人は醜き生きものよ
この男はなぜ笑っているのだろう、と思うと同時に、両手で着物の胸元を押さえた。
布地の下に、固くて冷たい感触がある。義高に持たされた懐剣だ。
それに
――早く逃げろ!
両足を動かし立とうとしたところで、頼信が両手を伸ばしてきた。
「近寄るな!」
叫んで、さらに後ろにずりさがる。着物の裾が泥をはねあげる。その
彼は小袖の裾を夜風になびかせながら、笑っていた。
両手は帰蝶に向けられているから、合わせは開ききってしまって、脚と下腹だけでなく、
「脱がないで! 見せつけないで!」
「え? ボクの体、そんなに見たい?」
「見たくないって言ってるのよ!」
「またまたー。いやよいやよも好きのうちって」
「言わないわよ!」
大声をあげるが、頼信はまだ笑っている。背中を冷たい汗がつたう。
「逃げないでボクといいことしようよ。ね?」
「しないわよ!」
「だって旦那に満足していないんだろ? そういう噂だよ」
「知らないわよ、そんな無責任な噂!」
魔の手から逃げようと、さがればさがるほど、灯りからは遠ざかっていく。会場が、人が遠い。
叫んでも聞こえない場所に行ったら駄目だ、と帰蝶は眉を寄せ、大きく息を吸った。
「誰か来て!」
一際高く叫ぶ。
両手の指をワキワキとうごめかす頼信は、すぐそこだ。頬が赤く、呼吸に酒精の匂いが混じっているのが分かるほどの、腕を伸ばせば届いてしまうほどの距離しかない。
きっと睨む。頼信が笑う。風が吹いて。
「そこまでになさい」
凛と声が響いた。
見向けば、渡り廊下に、彰子が立っていた。
後ろには侍女たちを従わせて、横には、まっかな顔をした清姫を連れて、そこにいる誰よりも豪華な打掛を身にまとった、御所の女主人が。
「み、みみみみ、
頼信の声が裏がえる。
「ご覧になりましたでしょう、彰子様!」
清姫の声も響いた。
「この金馬頼信という男は女と見たら手を出す、ろくでなしなんです。わたしは絶対嫁ぎませんからね!」
「……縁談の件は公方様や重信殿にも話すとしてですね」
白皙の顔に怒りをにじませて、彼女は頼信を見た。
「帰蝶から離れなさい。
は、ははは、ほほ、と笑うばかりで、頼信はピクリともしない。
その後ろから、ぬっと腕が伸びてきた。
襟首をつかみ、引っぱる。頼信の体はふわりと浮いて、後ろへとふきとんだ。
宙に浮いている間に、腕から小袖が抜けて落ちる。別の泥濘に体を落として、頼信はぎゃあと叫んだ。
「つ、冷たい! 土が冷たい!」
両手両足をばたつかせて起き上がった頼信は、ガタガタと震えはじめた。
その彼が、帰蝶の視界からふと消える。前に人が立ったからだ、と帰蝶は息を呑んだ。
義高だ。
いつもより織の細かい直垂の袖が揺れている。折烏帽子をかぶった頭は真っすぐ前を向いている。
「やめろ、えっち! おまえは男の服を脱がせる趣味があるのか」
「おまえがまともに着ていないからそうなるんだ。俺にそんな趣味はない」
頼信の甲高い声の合間に、義高の低い声が響く。
「ボクは女の服しか脱がせたくないぞ!」
「それは同感だな。だが、見境なしに脱がすものではない」
「綺麗だなって気に入った子を脱がせて何が悪い!」
「人の妻にまで手を出すのは駄目だ」
「仲が悪いくせに所有権を主張するのは卑怯だぞ!」
「違うと言っただろう? おまえは俺の話を聞け」
はあ、と大きな溜め息のあと、義高は太刀を抜いた。
その切っ先が静かに、頼信の顔の横に当てられる。
「な、なにを、をををを、す、する、ううう?」
「人の話を聞かぬ耳など、無用にございましょう」
義高の声はひどく静かだ。
「や、やめろやめろやめろお!」
刃が空を向く。星屑を受けて、しろくあわく輝いて、まっすぐに下ろされようとして。
「静まれ」
また、止める声がした。
それも、誰よりも上に立つ人の声で。
一斉に視線が向く。
彰子の向こうから、一際大きな行列。先頭には、御所の主人であり、武士を率いる立場にいる義長だ。
近習の金馬重信――頼信の父の姿も見える。
「公方様」
慌てることなく応じたのは義高だ。
「御前で失礼いたします。どうぞ、この不埒者を始末するお許しを賜りたく」
「義高の怒りはもっともだ。我も――そうだな。刀が握れたらそうしていただろうと思うことがある」
だが、と細い眉を弱弱しく下げて、彼は笑った。
「血は、駄目だ」
扇で口許を隠して、目だけで笑って、義長は言った。
その隣の重信が一歩出て頭を下げる。
「耳の一つなど、詫びに差し上げるべきかと思うが。私にはそれでも可愛い息子。ご容赦いただきたい」
「公方様のとりなしとあれば」
抜いた時と同じ静けさで、義高が太刀を下ろす。
太刀が鞘に収まった音が響くと、ざわざわと人が騒めきだす。
「せっかくの楽しみが台無しじゃ。その詫びに参れ。義高も、その重信の息子もじゃ」
義長の沈鬱な声に、別々の声がいくつも重ねられていく。
「義高殿」
帰蝶は進もうとする彼の袖を掴んだ。
ようやく振り向かれる。
常と変わらぬ無表情にほっと息が漏れる。
「あとで部屋に行く。待ってろ」
するりと指を解かせて。
素っ裸の頼信の首を掴んで立たせて、義高は歩いていく。
義長、重信、そして義高と頼信が去っていってから。
「情けない」
彰子が天を仰ぐのが見えた。
「気分が悪い。戻りましょう、清姫も、帰蝶も」
手招かれ、そろりそろりと立ち上がった。
着物が泥水を吸って、ひどく重い。
何もかもが凍てついてしまいそうな夜だ。
宴の喧騒などまるで届かない一角。
将軍夫妻の養い子たちはそちらに出向いてしまったようで、人影は一つしかなかった。
「まだ帰ってきてないよ」
妻の部屋の前、濡れ縁に腰掛けて足をぶらつかせた有王が笑う。
義高は首を振る。
「待ってろと言ったのに」
「なーんだ。フラれちゃったの、競ってば」
「違う」
「まあ、真面目に話すと、御台所に連れてかれたって話だよ。
「公方様から解放してもらえなかったんだ」
「気に入ってもらえてるんだねえ」
「さて、どうだろうな」
隣にどっかりと腰を下ろして、息を吐く。
「お疲れ?」
「……ああ」
「そっかー、お疲れ様! そんなところに悪いんだけどさ。見てよ」
有王が、持っていた燭台を部屋の中に向ける。
「どうにも不自然な所に棚があるからさ。模様替えしちゃった」
釣られて、視線を動かして、息を呑んだ。
いつからか、入った正面に置かれていた大きな棚。
それが端にずらされていて。
壁に大きく書かれた文字がはっきりと見えた。
「なんだこれは」
「僕も知りたい。悪趣味だよね、死ね、だなんて」
有王が奥歯を鳴らす。
「触ってみてごらん。そんな新しくないよ」
言われたとおり、指が伝える感触は、乾いていて、木の板と馴染んでいた。
「いつから、これを」
――こんなものを、隠して。
爪が割れていた日があった、と思い出す。
欠けた爪に気が付いた、泣き腫らした目にも気付いた。
それからどうしたと考えて、義高は唇を歪ませた。
「これでは、あの悪趣味な男と変わらないではないか」
だん、と床を蹴って立ちあがる。
すぐに、袴の裾をつかまれた。
「どこに行く気?」
「嫁御殿のところへ」
「あーもー! ここで待ってろって話なんでしょ? ジタバタしないで待ってなよ」
「待てない。早く会わねば――」
「ふっざけるなよ!」
有王は大声で叫んだ。
「たしかに、競にお嫁さんは欲しかったよ! 競に家族が欲しかったよ! でもそれを護るために競が疲れちゃうっていうなら、いらない!」
有王も立ちあがり、義高の直垂の胸元を掴んできた。
「どう考えても、面倒じゃないか、この子! 呪われるような子なんだよ!?」
「それがどうした」
「ただでさえ大変なものばかり背負っている競なのに、さらに面倒になるかもしれないじゃないか」
「それでも俺の妻だ」
冷ややかに見おろす。有王は眉の間に皺をきざんで、横を向いた。
「競はどれだけのものを、人を、護ろうとするんだよ」
「まだまだ、いけるぞ」
笑う。
「俺が死ぬまで、有王にも宇治の里にも、手は出させない。真澄や巴を、罪人として突き出すつもりもないし、公暁や慈海は追手からいつまでも匿おう。帰蝶も――あれが俺の妻だというなら生涯愛しぬいてやる」
向きなおってきた有王は両目に涙を浮かべていた。
「俺はやわくない」
言って、襟元を掴んでくる両手に、右手を添える。
「行かせろ」
だらん、と力の抜けた腕が下がる。
水干の裾が、有王の顔を隠してしまう。
「いつもいつも、強がるんじゃないよ、老け顔」
「泣くんじゃない、童顔」
かるく笑ってから、義高は廊下を引き返す。
最初は歩いて。そして、走り出す。
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