第2話 鬼面




翌日の晩のことである。


伊賀の土を踏んだのは、10年と5年ぶりだ。

ひょうひょうと悲しい風笛を吹かせる伊賀の里の外れに、男は招かれた。


「久しぶりだよ」


飯屋で泣き腫らした赤い眼も、一晩経てばすっかり腫れが引き、整った目元が本来の端正ぶりを取り戻した。


下忍のものとは明らかに違う屋敷の前までやってきて、男はそのまま屋敷の中へと足を運んだのだった。


そこらの小作人とは格の違う家柄なのだろう。しかし屋敷の中をよく見てみると、仕えている下女や小作人はおらず、静まり返っていて人の気配がない。


没落した家なのか、屋敷のそこかしこが古びていた。


「あの残忍無慈悲な殺しぶり、まさかとは思っておりました。御仁は伊賀の方だったのですね」


「抜け忍だよ」


男は言った。


「僕は下忍だったんだ。そういう君は」


「我が病葉家は、地主の一角です。上忍とでも言いましょうか」


「ふうん」


しげしげと、すました美貌で男は蜉蝣の顔を眺めた。


「ところで、君さ、なぜ髪で顔を隠しているんだい。気になって仕方がないよ」


「私の事情です」


蜉蝣の声は低く、素っ気ない。


ところが、男は女を口説くのに慣れでもしているのか、そわそわと隙を見ては、前をゆく蜉蝣の顔を覗こうと身を乗り出しては、


「綺麗な声じゃないか、顔も悪くないと思うんだけど」


と、歯の浮くような台詞をぬかした。


「あなたほど顔が美しければ、そのような言葉を並べても美しいのでしょう。羨ましいことです。そんな様子では、女には困らないでしょうね」


蜉蝣は憎らしい美男子に、皮肉を垂れてやる。


これまで女に困ったことはないのだろう。優しげな垂れ目に反してつり上がった眉が、衰えることの無い容姿への自信を露わにしていた。


「言ったでしょ。振られたから悲しいんだって。美男子がみんな、恋愛に成功するなんて思わないでね」


「その割には、自信高々です事」


「僻みっぽいことを言うのは良くないね」


男はやや、喧嘩腰になった。

蜉蝣が手で庇うより早く、蜉蝣の面を覆っていた前髪に手を滑り込ませ、御簾を跳ね除けるように手で扇ぐ。


「あっ……」


それまでの喋り方とは打って変わって、弱々しい短な悲鳴が零れる。


「なんと」


男が驚嘆した。

簾のごとき前髪の下に秘められていたのは、およそ御簾の奥に坐す姫君とはかけ離れた醜悪な面だった。

顔の左半分がただれ、毒々しく変色している。ただれた部分は醜く肉芽歪み、口は左耳まで皮が向けていた。そのうえ左目には目玉がなく、落ちくぼんでいる。

残った右半分には、平凡でありきたりな女の顔に、激しい拒絶が浮かんだ。眉をゆがめ、目を見開くや、


「なにをなさる!」


たまらず飛びのいた。

醜悪な顔を見られたとあってか、蜉蝣はさらに強く前髪を押さえ、醜い顔の前に髪の膜を張った。


蜉蝣が見られたがらないのも無理はない。この顔を見て、嫌そうな顔をしないものを、少なくとも蜉蝣という女は知らないのだ。


「わあ……」


あからさまに驚いたような声が降ってきた。

蜉蝣を蔑んでいるのか、軽んじているのか。どんなに口汚く罵られても文句はなかろうが、それを引き受ける時を思えば、蜉蝣の手が震えた。


「……このような非礼、控えていただきたい。飯がまずうなります」


憎たらしげに声を絞り出し、非難した。


「そんなことないよ」


「嘘をおっしゃらないでください」


「むしろ好みかも」


冗談を言うのも大概である。

どうせ顔をあげれば、そこには蜉蝣を蔑み笑う顔があるに違いない。

蜉蝣が面をあげることはなかった。


「茶番はここまでになさってください。病葉家にとっては大切な話です」


「そんなにカリカリしないでよ。ごめんね?」


調子の軽い男を客間まで招くと、雨漏りの滲んだ床の上へ座らせた。

蜉蝣は押し入れの床を開けてその下へ潜ると、


「小白(こはく)」


と、呼びかけた。

床下に彫られた、六尺二間にも及ばない小さな部屋で、縮こまっていた幼子に対してである。


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