鬼面讃 -きめんさん-
八重洲屋 栞
第1話:余生
重厚な曇天からは、絶えず大粒の雪が降りしきる。溶けることの無い白の床は日に日に厚さを増し、そこかしこの屋根には同じだけの雪が積もった。
「困るんだよう、旦那。酒も飲まねえで泣くだけなんざ、よそでやっとくれ」
京町の一角に建つ飯屋の主が、困り顔で懇願した。
店の主が迷惑げに見つめる先には、すらりとした長身の男が机に突っ伏している。
「ううっ、もうちょっといいでしょお?帰ったって、ぼかあ家にひとりきりなんだもの……」
ぐすん、と鼻を啜り、何度もしゃくりあげた。
「おじさんしか喋る相手がいないんだから、もう少し相手してよお」
「出禁にしてやろか、本当に……」
泣き下戸なのか、別に事情があるのか、男は声から推定できる歳よりもはるかに、仕草が子供じみていた。
店の主が呆れ果てるのも無理はない。
「あんたくらいの美丈夫なら、女なぞよってくるだろうよ。たあく、何年そこで泣き続けりゃ気が済むんだい」
「今年でちょうど、十年と二年とちょっとさ……」
なんと、十年もこの迷惑行為を続けているらしい。たしかに店にしてみれば、出入り禁止したい思いも山々であろう。
どのような情けない面の男かと、蜉蝣は簾のごとく伸ばした髪の、僅かな隙間から覗いてみた。
ミミズの這いずったような黒髪の下には、それなりの男前な面がある。色白で眉目も麗しく、口元も大き過ぎず小さ過ぎずのいい塩梅。そのうえ、すました優男風なのだから、そこらの男は悔しがるものだろう。
「ぼかあね、寄ってきた蝶を捕まえる蜘蛛じゃないんだよ。自分で理想の子を捕まえに行く……」
「理想が過ぎるぜ」
親父は諦めて、釜戸のある部屋へと引っ込んで行った。
「……主、あの男は?」
台所を隔てる壁の奥で、包丁を研ぐ親父に、蜉蝣は問うた。
格子戸を介して、その髪に覆われた不気味な女を前に、親父が眉を顰める。
「この辺じゃ見かけん顔だな。度のお方かい」
「ええ、そのような所で」
「そうかい。あこそこでべそかいてる旦那は、この辺をうろついてる流浪のもんだ」
親父が煙たそうに見やる先では、件の男がうつ伏せになって机に沈んでいる。
「親父さんだって、きっと失恋の痛みを知れば泣きたくもなるよ。痛いんだから」
ぼやいた男が、羽織に包まれた右腕を持ち上げた。ところが、持ち上げた先に見えるはずの手指が、姿を現さない。本来、一の腕を包み垂れ下がるはずの袖の袂が、二の腕の関節を包んだまま行き場を失っていた。
これは言うまでもない。
二の腕から先を、絶たれているのだ。
「痛いんだよ」
男は今一度、繰り返す。
「のたうち回っちゃうんだからね」
「わかったわかった、見せびらかすな」
主はといえば、この男の、歪な腕を見慣れているらしい。
軽くあしらうと、
「飯も食わねえで」
と、愚痴を漏らした。
どうやらこの男、主を話し相手にするくせに水しか飲まないらしい。
おまんまの食いあげとはよく言ったもの。
客の相手をしてもびた一文にしかならぬのだから、主からしてみても迷惑に違いない。
「片腕の男」
蜉蝣の口から、ぼそり、と声がこぼれた。
「なんだって?」
細筆で引いた線すら途切れんばかりの小声に、主が聞き返した。そんな主をさておいて、蜉蝣は音もなく立ち上がった。
一歩、また一歩と男に歩み寄り、ついに、その向かいへ腰を下ろした。
「先日、京の入口で暴れたのは、貴方で間違いありませぬな」
先程とは打って変わって鮮明な蜉蝣の声に、男のべそっかきが止む。
「……」
しばし沈黙すると、男が顔を上げた。
睫毛の生え揃った端正な細面。それなのに目の奥に炯々と光る欲求のようなものには、人情味がない。獣が弱った子鹿を見つけたかのような、非情な目の輝きだ。
「どこかで会った?」
男が訊いた。
「朱雀門より出て一里の森の中、旅の若夫婦を襲った賊が一網打尽にされ申した」
「うん、いたね」
「それも、みなわずかな斬撃で首を掻かれ、息絶えていました」
「大人数いたからね、僕も焦った」
「あの若夫婦は他国大名より賜った秘役をになっておりました故、俗に扮した忍びに襲わせたのです」
「とすると、あれは君の傘下の者かい」
「ただしくは、我が家の」
「あ、そう」
俗に扮した忍び衆を皆殺しにしておいて、男の口調は軽い。
失恋ひとつに十年以上も涙を流し続ける男の面影はなかった。
「で、今になって僕に仕返しをしようっていうの?無理だよ、ぼかあほっといていたってそのうち死ぬんだから」
一人っきりで寂しい余生。
男は言い捨てて、そっぽを向いた。
「報復をしに来たのではございません」
「じゃあ」
「貴方に折り入って頼みがあるのです」
どうせ他人事だとばかりに、無関心に仕込みを続ける主をよそに蜉蝣は冴え渡る草笛のごとき声色で、
「我が
と、告げた。
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