なくしたものを夢にみる
濡れ縁で、娘同士が言いあらそっている。
木枯らしの中に反響する声に、庭師や掃除女が、チラチラとそちらを見やる。だが、誰も止めに入ることはない。
帰蝶もまた、躊躇った。
――わたしが行ったところで何が変わるわけでも。
だが。一人が肩を押され、転がされるのを見て、さすがに眉をつりあげた。ぎゅっと懐を、着物の上から中に忍ばせた懐剣を触って。つかつかと、庭の方から寄っていく。
「何をしてるの」
できるかぎりひくめた声に、濡れ縁にいた全員が振りかえった。
床に片手をついて震えている娘も顔をあげる。唐紅の打掛を着た清姫だ。
「何もないわよ!」
反対の手は己の顔に添えてある。指の隙間からは腫れた頬が見える。
目の端には涙が滲む。何度も目を
残った娘たちはクスクスと視線をかわしあった。
「いやね。一人、不幸ぶっちゃって」
帰蝶はぐるりと見まわした。みな年頃の娘たち――帰蝶や清姫の一つ上だったり、年下だったりする、彰子の養い子たちだ。
華やかな衣裳の染も刺繍もかすむ、晴れやかな笑顔を交わし合っている。
「嫁ぎ先が金馬頼信殿ってのが気に食わないんですって」
「しかたないわね。あの人、色狂いなのよ」
「気に入った娘には所かまわず手を出しているっていうもの。この間の名月の宴でも、下女が一人ボロボロにされたって」
娘たちは細かく分かれて散っていく。
誰もいなくなって、立ったままだった帰蝶は眉をよせた。
――そうか。輿入れが決まったから、わたしではなくて、清姫に嫌がらせを始めたのね。
紙屑が投げつけられているのも見た。食事時に一人だけ、皿を抜かれていた様子も。
舞の稽古の場でも、あからさまに笑われている。彰子が気づくのではないかとヒヤヒヤするほどに。
――自業自得よ。
ギリギリと奥歯を噛みしめて、帰蝶はそっぽを向いた。
見たくないモノを見ないためだったのに、別のことが見えた。
並んで座る中に一人、体を曲げている娘が。
倒れかかりそうになったのを、隣の娘が袖で払っている。しぶしぶ立ち上がった。
「茶々?」
伏せている娘の肩を揺する。ゆらりと向けられた彼女の顔は血の気がまるでない。
「どうしたの?」
「その…… おなかが、いたくて」
「なんで無理して稽古に出てくるの。先に戻る?」
「一人では無理」
「しょうがないわね」
ひそひそ話していたはずなのに、彰子が睨んできた。
「静かにできないものですか」
「いいえ、違うのです。彰子様――」
帰蝶も笑い声を浴びながら、真っすぐに告げると、ほうっと溜め息をつかれた。
「ならば良いでしょう。帰蝶、茶々を部屋に連れていっておあげ」
「ありがとうございます」
「稽古は続けますよ。清姫、あなたはもう残り少ない。もっと身を入れておやり――」
彰子が、部屋の中央で止まっていた清姫に言う。娘たちの、視線のかわしあい、零す笑みがはげしくなる。
――いい気味、なのよ。
胸の奥がざらつくのをそのままに、帰蝶は茶々の手を引き始めた。
「ちょっと、ちゃんと歩いて」
「無理――おなかいたい」
茶々は渡り廊下の途中でへたり込んで、しくしくと泣きはじめた。
傍にひざをつく。
つん、と月の障りの匂い。ああ、と頷いて、天をあおぐ。
「歩けないといわれても、さすがに運んではあげられないから」
「そうよね…… わたし太っているから」
「わたしより小さいのに何言ってるのよ」
「本当だもの」
溜め息をはいて、茶々からも目をそらす。すると、渡り廊下の向こうに見慣れた影をみつけた。
「義高殿!」
呼ぶ。
いつもの時間だから、と帰蝶は息を吐いた。自分の部屋に来る途中だったに違いない、と。
向こうは、いつもの直垂、折烏帽子の姿だ。特に焦るでもなくゆっくりと歩いてきた。
「どうした?」
茶々を挟んで反対側に膝をついて、彼は首を傾げる。
「お恥ずかしいのです…… お腹が痛くて動けなくて」
答えたのは茶々だったのだが。
「なるほど」
義高はすっと帰蝶を見てきた。涼やかな視線に、心臓が跳ねる。
「送っていって差し上げればいいのか?」
「そ、そうね……」
「では、行き先を教えてくれ」
茶々の背に、膝裏に腕を回して。義高は彼女も軽々と抱きあげた。
ずきん、とまた心臓がうなるのを、顔を背けてやり過ごす。
「む、むこうよ…… わたしの部屋とは、反対側」
さわさわと、落ち葉が舞う中を進む。
茶々の部屋は、日当たりのいい一角にある。その手前の濡れ縁に、義高は茶々を座らせた。
頬をあかくした茶々が、かすれ声で礼を述べる。大きな瞳は潤んでいる。
ズキズキ、体の奥がかきまわされる。
「わ、わたし、お湯をもらってくるわ」
身を翻しかけたのに、腕を掴まれた。
「俺が行こう」
表情の一切変わらぬ義高だ。
「嫁御殿が付き添ってやるべきだろう」
「帰蝶」
義高がいなくなるなり、茶々が細い声をかけてくる。
「義高様ってお優しいのね」
「そ、そうね……」
唇を噛んでから、振りかえる。
「それで、あんたはどうするの?」
「もう、寝たいわ」
「じゃあ、お布団を用意してあげるから、待って」
断って、部屋に踏み込んだ。
もとは公家の姫君だったというだけあって、室内は小さくて雅やかなもので溢れていて、奥には帳の掛かった寝台がある。その中に綿入りの夜着を広げ、手招いた。
そんな頃には義高が、湯を張った盥をもって来たのだが、またさっさと去っていく。
「体拭きたい」
「分かったわよ、手伝ってあげるわよ」
お湯の中に手を入れて、布巾を絞る。それを差し入れようと中を覗いて。
帰蝶は息を呑んだ。
帳の蔭で、茶々が一糸まとわぬ姿になっていた。
薄い布を透ける日の光の中で、しろい肌がかがやく。腰が、肩がまろやかな線をえがく。胸は重たげに揺れる。
目を逸らせない。
「太っているって言ったじゃない」
茶々は目元を朱にそめて、睨んできた。
「このおおきな胸、まるで牛みたい」
勝手に顔が熱くなる。
「帰蝶は、細くていいよね」
「そ、そうかしら」
「色もしろいし」
「しろいのはあんたも一緒でしょう? じゃなくて、見てごめんなさい!」
慌てて横を向く。
両腕を、自分の体に巻きつけた。着物の下はどんなになっていただろう、と考えるともっと顔が熱くなる。
「いいの。帰蝶には莫迦にされても仕方ないんだから」
聞こえてきた溜め息に、そろりとふりかえる。
「帰蝶は、いいものを全部もっていったじゃない」
茶々は瞳を潤ませていた。
「本当は、義高様に嫁ぐのは、わたしだったんだって。ほら――お
ぎゅっと心臓が縮み上がった。
「お家?」
「そうよ。捨て子だったあなたと、朝廷に出仕していたお父様をもつわたしだったら、先代様のご落胤に
でも、と茶々は弱々しく続けた。
「わたし、何もかもなくしちゃったみたい」
すっと、絹の寝間着の中にたわわな体は隠されていく。
「痛い」
「寝なさいよ、もう」
夜着の中で寝息をたてはじめた彼女を見とどけてから、部屋を出る。
周りの部屋にも、ちらほらと人が戻っていた。稽古は終わってしまったのだろう。
彰子には改めて詫びに行かねば、と思いつつ首をふった。落ち着かない、と。
ふと、木の間を抜けて走っていく影が見えた。
人だ。紅の衣裳の、娘。
――清姫?
顔が見えなかったが、間違いようはない。
瞬いて、目を凝らす。
彼女が走っていく先には、男がいる。背が高く、がっしりとした体躯の者だ。
だが、纏う草色の衣裳は着古されているようで、折烏帽子もおざなりな被り方だ。
彼がおおきく両手をひろげて。まっすぐに清姫は跳びこんでいく。
また体が熱くなる。
自分の部屋へと走った。
そして、良かった、と息をつく。
御簾が下げられた手前の濡れ縁、庭を向いて、義高は腰を下ろしていた。
「嫁御殿」
ふりかえった彼の低い声に、体の奥が疼いた。
足音をわざと立てて近づいて、ずどんと座りこんだ。
引き締まった肩がすぐ目の前にある。もたれかかれば、間違いなく支えてくれそうな、体が。
両手で顔を覆う。
「どうした」
「なんでもない」
額を、夫の肩に押しつけた。まだ噛みついた痕はのこっているのだろうか、と。
温もりがつたわってくる。顔をあげることは、とてもできなかった。
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