話を任せるには心もとない年齢でしたから、母が少し手を放す時などは、決まって私に弟が預けられました。

 私は弟のいる生活が好きでした。三人目の子供ともあって手馴れた母は、弟の世話をする傍らで、新生児の特性やミルクのあげかたや、抱っこの仕方、その他にもたくさんのことを教えてくれました。小さな手をぎゅっと握りしめているやわらかい生き物は、見るも止まらぬ速さですくすくと育ち、寝返りができるようになり、座れるようになり、コップが一人で持てるようになり、つかまり立ちができるようになり、私の裾を引っ張りながら「おねえ」と甘えるようになりました。

 薄々感づいているとは思いますが、私は弟を溺愛していました。年の離れた末っ子が可愛くて仕方ありませんでした。母が食事の準備をしているときなど、膝の上にのっけて弟のお気に入りのテレビを見たり、当時流行っていたなめこのアプリを触らせてあげたりしていました。赤ちゃんの用のおせんべいが甘くて案外おいしいということをこの時初めて知りました。

 さて、弟が育っていく間にも、私の中学受験はじりじりと迫っていました。次第に「勉強の邪魔にならないように」と弟は引きはがされてしまいましたが、母は夜食を作ってくれたり、温かいココアを入れてくれたり、勉強をしている私にまめまめしく世話を焼いてくれました。

 やがて幸運にも合格できた私は、そのまま卒業シーズンを迎え、中学校入学に至りました。そこから約一年の間は、自分でも不思議なくらいに平穏な日々が過ぎました。その間、祖母の看病を理由に、一週間から一ヶ月の範囲で母が家を離れることも多かったものの、両親の間で大きな衝突もなく(乳幼児がいたからでしょうか?)、絵にかいたような平和が我が家を満たしていました。


 それがいつだったかは覚えていないけれど、ひとつ、印象深い記憶があります。おそらく小学校高学年の頃だったか。最寄駅から、さらに大きな駅まで向かう電車の中。緑色の長椅子に、私と母と妹の三人で座っていました。弟が生まれる前か後かは、はっきりとは覚えていません。

 暖かな西日が差していました。電車の中で私たちは、しきりに父と別れたがっていた母に対して、「離婚しないの?」という言葉を無邪気に問いかけていました。私はすでに父のことがあまり好きではなかったので、母にとってはその方がずっといいことに思えました。

「外でいい男の人見つけなよ。怒鳴らなくて、優しくて、すごく紳士な感じの人。それで、結婚したら、私たちのこと迎えに来てよ」

 まるで夢物語のようにそんな話をしました。父だけそっくりそのまま取り換えられる形で、母と一緒に幸せな家族になれたら、どれほど素敵だろうと思いました。朧気ではありますが、母も笑って「そうしたいねえ」と言っていたような気がします。

 その後、大きなショッピングセンターのある駅に着くと、母は買い物ついでに、私と妹に一本ずつ屋台のチュロスを買ってくれました。長くて、きらきらした大粒の砂糖がついていて、普段食べることもない珍しいおやつに私も妹もはしゃいでいました。


 平穏の終わりはあっけなく訪れました。

 中学校一年生の二月の終わり。期末テストの試験勉強をしていた時でした。

「おばあちゃんの所にしばらく行くからね」

 いつものようにそう告げた母は、それから全く連絡が取れなくなりました。


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