3、泥んこになった私に母は優しかった
引っ越してからしばらく。母がパートをはじめ、日曜日に家を空けることが増えました。
平日ならまだしも、休日には父が家にいます。母という抑止力がない父は、なんだかいつもよりも怒りっぽく見えて、とても怖かったことを覚えています。お母さんいつ帰って来るかな、と、幼かった私は指折り数えながら待っていました。
いつだったか、ある日を境に、母のプチ家出が頻繁に起こるようになりました。
最初は三日程度でした。具合が悪くなったから友達の家に泊まるね、というのが何日か続き、しびれを切らした父が怒り心頭で電話をしていた記憶があります。
母がいる時もいない時も、「お前は母親失格だ」というような誹りが聞こえたことも、少なくありませんでした。父は私の前で母の愚痴を聞こえよがしにこぼしていました。
母と父の間を揺るがす出来事が起こったのは、小学校五年生の六月のことです。引っ越してから一年半ほど経っていました。
この時のことは、今でも不思議なほど鮮明に覚えています。
その日、私は学年全体でプール掃除をしていました。授業のために、プールの底をさらって、ヤゴを捕まえる必要があったのです。泥だらけになりながら網で水面を掻き回している最中、先生が私のことを呼びました。
「おばあちゃんの病気が急に悪化したんだって。おうちの人が迎えに来るから、帰りの準備をしてね」
この時おばあちゃんと聞いて浮かんだのは、父方の祖母の方でした。胃がんだったか胃潰瘍だったか、とにかくお腹の病気を患っていて、その年に手術までしていたからです。「おばあちゃん大変なの?」と尋ねられた時も、私は同様のことを答えました。
急に学校を帰ることになるなんて、なんだか曽祖父のお葬式の時みたいだと思い、私は怖くなりました。
しばらくして、母の弟にあたる叔父さんが私のことを迎えに着ました。大きなトラックで乗り付けていた叔父さんは、コンビニで三人分のお弁当を買って、私の住んでいた家へと向かいました。
家に帰るなり、母から「今のうちにお弁当食べちゃいなさい」と言われました。それから母は、私と妹に、ランドセルに教科書類を詰められるだけ詰めることと、着替えをカバンに用意することを言いつけました。
私と妹は言われるがまま荷物をまとめ、母に連れらればたばたと家を出ました。
そのまま気づいたら空港のカウンターに立っていました。母が見たこともない額の万札を出して飛行機代を払い、私たちは九州の離島へと向かう飛行機に乗り込みました。
祖父母の家に着くころには夕方になっていました。
祖母は髄膜に水が溜まってしまう病気だとかで、長いこと座っているのもできないような状態でしたが、想像していたよりは元気そうでした。
その日から二週間程度の離島生活が始まりました。父から母への電話は連日のようにかかってきていたようでした。そんなことは二の次で、私は学校に行かずに母とすごせることが楽しくて仕方ありませんでした。
いつもは登校している時間にやっている朝ドラが、意外と面白いのを知りました。祖父母の家の小さい車に乗って、有名なロケットを見に行きました。妹とおそろいの服も買ってもらいました。海開き前の海は、曇っていたせいで灰色だったけれど、砂だらけになるまで遊びました。小さな蟹が砂浜を歩いていました。
夕飯には大好きな魚がたくさん並びました。九州の甘いお醤油が好きでした。おばあちゃんの作る、里芋とたけのこの煮物が好きでした。
楽しかったんです、すごく。
誰に怯えることもなくのびのびと暮らせることが、こんなに幸せで素敵なことだと思わなかった。
そんな時間がいつまでも続くはずがなく。二週間後、母だけが実家にとどまる形となり、私と妹は二人で関東に帰る飛行機に乗りました。
家でひとり待っていた父は、まさしく激怒といった様子でした。「あいつはお前らを無理やり転校させようとした」「誘拐と同じだ」などと喚きたてては、私や妹の前で母を悪し様に罵るのでした。
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