鎧を捨てよ影を出よ
足早に連れていかれた先は、彰子の居所だった。
思っていたより早い女主人の戻りに、下男下女たちがあたふたと走り回っている。
「湯殿を早く」
それだけ言い、彰子は奥の間へ消えていく。
渡り廊下の口に残されて、帰蝶と清姫は顔を見あわせた。
「勝手に帰ったら、怒られそう」
「そうでしょうね」
溜め息が夜空で凍えていくのを見届けてから、泥にまみれた髪をかきあげて、向きなおる。
頰がひきつるのを押しとどめながら告げる。
「助けを呼んできてくれて…… ありがとう」
「別に」
紅色の打掛を両手で押さえて、清姫はぷいっと視線をそらした。
「最後の最後で場所を案内しただけだもの、わたしは。逃げる時には、会場から廊下の途中まで、彰子様も義高殿もお出でだったのよ。茶々がね、舞台からわたしたちが言い争っているのが見えるって彰子様に進言していたんですって」
「そうだったのね」
「余計なお世話よね。踊るのに集中してればいいのに、あの子も」
清姫の頬がふくらむ。帰蝶は肩をすくめる。
「とりあえず、めでたい場で騒いでいたと二人で怒られましょうか」
「……ほとんど、あんたのせいじゃない!」
「なんですってー!?」
キィッと目尻をつりあげた清姫がつかみかかってこようとした瞬間に、中から呼ばれた。
「御台所様が、湯殿へ入れ、と」
二人着物を脱いで、湯気の充ちた中に入る。
「暖かい。暖かいのはいいんだけど……」
清姫がうめく。
「あんたと一緒ってのが複雑な気分だわ」
「そうね」
「小さい頃はお風呂もなにも一緒だったのはずなのに」
「ほんとうよね」
帰蝶もおおきく息を吐きだした。
白く曇った中とはいえ、互いの肌がよく見える。
ささやかな乳房、うすい腹、なだらかな線を描く細い腰。湯気の向こうの清姫に、唾を呑みこむ。
その彼女も目元をあかくして、こちらを見ている。
「いいわね、帰蝶。ちゃんと大きくなってて」
「茶々ほどじゃないから!」
「あの子は別格。とーっても大きいわよね。着物で
「揉んだらって、まさか自分で?」
「自分でやってどうするのよ! それは…… その、もちろん」
腕で胸を隠して、清姫はそっぽを向いた。
「男の人から、女の体ってどう見えるのかしらね」
そのまま告げられた言葉に、顔が熱くなった。
「そんな、正面から見せるものではないわ」
視線をはずして、モゴモゴと口の中だけで言い返したのだが。
「でも、見えちゃうでしょう?」
清姫は平坦に続ける。
「着物を脱いで、抱き合えば」
ぎょっとして、振り向いた。
「……清姫、あなた、もしかして」
「悪い?」
濡れた髪を揺らして、清姫は笑った。
「彰子様だって、万寿様を産まれるずっと以前には、公方様以外の男に体を許したっていうんだし。
でも、一緒にしないで。わたしは操を立てなきゃいけない相手がいるわけじゃないんだから」
ぎゅっと髪をまとめて、彼女はまっすぐに遠くを見つめた。
「夫婦になるなら、あの人と一緒になりたい。そう願ったの。契ったの」
ざば、と一際大きくお湯を流して、清姫は出て行く。
その背中が見えなくなってから、帰蝶は自分の体を見下ろした。
膨らんだ胸に、臍をまんなかにくびれた胴、まるい腰。もう子供ではない躰だ。
髪を洗った雫が太ももに落ちて、ふくらはぎへと流れていく。溜め息も零れた。
用意されていた衣裳に腕を通して、奥の間に向かう。
顔を出すと、一段高いところで横座りになって
「汚れた衣裳は洗って持たせます。今夜は戻って、ゆっくりお休みなさい」
「ありがとうございます」
両手を床につく。
顔を上げると、視線が合った。体を固める。
「そう緊張することもないでしょう。怒ることなどありませんよ」
クスクスと声を立てて、彼女は脇息にもたれなおした。
「今宵は安心はしました。おまえと義高殿がうまくいっているようで、ね」
笑い声が少しずつ大きくなる。頬が勝手に火照るので、横を向く。
「夜の訪いが少ないと聞いていましたが、そうね。それだけが全てではないのでしょうね」
「あの……」
「そうそう。今日は、昼にもね、義高殿が宇治に帰蝶を連れていく許しが欲しいとお出でになったのよ。もう何度も断っているのに」
養母は嬉しそうだ。
「言われるのは厭ではないのよ。義高殿のお気持ちが推し測れますからね。
妾が手放しくたくないから、連れて行く許しなど決して出せませんが」
「あの…… 彰子様」
そろり、呼ぶ。わずかに首を傾げて、笑みを唇だけにした彰子をまっすぐ見つめる。
ぎゅっと袖口を握りつぶして、帰蝶は言った。
「本当は茶々だったと聞きました」
「なにが」
「義高殿に嫁ぐのは、わたしではなく茶々のはずだったと……」
「そんなことはない」
するりと彰子は首を振った。
「誰の妄言か知りませんが、それはまっかな嘘。妾は、最初からおまえのつもりでしたよ」
瞬く。相手は首を傾げた。
「なにか、不安でもあるのですか?」
いいえ、と言いかけて、口を噤む。
一度顔を伏せて、また声をしぼり出す。
「それと…… わたしをなぜ、お手元に残してくださったのですか。宇治の所領に向かわせるのではなく、御所に留めおかれているのですか?」
彰子はほんの少しも
「おまえが大事だからに決まっているでしょう」
言いはなった。
「妾もね、鬼ではない。育てた娘たちみな、それぞれに幸せになってほしいと願っているのですよ。でも、そのなかで」
彰子が、ふかく笑った。
「おまえに一番に幸せになってほしい」
また瞬いた。どんなにまばたきをくり返しても、笑みが変わらない。
「一時の恋情などに振りまわされて、道を踏み外さぬようにね。義高殿の妻という立場は、富も名誉も、不足ないでしょうから」
「……一時の」
「そう。気の迷い、というものですよ。惑わされてはいけない」
本当に、笑みは変わる気配はない。
迷いはないのだ、と。
帰蝶は今度こそ黙り込んだ。
宴は御開きとなったのか、風の音しか聞こえない。
一人で歩く御所の中は、ひどく寂しい。
だから、前から勢いよく走ってきた影に思わず身をすくめたのだが。
「義高殿」
息を切らす相手が夫だと認めて、肩の力が抜けた。
向かい合って立ってから、彼は吹き出した。
「何かおかしいですか?」
彰子に借りた衣装の、丈がおかしかっただろうかと袖を振る。
「いや…… 嫁御殿がではない」
義高は、頭を振って、天を仰いだ。
「俺自身に、な…… いざ嫁御殿を前にすると、何と言うべきか考えてしまった」
うん、と唸ったあと。彼は両腕を伸ばしてきた。
「離して」
直垂の袖に、たくましい胸にくるまれて、また身を固くする。
それでも、耳元で告げられたのは、否の一言。
「どうして。どうして離してくれないの。わたしを抱けるの」
「俺の妻だから――俺が惚れた女だからだ。そう言ったはずだ」
くい、と顎を掴まれて、顔を向けさせられた。そのまま、口づけが繰り返される。
頰へ、額へ、唇へ。
きつく目を瞑る。
やっと止んだか、と薄目を開けたところで、体が宙に浮いた。
義高が、持ち上げたのだ。
「ちょっと! 降ろして!」
「降ろしたら、部屋に戻るつもりだろう?」
「当たり前でしょう?」
「あんな所で休ませられるか」
「……あんな、って」
抱き上げられたままキッと睨むと、見つめ返された。唇がゆっくりと動く。
「あの壁の文字はなんだ」
息を呑む。
はっきりと、胸の内に墨の文字が蘇る。
義高の瞳は揺らがない。
「俺が二度目に抱いた日だろう、書かれたのは。誤魔化すために棚を動かした。違うか?」
声も震えていない。
「なぜ、話さなかった」
顔を背ける。肩に置いた指先に力がこもる。
「話せ、帰蝶」
低い声にますます体が固くなる。
「なぜ俺に言わなかった」
「それは――」
頰がひきつる。喉から、ひゅう、という音が漏れる。
頭を振って、夫の首にしがみついた。顔を襟元にうずめる。
「どうしても言わぬつもりか」
微かに息を吐いて、義高は歩きだしたらしい。
揺れる、揺れる。
瞼もだ。隙間から、涙が勝手に落ちていく。それに合わせて。
「あなたに知られたくなかった」
夜風に、足音に紛れるように呟いたのに。
「くだらん」
声が返ってくる。
「俺が信用ならなかったか」
「そうじゃない」
首に回した腕に力をこめる。頰を肩にすりつける。
「ただ、恥ずかしかっただけ」
ちいさく笑う。
「わたしは、あなたを嫌っておきながら、あなたに嫌われるのを恐れていたのよ、きっと」
浮かんできた言葉を口にしたら、さらに涙が溢れた。
――醜い娘でしょう?
「やはり信用していなかったんじゃないか」
歩む速さを変えずに、義高も笑いはじめた。
「だが、おあいこだな」
え、と顔を上げる。
前を向いたまま、夫は言った。
「俺も、帰蝶に話せていないことがある」
じっと、その横顔を見つめる。
だが夫は、それきり黙りこくってしまった。
揺らされて、運ばれる。
長く息を吐いてからもう一度、帰蝶は義高の肩に顔をうずめて、目を閉じた。
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