見るも触れるも厭わしい

 御所の夜。冬至が過ぎてもまだ長い暗闇の時間をどうにか短くしようという気持ちがすける夜だ。

 ならんだ松明が、建物やそれらをつなぐ渡り廊下、庭の木々を照らす。動きまわる人たちと並んだ膳も。

 笙の音が静けさをはらう。

 舞扇がひらめく。


 今宵の宴の席で舞を披露するように言われたのは茶々だった。

 彼女と、帰蝶たちより一つ年下の娘が四人。五衣いつつぎぬ唐衣裳からいしょうで装った彼女たちにそれを申しつけたのは、彰子だと聞いている。まだ縁組が決まっていないから、そのきっかけになるように、と。


 その彰子に付きしたがって宴の会場へ来た帰蝶は、いつもと同じように、上座の義長に頭を下げた。

 彰子を挟んだ反対側には、不機嫌な顔の清姫がなげやりに座っている。

 一段高く設けられた席には、義長と彼の息子の万寿。そして、万寿を正面で遊ばせている義高がいた。


「三寅殿は?」

 彰子が問うと、義長は長い溜め息を吐いた。

「来ておらぬ。断りの文ならきた」

「理由はなにと?」

「気分がすぐれぬ、と。寒いからな。良くない風邪をひいたなどでないとよいが。

 三寅が来ぬからか、政時叔父も来ておらぬ。もっと賑やかに開きたかったのだがな。おぬしの父の道之も来ておらんぞ」

「父は仕方ございませぬ。毎年冬のこの時期は、吉野の所領に戻っております。今年もです」

「そうだったなぁ……」


 そのやりとりの横でも、万寿はきゃっきゃっと声をたてて、跳ねていた。

 義高と両手を握りあって、ぽん、ぽん、ぽんと繰り返かえし弾んでいる。時折、ぽーんとおおきく跳ねさせられて、万寿の声がその瞬間は一際たかくなる。義高はそれが楽しいのかどうか言わないが、文句も言わず、繰りかえしている。


 一瞬だけ、彼はこちらを向いた。

 目尻が柔らかく、さがる。唇が微かな笑みを刻む。

 頬が熱くなる気がして、横を向いた。


「まあ、楽しめ。今日も旨い食事を用意させた」


 義長が手を振る。

 その後はもう、彼は目の前の膳と舞台の舞で笑うばかりだ。

 途中、近習の重信が顔を出すと、さらに手を叩いていた。今日、葛籠つづらから取りだされたのは、色鮮やかな刺繍を施された打掛だった。


 彰子もその輪へ入っていったので、帰蝶は立ちあがって、会場を出た。

 少しざわめきのうすい濡れ縁まで来て、ほっと息を吐いた。


――これだけの食事。どうやって用意されたのだろう。


 料理する手間もさることながら。素材はどうして手に入れたのか。

 大路で飢えて死んでいった人たちが、望んでも望んでも口にできなかったものが、何故こんなに多くあるのだ、と唇を噛む。

 自分が今着ている衣裳も。簡単には手に入らないはずだと、額に手を当てる。

 熱い。

 路地に転がっていた骸を、飛んでいくカラスを思い出す。


みやこのならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに」


――御所は富があつまる場所。わたしは恵まれている。

 捨て子だったといえど、飢えることなく凍えることなく、育ってこられたのだと、思いかえす。

 抱きしめられることを覚えてしまった体に、自分の両腕をまわす。


 溜め息を宙に投げ、帰蝶はそろりそろりと進みだした。今日は宴の場にいたくない、と。

 濡れ縁をたどり、渡り廊下に出る。


 琴の音がとおくなる。足元は闇に沈んでいる。


 くい、と打掛の裾が何かにひっかかった。

 まさか、と思う間もなく、水音を聞いた。

 つむじからうなじが濡れて、襟の後ろから忍び込んだ水が、背中を流れおちる。


――しばらく何もなかったのに!


 上を見上げる。廊下の梁にかかった縄の先に、木桶。

 ぽつ、ぽつ、とまだ雫が落ちる。頬にも落ちてきて、目をつむる。

 つめたい。

 体がぶるりと震えた。


「油断した……!」

 きっと顔をあげて、見回す。

 それで見つけた、隣の柱の影にいた娘を睨みつけた。

「清姫!」


 唐紅の、花と鶴が刺繍された袿。艶をもった長い髪。それらに飾られた、丸い鼻とつぶらな瞳の、本当なら険のない柔らかい顔。

 彼女は、泣きながら笑っていた。


「ほら、やっぱりそうなのよ」

「何がよ」

「勝手に決められた夫を迎えたら、困った目に遭うの。そうじゃなきゃ、困るの。幸せになったら困るんだから!」


 ぎゅっと眉を寄せる。清姫は急に涙を浮かべた。


「先代のご落胤がなによ。名家の嫡男がなによ。そんなのが必ずいい男だなんて限らないのに!」


 帰蝶は一歩下がった。清姫は踏み込んでくる。

 彼女の握りしめられた両手が、どん、と胸に叩きつけられてきた。


「あんたが幸せになるなんてゆるせない。押し付けられた婚礼なのに、知らなかった人を夫にしたのに、それで幸せになれるなんて思われちゃったから、わたしまで勝手な縁組を押し付けられちゃうでしょう!?」


 何度も、何度も、どんどんと叩かれる。

 ずき、とあばらが傷む。


「帰蝶のばか。なんで幸せになるのよ! さっき、宇治殿が笑ったのはあんたなんかを大事にしてくれているからでしょう!?

 あんたなんか、ずぶ濡れになって凍えているのがお似合いなのに!」

「落ち着きなさいよ!」


 どうにか拳を止めようと、帰蝶も両手を出した。

 手と手がぶつかって、甲を爪でひっかかれて、よろめく。きっと睨んで、清姫の頬を叩いたが、彼女はまったく止まらない。


「絶対、金馬家に輿入れなんかしない。わたしは、あの人と一緒になるんだから。一緒になるために、こんなに頑張ったんだから」


 まっかな顔で、拳を振り回す動きが、どんどん大きくなる。


「まさかとは思うけど、水桶は全部あんたの仕業?」

「そうよ! あの人と、頑張ったのに!」

「嫌がらせを頑張ってどうするのよ」


 言い返しながら、廊下を駆けまわる。

 同時に、ああと、思った。

 木登りなどするはずのない、実に娘らしい娘の清姫。彼女のために、想い人は枝に水桶をかけたのだろう、と。

 背の高い、がっしりとした体躯の男だった。


 廊下の隅に背を向けて、立ちどまる。

「いい加減にしなさいよ、清姫。そんなことしたって、何も変わらない」

「うるさいな! あんたばっかりいい目を見るな!」


 おおきく振り上げられた拳をかわしたら、そのまま背中から庭に転がり落ちた。

 ぬかるんだ土が音を立てる。顔にも手にも、泥が飛んでくる。

 清姫も続いて落ちてきた。けっして軽くない彼女の体が降ってきて、ぐえっと呻く。


 構わず帰蝶に馬乗りになった清姫は、こぶしを落としてくる。とっさに両腕で顔をかばえば、容赦なくその腕を叩いてくる。


 やめて、との声は届かない。

 そう思ったのに。

「助けて!」

 帰蝶はおろか、泣きさけぶ清姫よりも大きな声が聞こえた。


 清姫が動きを止める。帰蝶は土の上に押さえつけられたまま、首を巡らせる。

 渡り廊下の外、タブノキの幹の影から人が出てきた。着物の裾と袖をひるがえし、勢いよく、駆けていく。

 そのあとから、のっそりと別の影も出てきた。


「はぁ。逃げられちゃった。なんでだろ」


 そこそこの身長のわりには、猫背だからか、せせこましく見える人影。

 月明かりに照らされた彼にぎょっとなる。この御所の中にいるのだから、烏帽子も直垂もあるはずなのに、小袖一枚という有様なのだ。

 帯もほどけて、夜風に裾がはためいている。

 よろめきながら、こちらに歩いてくる。かたずをのんで見守っていたら、気が付かれたらしい。


「だ、だだだだ、誰だよ! そこにいるの!」


 清姫は呻き、帰蝶は溜め息を吐いた。

――金馬頼信殿。


 その彼の、ぐるぐると動いていた瞳が、ぴたっと定まった。へらりと締まりのない笑みを浮かべられる。

「なーんだ、君か。会えてうれしいよ」

「わたしは嬉しくない!」

清姫が指差して叫ぶ。

「いったいなんなのよ、その恰好は!」


 頼信は、片手で襟元を押さえていたが、小袖はだらしなく広がっている。閉じていないあわせから、べろんと弛んだ下腹と、脚にはえた黒く短い毛が見える。


「けがらわしい! 寄るな!」

「ボクだってそっちは呼んでない。邪魔だから、消えて」


 じとりと睨まれた清姫は呻いて、さっと身を翻した。落ちてきた廊下によじ登って、バタバタと走っていく。

 それでようやく、帰蝶は身を起こすことができた。

 頼信と視線があう。


「何か?」

 土の上にへたりこんだまま、じりじりと後ろにずった。

 頼信は湿った視線を送ってくる。ゆるゆると近づいてくる。


 ニタッと唇の端があがるのを見てしまった。

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