第2話 鬼面
*
翌日の晩のことである。
伊賀の土を踏んだのは、10年と5年ぶりだ。
ひょうひょうと悲しい風笛を吹かせる伊賀の里の外れに、男は招かれた。
「久しぶりだよ」
飯屋で泣き腫らした赤い眼も、一晩経てばすっかり腫れが引き、整った目元が本来の端正ぶりを取り戻した。
下忍のものとは明らかに違う屋敷の前までやってきて、男はそのまま屋敷の中へと足を運んだのだった。
そこらの小作人とは格の違う家柄なのだろう。しかし屋敷の中をよく見てみると、仕えている下女や小作人はおらず、静まり返っていて人の気配がない。
没落した家なのか、屋敷のそこかしこが古びていた。
「あの残忍無慈悲な殺しぶり、まさかとは思っておりました。御仁は伊賀の方だったのですね」
「抜け忍だよ」
男は言った。
「僕は下忍だったんだ。そういう君は」
「我が病葉家は、地主の一角です。上忍とでも言いましょうか」
「ふうん」
しげしげと、すました美貌で男は蜉蝣の顔を眺めた。
「ところで、君さ、なぜ髪で顔を隠しているんだい。気になって仕方がないよ」
「私の事情です」
蜉蝣の声は低く、素っ気ない。
ところが、男は女を口説くのに慣れでもしているのか、そわそわと隙を見ては、前をゆく蜉蝣の顔を覗こうと身を乗り出しては、
「綺麗な声じゃないか、顔も悪くないと思うんだけど」
と、歯の浮くような台詞をぬかした。
「あなたほど顔が美しければ、そのような言葉を並べても美しいのでしょう。羨ましいことです。そんな様子では、女には困らないでしょうね」
蜉蝣は憎らしい美男子に、皮肉を垂れてやる。
これまで女に困ったことはないのだろう。優しげな垂れ目に反してつり上がった眉が、衰えることの無い容姿への自信を露わにしていた。
「言ったでしょ。振られたから悲しいんだって。美男子がみんな、恋愛に成功するなんて思わないでね」
「その割には、自信高々です事」
「僻みっぽいことを言うのは良くないね」
男はやや、喧嘩腰になった。
蜉蝣が手で庇うより早く、蜉蝣の面を覆っていた前髪に手を滑り込ませ、御簾を跳ね除けるように手で扇ぐ。
「あっ……」
それまでの喋り方とは打って変わって、弱々しい短な悲鳴が零れる。
「なんと」
男が驚嘆した。
簾のごとき前髪の下に秘められていたのは、およそ御簾の奥に坐す姫君とはかけ離れた醜悪な面だった。
顔の左半分がただれ、毒々しく変色している。ただれた部分は醜く肉芽歪み、口は左耳まで皮が向けていた。そのうえ左目には目玉がなく、落ちくぼんでいる。
残った右半分には、平凡でありきたりな女の顔に、激しい拒絶が浮かんだ。眉をゆがめ、目を見開くや、
「なにをなさる!」
たまらず飛びのいた。
醜悪な顔を見られたとあってか、蜉蝣はさらに強く前髪を押さえ、醜い顔の前に髪の膜を張った。
蜉蝣が見られたがらないのも無理はない。この顔を見て、嫌そうな顔をしないものを、少なくとも蜉蝣という女は知らないのだ。
「わあ……」
あからさまに驚いたような声が降ってきた。
蜉蝣を蔑んでいるのか、軽んじているのか。どんなに口汚く罵られても文句はなかろうが、それを引き受ける時を思えば、蜉蝣の手が震えた。
「……このような非礼、控えていただきたい。飯がまずうなります」
憎たらしげに声を絞り出し、非難した。
「そんなことないよ」
「嘘をおっしゃらないでください」
「むしろ好みかも」
冗談を言うのも大概である。
どうせ顔をあげれば、そこには蜉蝣を蔑み笑う顔があるに違いない。
蜉蝣が面をあげることはなかった。
「茶番はここまでになさってください。病葉家にとっては大切な話です」
「そんなにカリカリしないでよ。ごめんね?」
調子の軽い男を客間まで招くと、雨漏りの滲んだ床の上へ座らせた。
蜉蝣は押し入れの床を開けてその下へ潜ると、
「小白(こはく)」
と、呼びかけた。
床下に彫られた、六尺二間にも及ばない小さな部屋で、縮こまっていた幼子に対してである。
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