第3話 低迷

この男に、名前はない。


睫毛とか、もじゃもじゃとか、御影とか、自らが忍びとして仕えた主によって名前を変えてきたが、ここの所は名前すら呼ばれなかった。


無い袖は振れない、などとはこのことを言う。

呼ぶ名すらないのだ。

飛び抜けて腕が立つ忍びであれば、里の中で傭兵としての名称くらいは与えられたろうが、末端の忍びであったこの男は例外である。


天正伊賀の乱よりほど近い年に、単身、伊賀を抜けてきた。

伊賀へと戻ってきたのは十年を超える年月ぶりのことで、男も伊賀の風というものをすっかり忘れていた。


錆びれていて、体の毛がひりひりとそそり立つ奇妙な瘴気が漂っているのは、相変わらずといったところであろう。


「小白」


呼ばれて、押し入れからはい出てきたのは、齢五つばかりの童子だった。

蜉蝣によく似た面立ちで、おずおずと名無しを凝視している。


「どなたで?」


「今日から連れてきた、名もなき忍びです。腕は立ちましょう」


「名前が無い、と」


小白なる童子から、訝しげな眼差しを受けた。

名無しはといえば呑気なもので、


「へえ、弟くん?ずいぶん歳が離れているんだね」


と、小白の顔をのぞき込んだ。


「よしてくださいませ」


とっさに、蜉蝣が間に入った。


「まだ素性のしれぬ貴方を、あまり近くにつける訳にはまいりません」


「なら、どうして僕を雇ったの」


「あなたの腕を見込んでのことです」


「じゃあいいでしょ。弟くんとも親交を深めておきたいし」


「いけません」


下心の見え隠れしている名無しに、小白もどことなく怖気づいている。

名無しは不満げに唇を尖らせると、乗り出していた身を引いた。


「じゃあ、腕のたつ僕にどうしろというの」


「申した通り。あの小白を、下忍の連中から守って欲しいのです」


「上忍が下忍に狙われるの?」


名無しは首をひねった。

忍びの上下は、術の優劣ではなく生まれの格差で決まる。すなわち、身分制度である。上忍の家に生まれれば、下忍を奴隷のように扱うことが出来るのだ。少なくとも、名無しの世代はそういうものだった。

故に、その奴隷である下忍が、上忍に反旗を翻すなど考えられない。


「病葉家の当主である父上は、既に亡くなっております。母上もこの世にはなく、残されたのはこの私と、嫡男である小白のみ」


「うんうん」


「女と子供だけが残されたのは我が家を討ち取り、新しい地主となるために、かつて仕えていた下忍たちが謀反の企てを」


「それで、家の召使いがいないわけだ」


名無しは納得した。

上忍の家にはいくらかの下忍が住み込み、飯をやる代わりに下男下女として召し抱えている。それらがいないということは、もはや召し抱えるだけの金がなく、統率も失っているのだろう。


「でも、そんな八方塞がりで、どう弟くんを守れと言うんだい。いくら僕でも、ここら一体の忍びをみんな敵に回すのは怖いよ」


「ここからひとつ山を超えた先に、叔父上の一族が住んでいます。叔父上は子に恵まれておりませんので、小白をぜひ養子に欲しいと」


「なら、さっさと叔父さんにあげちゃえば」


「それは下忍どもも知るところ。叔父上の屋敷に向かう最中に殺される危険が高いのです。そこを、あなたに守っていただきたい」


長い髪の奥底からのぞく黒曜石の瞳が、名無しをたかぶらせた。


「ほんとは、ただの下克上なんかじゃないんじゃない?あの守銭奴たちがこぞって地主を討とうとするなんて」


名無しの勘ぐる先には、黄金に光る何かがあった。伊賀忍びの好きなものといえば、立場より愛より金である。大金同様の価値のあるものを、この病葉家が隠し持っている。そう考えるのが妥当と言えよう。


「……これは噂に流れ着いた話、本気にしないでいただければと思うのですが」


暫時口を噤んだ後、蜉蝣が床を指さした。


「どこから出たでまかせかは存じませんが、この病葉家が領地に、金脈があるという話を、下忍どもが信じてしまったのです」


「なるほど、やっぱり」


やっぱり、黄金の何かだった。

地面には宝の山が埋まっていて、それを占領できる上忍家は、いまや若い女と幼い子供のふたりきり。殺して奪うのが容易いというわけだ。


「もちろん、我が家にそのような伝承は残ってはおりません。誰かが適当に流した嘘が、広まったのでしょう。川の近くですから、あったとしてもわずかな水脈だけ」


「えらいことになったね」


えらいことになった。

名無しはそういったものの、焦った様はまるで見せず、飄々としている。


(程度による)


下忍の数によっては、依頼を引き受けぬことも考えていた。


(でもなあ)


御簾のごとき前髪から垣間見える蜉蝣と目があい、口元が緩んだ。

この女にはほんとうに、味方がいないのだろう。

きつい言葉で名無しを牽制してはいるが、その実、目の奥ではびくびくとしていて相手の様子をうかがっている。


(迷うなあ)


片腕で無数の敵を相手に戦うか、好みの女を見捨てるか。

金より愛欲の強い名無しには、まこと、悩ましい依頼だった。



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