亀の甲より年の功
「君がこっちに来たの?」
有王の裏返った声に、帰蝶はつい頬をふくらませた。
だが、彼の言うことも、もっともだ。婚礼をあげて半年。今日初めて、義高が逗留している建物に来たのだから。
帰蝶や他の娘たちの部屋がある、また彰子や義長が居所としている建物とは逆の、花の御所のなかの北のほう。趣の違う場所だ。
庭は、楽しむための花を植えるよりも、体を動かすための広さを保つことを優先している。今も、北風の中に肌を晒し、刀を振るっている者が何人もいる。
風の中には、あまり心地よいとは言えぬ匂いも混じっている。その元は厩舎だ。並ぶ馬が飼い葉を食んでいるのが見える。その体を洗ってあげる人も。
その人々の衣装はどことなく
そんな、御所に集った武士たちが住まう一角。
「何しに来たの?」
有王が首をかしげ、彼の後ろに立っていた女が吹き出した。
「何の用にしても、行き違いにならなくて良かったわよね」
ねえ、と二人が頷く。
その彼らは今、鎧兜で身を固め、騎馬の手綱を引いている。後ろにつづく、年嵩の男も、禿頭の大男も、義高もそうだ。
「出かけていたの?」
「街へ――日に一度は必ず、外を見回れというご指示故に」
なにのために、とは問わない。将軍の下にいる武士の役目なのだと承知しているから。
彼らは厩舎に馬を預けると、その宛がわれているらしい一室へ向かい、弓や薙刀を下ろす。
「僕ら、このまま着替えるんだけど」
ついていったらまた有王に笑われて、はっとした。
「見たい?」
「遠慮します!」
叫ぶ。
義高がきょとんとしている。
――そんな、いつもいつも見せつけなくていいから!
致し方なく、帰蝶は庭へ出た。
風にあおられた柚葉色の
育ってきたところとは違う場所。
婚礼をあげた後もなお、彰子が手元においてくれたことが大事にされていることの証だというのが身に染みる。
ふと、清姫の縁談話を思い出した。
彼女は『嫁ぐ』のだと
つらつらと考えていたら、砂利を踏む音が近づいてきた。
振りむく。直垂姿の義高がいる。その後ろには初老の男が一人。
「なにも、立ちっぱなしでいることもないだろうに」
と、彼に手を引かれる。
庭のあちらこちらには、手ごろな大きさの岩も多く、その一つに座らされた。
ひんやりと、冷えた感触。指先も冷たくなっている。
「何の用事だ?」
「いいえ。別に」
帰蝶は、義高から目をそらした。
特段、急いで会わねばならぬ理由はなかったのだ。ただ、いつも来てもらっているからと思っただけで。
また何も言えなくなる。だが、義高は呼んでくる。
「嫁御殿。紹介しなければならないのだが」
「どなたを……」
向きなおって、瞬いた。
義高の後ろに立っていた初老の男がゆっくりと腰を折ってきたのだ。
「
折烏帽子に落ち着いた栗色の直垂を着て、腰には太刀を下げた男。体は決して大きくないが、がっしりとしている。声も渋く、ゆっくりと響いた。
「奥方にはお初にお目にかかる」
「お、奥方」
呼びかけに、目が回るような気がした。
爺は朗らかに笑う。
「奥方にござろう。儂はこの半年、宇治の里で留守を預かっていたが、婚礼の話はしっかり伝わってきている。いつか里に顔を出されることもあるのかと、皆で気にしていた」
顔が熱を帯びる。ぶんぶんと頭を振って追い出して、義高を見上げた。
彼は常どおりの無表情だ。
「俺の…… そうだな、お目付け役だ。義平公が付けてくださった」
千坂はゆっくり頷く。
「それまでは、義平公に近習としてつかえ、都に居を構えておりました。殿が元服の前後一年ほどを都で過ごされた時は、儂が預かった」
「一応、その前からの付き合いではあるんだが」
「さよう。殿のことも生まれた時から存じあげている。元服の直前に義平公が亡くなって、子もそれぞれに活躍の場を定めた頃合いだったので、ちょうどよいと思いましてな。都の邸は手放して、今は妻と宇治に住んでいる。
だというのに、急にお呼び出しを食いましてな。まいったまいった」
カラカラと笑うが、そう困った様子もない。先ほどの話のとおりなら御所の中は慣れているのだろう。
「しかし、御所も様変わりしましたな。義長公のお考えがよく出ている」
「そう…… ですか?」
ずっとここで育ってきたから、そういうものなのだと思っていたが、千坂は首を振った。
「花が植えられているところが増えた。十年前は義長公や今の御台所の周囲だけだったと記憶している」
そして、と笑いが続く。
「我々のような武士がいられる場所が狭くなったな。この辺りだけのようだ」
「そういうものだと俺も思っていたが」
「いいえ、違いますな」
義高は珍しく、ふうん、と息をついて。それから帰蝶に見向いてきた。
「嫁御殿」
「なんでしょう?」
「俺は明日から。宇治に戻る」
「……え?」
間抜けた声が出た。
瞬く。何故、という言葉が舌の上で空回る。
「急ですまない。おっさんが来たのは呼び出されたからなんだが、知らせも運んできてくれて」
「里の者が一人、亡くなったのですよ」
宇治の里に長く住んでいた
「俺が、弔ってやらねばならん」
眉を寄せて、夫である青年は真っすぐにみつめてきた。
「本当は、連れていきたいんだ」
「無理です」
「そう…… だろうな。御台所にも以前、連れ出すことは認めないと釘を刺された」
かすかに、ほんとうに小さく、義高は笑んだ。
つい、袖の端をつかむ。
「五日で戻る。有王と公暁を連れていくが、巴と真澄は置いていく。千坂のおっさんもこちらに残るから、何かあったら、頼ってくれ」
翌朝。日が昇る前に、彼は騎乗の人になっていた。
「見送りなど良かったのに」
「いいえ」
交わしたのはそれだけ。あっという間に三騎とも霞のむこうへ。
はあ、と息を吐き出すと、それもしろくけぶる。
昨日と同じ被衣を被り、小袖の下には何枚も着こんでいるのに、体は芯から冷えていく。
両手の指を絡ませる。ぎゅっと目を閉じる。
馬で駆ければ半日で着くという。近いのか遠いのか、よくわからない。
ただ、ひりつく気持ちを持てあます。
「あーあ。俺は二度寝しようかな」
年嵩の、真澄と名乗った男が背伸びをした。
「わたしものんびりしてようかしら。殿がいないのに、魔物退治に行けとか言われたらお断りよ」
女武者の巴もうなずいて、二人は建物へと引きかえしていく。
帰蝶は残っていた千坂を振りむいた。
彼はにっこりと、笑ってきた。
「姫君から見た義高殿は、ずっとあんな調子か」
「ええ……」
戸惑いながらうなずくと、千坂は吹きだした。
「いったいどんな夫婦になっているのかと思えば、大変仲良くなられたようだ。祝着至極」
「そう、ですか?」
「仲良いでしょうに。今、姫君はとても心細そうな顔をされている」
え、と呟いて、動きを止めた。
千坂は豪快に笑っている。
「ともに過ごすのが当たり前となっていなければ、そういう顔にはなりますまい。殿は実に真面目にやってこられたようだ。
義長公にもよく仕えられているようで、この爺は嬉しく思いますな。本来は書を読むよりも、田畑を耕し、野山を駆けるほうが性に合う人だというのに」
だが、と一度言葉を区切って。
「そんな田舎暮らし、姫君にはつらかろう。御所から出たことのない姫君には」
さらに千坂は笑みの形を変えて、言った。
「都も、御所の外はひどい有様。ご存じかな」
帰蝶は瞬く。
ゆっくりと彼は言葉をかけてきた。
「姫君。今日はこの爺にお付き合いいただけますかな?」
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