この眼に映れ現実よ

築地ついじのつら、道のほとりに、ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさきこう世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり *」


 千坂がそらんじた文章は帰蝶も知っている。

 過去の人がしるした飢饉の有様。それが今また広がっていると伝えたいから口にしたのだろう。


 都の大路おおじ。人も牛車も、いくらでも並んで通れそうな幅をもつその両脇には、破れた壁、荒れた屋敷が並ぶ。崩れたおれた人の影も。


「あの人たちは」

「死にたくて死んだわけではなかろう。死霊と呼ばれる魔物は、あの中から生まれるのでしょうな」

 笑いかけられてしまい、首を振る。こんな光景は想像していなかった、と。

「知らなかったのです」

「それを認められるなら結構」


 千坂はますます笑った。

「この七条大路でまともな営みができているのは、金馬重信殿の屋敷のあるあたりだけだろう」

 うながされるままに通りの先を見やって、成程たしかにとうなずいた。手入れされた塀がならぶところには、転がる骸がひとつもない。

「御所の周りにも、いませんでした」

「そうですよ。魔物も大柄なものはでない。富めるところから離れていくと、貧しい者、苦しんでいる者が増えていくのです。

 もっとも、状況がここまでひどいのは、この二年ほどだ。夏は日照り、秋は洪水と、田畑の実りが悪くなった結果、口にするものが無くなり、餓えた」

「御所では餓えるなんてことなかったのに」

「そう。それがどうしてか…… 儂から答えを差し上げることはせぬが」


 だが、と息を着いたうえで。

みやこのならひ、何わざにつけても、みなもとは、田舎をこそ頼めるに、たえて上るものなければ *」

 翁はまた諳んじた。


「人は一人では生きられませぬよ。まとう衣も、住まう家も、それを作り上げた人がいる。さらにその人を育てた人が。それを忘れてはなりませぬ」



 頷いて、周りを見まわした。

 生きている人だったはずの塊が、点々、転がっている。弔う人もいない亡骸が。

 北風が吹きぬける大路には、葉を落とした木だけが並ぶ。

 あおられた絹の被衣は、色あせて見えた。それを押さえる、爪の形が整えられた指先も。



「さて…… 戻りますか。大分歩いた」


 傾いた日が照らす道を歩く。すぐ傍にカラスが降りてきて、カア、と鳴いた。

 まっくろなくちばしが、屍をくずし、土と風に混ぜていく。


「ちなみに、宇治は豊かな所ですよ。実りを外に出すまいと、殿が睨みを利かせていましたからな。

 逆に、あの里には都から逃げてきたものが集まってくるほどだ」


 帰蝶は瞬いた。千坂は笑っている。


「殿がお連れになった、巴や公暁、真澄とはお話になったかな?」

「いいえ」

「あれらも逃げてきた者たちです」


 笑みがすっと冷えて、またぬるくなった。


「宇治へ姫君を連れていくことを、御台所に禁止されたのは事実です。だが、儂も殿に、姫君を連れていくのはまだ早いと申し上げた」


 どうして、と言いかけて口を閉ざす。千坂の笑いがふかかったから。

「どこまで受け入れられますか。暮らすための働きを、生きるための嘘を。舞や唄では救えないものがあるということを」

 眸の奥には、帰蝶を試すような光がある。

「赦せなければ、宇治にはお連れできない」


 何を答えればいいのかと、帰蝶は眉を寄せた。

 だが、千坂は、はっはっは、と声をたてて笑うばかり。


「まあ、急ぐことはないでしょう。殿と姫君は大変仲の良い夫婦ですからな!」


 いったい何の関係があるのか、とは問えなかった。



 起きて、食べて。稽古をして、また寝て。五回繰りかえす。

 雅やかな歌も、冬の庭のスイセンも、すべてが霞んで見えて、落ち着かない。

 そんな日も最後になると思っていた、帰ると宣言された日。夕暮れになっても夫は顔を見せなかった。


――まだ宇治にいるのかしら。

 御簾から顔を出して、濡れ縁を見まわす。何も変わったことはない。

「うそつき」

 ぽつん、と呟いて、両手で頬をはたいて、天をあおいだ。

 ぱらぱらとしろい雫をこぼしはじめた空。溜め息もそこに混ざっていく。


 そのなかに、自分以外の声を聞いた。


――誰?


 両隣の部屋を見る。御簾が揺れる様子もなければ、奥で灯りをけた気配もない。ならば庭に人がいるのかと息をついた。

 首をかしげ、部屋に戻ろうとしても、耳は一度気づいた音を拾いつづける。

 だから、じっと目を凝らす。シイの木がたちならぶ向こう側。動くものを見つけた。


――魔物でなければ、いいか。


 むっと唇をとがらせて、立ちあがる。綿入りの衣を被って、土の上におりる。ひんやりとした感触を踏みしめて、一歩一歩、音のほうへと向かう。

 そうして、ツツジの木を回り、シイの木を抜けようとしたところで、気付く。

 魔物ではないけど見てはいけなかったものだ、と。


 一際太い幹に背を預けた男がいる。その広い胸に紅色の衣裳の娘がいる。

 指先を絡ませて、見つめ合い、唇を重ねる二人が。


 清姫、と唇が空回る。よろめいて、枯れた枝を踏んだ。


 その瞬間、彼女は動いた。

 顔をこちらに向け、瞳を開く。

 離れたまま、お互いしか見えなくなって。


「どうした?」

 背の高い男が、首を傾げ、見向いてきて。顔を強張こわばらせた。

「そこで何をしてるのよ、帰蝶!」

 清姫は叫ぶ。

「ちがうのよ、別に盗み見とかそんなわけじゃ……」

 両手を胸の前で振りながら、後ずさったのだが。

「嘘つき!」


 キンと響く、清姫の声に両目をつむる。


「喋りたければ、話せば? 縁談が決まった清姫は、想い人との逢瀬に夢中ですってね!

 彰子様になんて思われようと平気なんだから。あの人だって、公方様の目を盗んで男とまぐわっていたっていうじゃない」

「……そ、うなの?」


 そろり目を開いて、もう一度清姫を見る。


「知らなかったの? わたしが生まれる前のお話らしいけど。お体を許されるほど想いを交わし合った人がいたんですって」

「それは……」

 知らない、聞きたくないと首を振ってから、睨んだ。


 大きな男のたくましい腕の中に囲われたままの彼女。つぶらな瞳から涙が落ちた。


「勝手に決められた縁談なんか従わない。無理に夫婦と名乗っても、幸せになんてなれっこないんだから。

 彰子様自身がそう証明してるじゃない。あんただってそうでしょう?」


 一歩身を引いて。首を振る。

――わたしと義高殿は。

 慌てて、身を翻した。



 紫色が濃くなった空気をかきわけて走る。

 部屋の前に人がいる。


「義高殿!?」

 呼べば、彼はすぐに振り向いた。

「居なかったから、驚いた」

 そう答えた彼の着ている直垂は、すこしよれている。折烏帽子の下の髪もほつれていた。


 正面に立つ。

 帰蝶より背が高いから、見上げなければいけない人。切れ長の目に、きりりと締まった眉の、表情を揺らがせない人。

 ゆっくりと、帰蝶に右手を伸ばしてきて、頬に触れてきた。


「遅くなって、すまなかった。おまけに土産もなにもないのだが」

「いらない」


 つい、口をついて出た言葉に、帰蝶は身を退いた。

――違う、そんなことを言いたいんじゃない。


 帰ってきてくれた、と。それだけを言いたいのに、と勢いよく頭を振る。目の端が熱くなる。


 溜め息が聞こえたので、横をすり抜けて部屋に飛び込んだ。

 床にへたりこむ。


「嫁御殿」

 ひくい声が近づいてきた。体が奥底から震える。

「また俺を避けるのか?」

 後ろから伸びてきた腕が、体に絡みつく。息が止まりそうだ。


 だから、後ろに倒れる。支えられる。顎を固い指先でつかまれて、顔を動かされた。

 義高の顔が近くに見える。熱を帯びた瞳も。

 まっすぐに見つめかえすこともできずに、帰蝶は目を閉じた。



      *部分 鴨長明『方丈記』より

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