罪でなければゆるせない
さして広くない部屋に、七人もいるのだ。
他人の気配が近い。
寝息の嵐にときどき、歯ぎしりとうめき声、不明瞭な呟きが混じる。
帰蝶は真っ暗な中で、何度も寝返りをうって、何度も目を閉じなおした。
眠りがおとずれたのは、隣で横になっていた夫の腕にすがりつくことが叶ったあとだっただろうか。
御所に仕える武士たちが留まる建物の一角。
朝餉を腹に納めた後、帰蝶の正面にどっかと腰を落としたのは、女武者の巴だ。
「いじらしい。とっても」
にこりと笑いかけられ、目を丸くする。
「一人で耐えていたなんて、いじらしい以外のなにものでもない」
「はあ」
「でも、褒められたもんじゃないわね。
さ、白状なさい。何をされているのか」
唇だけで笑った巴が顔を近づけてくる。
身を退く。腕をつかまれる。
「壁の落書きだけじゃないでしょ?」
「前に僕が部屋に行ったとき、散らかってたのも、いたずら?」
帰蝶の背側に立った有王が、ほがらかな声で言う。
「針が床に落ちていたのも、そういうことなのだろう?」
部屋の反対から、義高のひくい声が追い打ちをかけてくる。
視線を泳がせたら、苦笑いを向けてくる千坂と目があった。。
部屋の入り口では、きちんと膝をそろえて座った大男の公暁が袖で顔を拭っている。その横で、着崩した格好の真澄が肩をすくめる。
帰蝶は溜め息を吐きだした。
「ぶっちゃけると、部屋を空けると物が壊されたり盗まれたりしてたってことでしょ」
「盗まれたとは限らないわよ」
むっと唇をとがらせたが、有王はニヤニヤと首を振った。
「覚えなく自分の物が消えていくんだったら、盗まれたでいいと思うよ。ねえ、元盗賊の真澄さん?」
「だけど、何度も同じ奴を狙うってのは盗み目的じゃねえよ。目ぼしいものは一度目で貰っちまうんだから」
真澄が笑い、頭をかいている。
「ま、いない間を狙われるというなら、いないふりをして張るしかねえんじゃない?」
「あー、やっぱり?」
隣に回ってきた有王に腕をひかれて、帰蝶は立ち上がった。
見た目の年齢は変わらない彼。並ぶと、視線の高さもさして変わらない。
じっと顔を見て、彼は首を傾げた。
「競、どう思う? 僕と帰蝶、同じくらいだよね? 背も、細さも」
二人で向けば、壁際に座っていた義高は首を縦に振った。
ニッと有王の口端が上がる。そのまま目は部屋の隅の大きな
その葛籠は公暁の背中へ。
彼を伴って部屋に戻る。
そろりと御簾をめくると、正面に『死ね』の大書き。
横にずらされた箪笥の引き出しは全てきっちり閉められていた。
また溜め息をついてから、公暁に入るように促す。
彼はまっかな顔で、床に膝をつき、部屋の真ん中で葛籠を下ろした。
「大丈夫ですか?」
「いや…… その…… 吾輩、女性の部屋に入ることなど、その……」
「経験ないんだってさ」
ひょこっと葛籠から有王が顔だけ出す。声はぐっと小さく抑えられていたが。
入り口の前に、大きな体の公暁が腰を下ろす。その影が部屋の中に伸びた。
「出ていいかな?」
「どうぞ。窮屈だったでしょう」
「ワクワクしただけだよ、平気平気!」
身軽に降り立った有王は、すぐに手を出してきた。
「さ、早く着物貸して」
入り口では、まっかな顔の公暁が、目を閉じてそれでも真っ直ぐに背筋を伸ばして座っている。
帰蝶も、唇を噛んだ。
「彰子様の物なのよ。大事に着て」
「走らなきゃなんとかなるよ」
笑いながら、彼は水干を脱いだ。袴も脱ぎ捨て、小袖一枚に。
帰蝶も、ままよ、と帯を解いた。薄緑の小袖と梔子色の地に藍色の糸で刺繍が施された打掛をそのまま有王に渡す。
渡された衣裳をまとい、角髪結いも解いて髪を背中側に真っすぐ流すと、有王の姿は背のたかい女子だと、遠目には言い切れそうだ。
「歩く時、すね毛が見えないようにしないとねー!」
「……気をつけてちょうだい」
軽く笑ってから、有王は表情を引き締めた。
「じゃあ、しっかり隠れていてね。すぐに引っかかるといいけど」
帰蝶自身は部屋にあった小袖と打掛に着替えて、頷く。
「行くよ、公暁」
「うむ……」
額から汗を流す公暁を連れて、有王が出て行く。
帰蝶は部屋の中、棚の陰だ。
日差しがとどかず、火の気もない部屋は、体が冷える。
だが、心臓は忙しないし、背中には汗がつたう。
――そんな簡単にひっかかるはずがないじゃない。
そう思っていたのに。
御簾をめくる音に身を固くした。
足音は、真っすぐに入ってくる。
声はしない――部屋の主の不在を問う声も、勝手に入ることを詫びる言葉もない。
息を吸って、止める。両手で口を覆って、耳は研ぎ澄ます。
まず、部屋の真ん中に置かれていた空の葛籠がひっくり返される音。それと、落胆らしき溜め息。
続いて、カタン、カタン、と引き出しが動く音。バサバサ、と布が放りだされる音。
シュルシュル、という衣摺れも響く。
袂に隠していた、黒い鞘の懐剣を取り出す。
静かに抜き放つ。
ひとつ、ふたつ、おおきく息を吸って。
飛び出して、背を向けていた人に飛びかかる。
「きゃあ!」
押し倒した人を下にして、転がる。刃を顔の横に突きつける。
藍色の打掛の袖がふくらんで、床に落ちた。
組みしいた人の顔を見て。
「茶々……?」
帰蝶は呆然と呟いた。
見上げてくる相手も唖然としていた。
「出かけていたのではないの?」
その右手には、帰蝶の櫛が握られている。ひゅっ、と宙を飛ばされる。
顔に向かってきたそれを叩き落として、帰蝶は叫んだ。
「あんただったの、いたずらしていたのは!」
「いたずら……? そうね、あなたから見たら、そうなるのね」
仰向けに床に押さえつけられたまま、茶々は、ほう、と息を吐いた。
「これくらい、大したことないでしょう?」
「何を言ってるの」
帰蝶は眉をひそめる。げほ、と茶々はむせた。
「……上から降りてくれる?」
「いたずらを止してくれるならね」
懐剣の刃をちらつかせながら、体をずらす。
起き上がった茶々はまたむせた。袖の下からは、扇が二本滑りだしてくる。
「扇を持ち出したりもしてたのね」
睨む。
「見つけたんじゃなくて、あんたが持って行ったから、返しに来れたんだ」
どれだけきつく見つめても、茶々の体は震えていない。
だが、長い睫毛は、ゆるゆると揺れた。
「一本くらい問題ないでしょう」
「そんなことないわ」
「でも」
と、茶々は視線を向けてきた。
「あなたにはいくらでも、何でもあるじゃない。綺麗な顔も、舞の腕も、素敵な衣裳も扇もなんでも。そのうえに、名高い武士の夫だなんて、どれだけ恵まれたら気が済むの?」
するりと開けられた瞳は、湿って淀んでいる。
「わたしはお父様を喪って、お母様や弟と離れ離れになって、こんなに不幸なのに」
右手が振り上げられる。咄嗟に後ろにさがる。だが、その手は床に叩きつけられた。
ギシっと転がりっぱなしだった扇が鳴いて、折れた。
「わたしだけ、こんなに不幸」
茶々がまた伏せた瞼から、すうっと涙が落ちる。
ポタン、と床に染みが広がると同時に、部屋の中で風が起きた。ぐるり駆け巡ったその中から、ぶわり、黒い影が浮き上がる。
――魔物だ。
帰蝶は悲鳴をあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます