この眼に映れ現実よ
「
千坂が
過去の人が
都の
「あの人たちは」
「死にたくて死んだわけではなかろう。死霊と呼ばれる魔物は、あの中から生まれるのでしょうな」
笑いかけられてしまい、首を振る。こんな光景は想像していなかった、と。
「知らなかったのです」
「それを認められるなら結構」
千坂はますます笑った。
「この七条大路でまともな営みができているのは、金馬重信殿の屋敷のあるあたりだけだろう」
うながされるままに通りの先を見やって、成程たしかにとうなずいた。手入れされた塀がならぶところには、転がる骸がひとつもない。
「御所の周りにも、いませんでした」
「そうですよ。魔物も大柄なものはでない。富めるところから離れていくと、貧しい者、苦しんでいる者が増えていくのです。
もっとも、状況がここまでひどいのは、この二年ほどだ。夏は日照り、秋は洪水と、田畑の実りが悪くなった結果、口にするものが無くなり、餓えた」
「御所では餓えるなんてことなかったのに」
「そう。それがどうしてか…… 儂から答えを差し上げることはせぬが」
だが、と息を着いたうえで。
「
翁はまた諳んじた。
「人は一人では生きられませぬよ。まとう衣も、住まう家も、それを作り上げた人がいる。さらにその人を育てた人が。それを忘れてはなりませぬ」
頷いて、周りを見まわした。
生きている人だったはずの塊が、点々、転がっている。弔う人もいない亡骸が。
北風が吹きぬける大路には、葉を落とした木だけが並ぶ。
あおられた絹の被衣は、色あせて見えた。それを押さえる、爪の形が整えられた指先も。
「さて…… 戻りますか。大分歩いた」
傾いた日が照らす道を歩く。すぐ傍にカラスが降りてきて、カア、と鳴いた。
まっくろなくちばしが、屍をくずし、土と風に混ぜていく。
「ちなみに、宇治は豊かな所ですよ。実りを外に出すまいと、殿が睨みを利かせていましたからな。
逆に、あの里には都から逃げてきたものが集まってくるほどだ」
帰蝶は瞬いた。千坂は笑っている。
「殿がお連れになった、巴や公暁、真澄とはお話になったかな?」
「いいえ」
「あれらも逃げてきた者たちです」
笑みがすっと冷えて、またぬるくなった。
「宇治へ姫君を連れていくことを、御台所に禁止されたのは事実です。だが、儂も殿に、姫君を連れていくのはまだ早いと申し上げた」
どうして、と言いかけて口を閉ざす。千坂の笑いがふかかったから。
「どこまで受け入れられますか。暮らすための働きを、生きるための嘘を。舞や唄では救えないものがあるということを」
眸の奥には、帰蝶を試すような光がある。
「赦せなければ、宇治にはお連れできない」
何を答えればいいのかと、帰蝶は眉を寄せた。
だが、千坂は、はっはっは、と声をたてて笑うばかり。
「まあ、急ぐことはないでしょう。殿と姫君は大変仲の良い夫婦ですからな!」
いったい何の関係があるのか、とは問えなかった。
起きて、食べて。稽古をして、また寝て。五回繰りかえす。
雅やかな歌も、冬の庭のスイセンも、すべてが霞んで見えて、落ち着かない。
そんな日も最後になると思っていた、帰ると宣言された日。夕暮れになっても夫は顔を見せなかった。
――まだ宇治にいるのかしら。
御簾から顔を出して、濡れ縁を見まわす。何も変わったことはない。
「うそつき」
ぽつん、と呟いて、両手で頬をはたいて、天をあおいだ。
ぱらぱらとしろい雫をこぼしはじめた空。溜め息もそこに混ざっていく。
そのなかに、自分以外の声を聞いた。
――誰?
両隣の部屋を見る。御簾が揺れる様子もなければ、奥で灯りを
首をかしげ、部屋に戻ろうとしても、耳は一度気づいた音を拾いつづける。
だから、じっと目を凝らす。シイの木がたちならぶ向こう側。動くものを見つけた。
――魔物でなければ、いいか。
むっと唇をとがらせて、立ちあがる。綿入りの衣を被って、土の上におりる。ひんやりとした感触を踏みしめて、一歩一歩、音のほうへと向かう。
そうして、ツツジの木を回り、シイの木を抜けようとしたところで、気付く。
魔物ではないけど見てはいけなかったものだ、と。
一際太い幹に背を預けた男がいる。その広い胸に紅色の衣裳の娘がいる。
指先を絡ませて、見つめ合い、唇を重ねる二人が。
清姫、と唇が空回る。よろめいて、枯れた枝を踏んだ。
その瞬間、彼女は動いた。
顔をこちらに向け、瞳を開く。
離れたまま、お互いしか見えなくなって。
「どうした?」
背の高い男が、首を傾げ、見向いてきて。顔を
「そこで何をしてるのよ、帰蝶!」
清姫は叫ぶ。
「ちがうのよ、別に盗み見とかそんなわけじゃ……」
両手を胸の前で振りながら、後ずさったのだが。
「嘘つき!」
キンと響く、清姫の声に両目をつむる。
「喋りたければ、話せば? 縁談が決まった清姫は、想い人との逢瀬に夢中ですってね!
彰子様になんて思われようと平気なんだから。あの人だって、公方様の目を盗んで男とまぐわっていたっていうじゃない」
「……そ、うなの?」
そろり目を開いて、もう一度清姫を見る。
「知らなかったの? わたしが生まれる前のお話らしいけど。お体を許されるほど想いを交わし合った人がいたんですって」
「それは……」
知らない、聞きたくないと首を振ってから、睨んだ。
大きな男のたくましい腕の中に囲われたままの彼女。つぶらな瞳から涙が落ちた。
「勝手に決められた縁談なんか従わない。無理に夫婦と名乗っても、幸せになんてなれっこないんだから。
彰子様自身がそう証明してるじゃない。あんただってそうでしょう?」
一歩身を引いて。首を振る。
――わたしと義高殿は。
慌てて、身を翻した。
紫色が濃くなった空気をかきわけて走る。
部屋の前に人がいる。
「義高殿!?」
呼べば、彼はすぐに振り向いた。
「居なかったから、驚いた」
そう答えた彼の着ている直垂は、すこしよれている。折烏帽子の下の髪も
正面に立つ。
帰蝶より背が高いから、見上げなければいけない人。切れ長の目に、きりりと締まった眉の、表情を揺らがせない人。
ゆっくりと、帰蝶に右手を伸ばしてきて、頬に触れてきた。
「遅くなって、すまなかった。おまけに土産もなにもないのだが」
「いらない」
つい、口をついて出た言葉に、帰蝶は身を退いた。
――違う、そんなことを言いたいんじゃない。
帰ってきてくれた、と。それだけを言いたいのに、と勢いよく頭を振る。目の端が熱くなる。
溜め息が聞こえたので、横をすり抜けて部屋に飛び込んだ。
床にへたりこむ。
「嫁御殿」
ひくい声が近づいてきた。体が奥底から震える。
「また俺を避けるのか?」
後ろから伸びてきた腕が、体に絡みつく。息が止まりそうだ。
だから、後ろに倒れる。支えられる。顎を固い指先でつかまれて、顔を動かされた。
義高の顔が近くに見える。熱を帯びた瞳も。
まっすぐに見つめかえすこともできずに、帰蝶は目を閉じた。
*部分 鴨長明『方丈記』より
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