血汐燃ゆるは現世のみ
ドサドサ、という音は、松の枝が折れて、積もっていた雪が落ちていく音だった。
唐突にできあがった雪の小山に、誰も驚かない。走らない。
花の御所の、奥。
一段高くなった席の真ん中に、三寅が座っている。その右斜め後ろには烏丸政時。左には、小柄の娘。
光沢を放つ衣裳に身を包む三人の顔を順に見てから、ゆっくりと頭を下げた。
「無沙汰をいたしました」
「義高殿。その目は……」
三寅が瞳を揺らす。顔をあげた義高は、うっすらと笑んだ。
「もう治らぬもののようですので」
潰れた右目は、白い布で覆ったままだ。
伸びかけの髪を結わえて折烏帽子をかぶり、松葉色の直垂を着て、腰に太刀を下げた姿に、どうにも不釣り合いなのは否めない。
「お見苦しいとは思いますが、新しき公方様に
一気に述べて、自身の後ろに視線を移す。
ひっそりと控えていた有王は頷いて、重たげな
「これは?」
「どうぞ、お改めください」
むっつりと政時が立ちあがり、蓋を開ける。中をのぞいて、笑い声を立てる。
「これはなんと。金馬重信ご自慢の大鎧ではないか。どこで手に入れたのだ?」
「他ならぬ、宇治で。義長公を追うてきたところを討ちました」
ほう、と政時が片目を細める。
義高は無表情に口を開いた。
「お役目を解かれたことを逆恨みして追うてきたのです。あまつさえ、その身を魔物に変じさせて、里の者を襲いはじめましたので」
そのきっかけを宇治の側が作ったことは、しれっととばして、告げる。
「義長公、そして、里の者を護るために討ちました」
「公はどうした?」
「奥方とともに、吉野へ向かわれましたが」
「知っていたか否か分かりかねるが――その時すでに将軍の座を追われた男であったが、見逃して良かったと考えているのか」
政時が、腹の底を震わせるような声で言っても。
「命を取れ、との宣旨はくだっていなかったでしょう?」
まっすぐ、睨む。
政時は顔を背ける。
今一人座っている娘は、何も言わない。ただ一度、義高を見て、そっぽを向いてしまった。
三寅はホッと息をついた。
「義高殿がおっしゃるとおりです。僕だって義長兄上に死んでほしいわけではないのです」
視線が合う。まだ十三の少年は、すがるような表情をうかべた。
「武力は人を護るために使われるべきものなんです。人と人で争うことよりも、苦しむ民を救うことの方が、ずっと大事です。この御所の、将軍の役目は、武をむやみに振るわせないことのはずだ」
「そのとおりでございます」
わずかに笑みの形を変えて、また頭を下げる。
「この宇治義高、公方様のお力になるために馳せ参じました。この先もずっと、魔物を斬り伏せるために刀を振るう所存にございます」
渡り廊下を歩きはじめたところで、呼び止められた。
「烏丸殿」
がっしりした体躯の、還暦ということを感じさせぬ威風の男だ。
茶と白の縞模様の直垂は皺ひとつなく伸ばされ、いかつい掌は太刀の柄にかけられている。
降り始めた雪が、吹き込んでくる中で。
割りこもうとする有王を片手で制して、まっすぐ体を向けなおす。
「まだ何か?」
「なに、儂だけが用があるのだ。公方様は関係ない」
烏丸政時は言った。
「訊ねたい。本当に、私怨なく討ったのか?」
「誰を?」
「とぼけるな、金馬重信にきまっていよう。その目の恨み、晴らさずにいられたのか?」
冴えた笑いだ。腹の底が、頭の中が冷えていくような。
「何が言いたいんだ、あんたは」
肩をいからせる有王をもう一度止めて、布の上から、潰れた右目に触れる。
「どんなに憎かろうと、奪いかえせるものではないでしょう。それに、左目は残っております。十分です」
すると、政時は笑うのを止めた。
「戦い続ける気はあるのか」
ギリギリと睨みつけてくる。
「それならば、将軍位に就く気もあるのではないのか?」
刺さりそうな視線を受けとめて、義高も低い声を出す。
「いやしい身分の者を母とする身ですと一度申し上げたはず。それに――もうご存じなのでしょう? 俺にはその血がないのですよ」
「おぬしが、とは言っておらん。真実の御落胤はどうしている」
目を細めて。さらに声を低くした。
「告げて、何か?」
「後顧の憂いは徹底的に断つ主義なのでね。義長を就ける時、他の兄弟に退いてもらったようにしようと思っているだけ」
ぶつかりあう視線をそのままに、背中に有王をかばう。
それから、義高は首をかしげた。
「十一年前、義平公が病に倒れられた頃に。宇治は焼打ちに遭いました」
太刀にかけた指先に力が入る。
「それを
すっと、政時は視線をずらした。
「直接手を下されたわけでなくとも、指示はされた」
半歩だけ、義高は踏みこむ。
「義平公の血を、ご自身ともつながりがある義長公と三寅様だけにするために、他の義平公の息子たちを死においやったのでしょう――違いますか?」
――そのなかで、兄さんが斬られて、母さんたちは焼け死んだ。
ちらりと、風にのって小雪が舞う。
肩に落ちたそれを払って。
「儂を、
政時がまた笑った。
「いいえ」
義高は目を伏せた。
「死んだ者は想い出の中にしかおりません。取り戻せませんので」
それから、背後で震える存在に目を送る。
「今を共に生きる者を思えば、あなたとは戦わないのが最善だ」
ほう、と政時が息を吐く。
「生き残ること、暮らすことを考えるなら、頭を下げることも厭いません。微力ながらも、助けにもなりましょう。
ですから、烏丸殿もどうぞ、宇治を襲うことなど金輪際ございませんよう」
「その利点はなんだ?」
義高はわずかに口の端をあげた。
「吉野を押さえてみせます。義長公を再び将軍の座へと騒ぐことのないよう――無駄な戦の起こらぬように」
政時はまた息を吐いて。手を叩いた。
「成せなければ、儂が手を出すまでもなく、おぬしたちは常世へ旅立ってくれるというわけだ。ならば結構。
死なぬよう、気を付けろ」
そのまま
雪だけが残る。
義高は、大きく息を吐いた。
「今は、死ねない」
炎から共に逃げおおせた有王――今生きる道を決める初めになった従兄の顔を、真っ直ぐに見つめる。
「まだ何か背負うつもり?」
そう苦笑いする従兄に笑いかえして、目を伏せた。
頭の中を、罪咎から
自分を頼って逃げてきた公暁や慈海も。世話をかけっぱなしでいる千坂夫妻も。
宇治で暮らしを営む、人々も。
そして誰よりも。
――帰蝶。
いつの間にか、心の
「常世へは、おまえの手を引いて行く」
一月ぶりの自室は
棚という棚が倒れ、切り裂かれた着物、破れた紙が散らかっている。割れた器も転がっている。
「何か使える物が残っているとは思えないけど」
巴が大袈裟に肩をすくめた。
真澄も溜め息を吐きだし、公暁は額にういた汗を袖で拭う。
「布だけ持って行こうかしら?」
「本気? まあ、
「なんかしら使い道はあるだろ。探せ探せ」
そう言って、使えそうなものを
他に探すものは一つだけ。
義長に送られた紙扇だ。てずから歌を書かれたもの。
それは幸い、折れることもなく、部屋の隅に転がっていた。広げれば、汚れもない。
笑う。握りしめる。今となっては、彼を感じられるのはこれだけだ。
「これで最後でいい?」
「大丈夫よ」
このまま門を出てしまえば、育ってきた、花の御所とはお別れだ。
庭は白い雪におおわれて、花もなにもない。さみしい風が吹く。
逃げ出した義長、彰子に代わり、この庭は誰が見てくれる、華やかにしてくれるのだろう。
そんな疑問は、すぐに
向こうから、きらびやかな衣裳の娘たちが歩いてくる。その真ん中は、濃紅の地に金糸の刺繍が施された打掛をまとう茶々だ。
視線があう。彼女は強張った顔で近づいてきた。
「誰の許しを得てここにいるの」
「公方様にいただいたわ。おかしい?」
にっこりと笑って見せる。
「わたしもここで育った身なんだから。帰ってきてもいいでしょう?」
「自分で出て行ったくせに……!」
茶々は唸る。
チクという胸の痛みのままに、帰蝶は眉を下げた。
「万寿を殺して、彰子様を追い出して、あなたは満足?」
一度、瞬いて。茶々はおおきく頷いた。
「ええ、とても。お蔭で今は、わたしが御所の女主人よ。
公方様に正室として迎えていただいたのだから、御所はわたしが好きなようにするの。気に入らないモノなんて、全部無くしてしまうのよ」
胸の痛みが大きくなる。唇を噛んで、見つめる。
「なによ。そちらこそ、何がおかしいというの?」
茶々は口許を歪めた。
「わたしは、奪われたから、奪ったのよ!」
ぶあつく塗られた
「わたしは、奪われたくない」
「そう。ならば、逃げるの?」
「ええ」
さようなら、とささやいて。胸を張って歩きだす。
外では、義高たちが馬上の人となって待っていた。
左手で手綱を握ったまま、右手を差し出してくる。
「早く乗れ」
重ねただけで、あっという間に引き上げられた。馬の首と、後ろで支えてくれる義高と。温かくてため息が出る。
まず、有王が駆け出した。それに、巴と真澄が続く。義高も走らせはじめて、最後に公暁がつく。
風をきって、一団は南へと抜けていった。
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