手をはなしたらもどれない
だというのに、茶々は澄ました顔を向けてきた。何を驚いているの、といわんばかりの顔を。
「魔物は人間が産むのよ。苦しかったり悲しかったりすると産んでしまうの。
ほら、昔の物語にもいるじゃない。振り向かなくなった恋人を嘆いて、その男が見つめる美女たちをとり殺していた女の人が」
その顔を見かえしながら、ぎゅっと懐剣の柄を握りしめ、一歩下がる。
すこしずつ、すこしずつ、後ろにさがって、唸り声をあげて飛んできた影を避けようとしゃがむ。
ブン、と空気が切りさかれる音。壁が裂けて、御簾が落ちる。
それから黒い影は、わずかに昇って、天井ギリギリを漂いはじめた。
「あの人とわたし、一緒だと思うの。あったはずの名誉は奪われて。新しく与えられたものも、ことごとく、横から奪われて。本当に不幸だと思わない?」
御簾の切れ目から、北風が流れ込んでくる。その風にあおられて、茶々の髪が揺れる。
帰蝶は、部屋の端をじりじりと回って、風の入り口まで。
逃げだそうか、と視線を向けたら、外からも覗き込んできた人がいた。
「清姫!」
「なんなの、大きな声を出して――って、きゃああああ!」
清姫は悲鳴のあと、紅の袖で口元を覆う。
「魔物……! 魔物がなんで!」
ねえ、と視線を向けられて首を振る。
「逃げないの?」
それだけを喉から絞り出す。
「に、逃げたいわよ! 茶々、あんたは何をしているの!?」
「わたし? わたしはいつもどおりよ。帰蝶の物を壊そうと思ってたの」
「意味わからないんだけど!?」
「だって、ずるいんだもの。帰蝶も、清姫も」
座ったまま湿った視線を向けてきた茶々に、帰蝶も、清姫も息を呑む。
ぴくりともできなくなったところに、また、荒い足音が近づいてきた。
まず、清姫が振り向いて、息を吐く。
帰蝶も見向いて、笑った。
「義高殿」
清姫の前を抜けて、部屋に入ってきた彼を見上げる。
大きな手が腕を掴んできて、立たせてくれた。松葉色の袖が揺れて、帰蝶の手から懐剣を抜き取る。
「なぜ魔物までいるんだ」
小さな刃を鞘に納めながら、部屋の中をぐるりと見回して。彼は全く動じない茶々にぴたりと視線を当てた。
「魔物も――針も落書きもおまえの仕業か」
「針? なんのこと?」
「床に何本も針を撒いていたことがあるだろう?」
「それは知らない。だって、傷ついてほしいわけじゃないもの。
わたしが望むのは、わたしの物だったはずの物を奪うことだから」
ぴくり、義高は眉をはねさせる。清姫はきっと茶々を睨んだ。
「何よそれ。帰蝶の物を盗んでいたってこと?」
「帰蝶だけじゃないわ」
また髪を揺らして、茶々は微笑した。
「清姫からは好きな人を奪ってみたわ」
瞳に自らが産んだ黒い影を映しても、彼女の笑みは消えない。
「物や人だけじゃなくて、命も奪えるのかしら。この魔物で、人を死なせることはできるのかしら?」
まっすぐに、指先を義高に向ける。
「この人を死なせて。ほんとうは帰蝶の夫なんかじゃない人よ」
刹那、魔物が唸って飛ぶ。
体当たりだ。
体ごと吹っ飛んで、義高が庭に転げ落ちる。
だが、そこから脚を回して、彼は魔物を蹴り飛ばした。
すぐに起き上がる。
「また背中が痛い」
ぼそっと呟いて、左手を腰に下げた太刀にかける。
だが、抜くのではなく、鞘ごと腰から離すと、帰蝶に押し付けてきた。
「嫁御殿。持っていてくれ」
「どうしたの? 斬るのではないの?」
慌てた声を上げたのは茶々だった。
帰蝶も、太刀と懐剣を押し抱いて、息を呑む。
「抜くと煩い人がいる」
ゆっくり立ち上がった義高は、右の拳を左手に打ち当てて、指をゴキゴキと鳴らした。
「素手で殴ればいいんだろう?」
言うなり、走り出す。ゴリ、と音を立てて、魔物を殴り飛ばす。
部屋の中で茶々が悲鳴を上げる。
振り向けば、腹を押さえて、床に額を押し付けていた。
「どうしたの!?」
清姫が駆け寄る。帰蝶もだ。
二人で両側から支えようとすると、腕を跳ねのけられた。
「痛い! 触らないで!」
庭で、樹の幹に大きなものがぶつかったような音が響く。刹那、また茶々が叫ぶ。
「痛い! 痛い! でも、あなたたちなんか大嫌い! 助けなんかいらない!」
まっさおな顔を上げて、拳を振り回してくるので、身を退く。
「綺麗な帰蝶も、可愛い清姫も、大嫌い! 衣裳も、扇や履物も、みんなみんな、わたしから奪っていくんだもの!」
涙を流しながら、彼女は唾も飛ばした。
「それなら、想い人も夫も、わたしが奪い取ってやるんだから! 二人も不幸になればいいんだから!」
その茶々の襟元を、清姫が掴み、引き上げる。
「ちょっと待ちなさいよ! あんた、あの人に、わたしの好きな人に何をしたの!?」
「何も持たずに体を差し出しただけよ? とっても、あたたかかったわ」
「この、破廉恥!」
清姫の掌が、茶々の頬を張る。
乾いた音がして、茶々は笑みを浮かべた。
「残念だったわね、簡単に他の女を抱ける人で」
庭からはまた大きな音。
「痛い、痛い痛い、いたい……!」
喉と胸元を掻きむしって、茶々が甲高い声を続ける。言葉の最後は、ただの音だ。
「魔物が叩かれると、茶々も痛がるんだ」
は、と息を吐いて、帰蝶は立ち上がった。
「義高殿、やめて!」
濡れ縁に飛び出して叫ぶと、義高は振り向いてきた。
顎をつたう汗を左手でぬぐい、右手で魔物を押さえつけて。
「お願い、待って。茶々が苦しんで……」
帰蝶が叫ぶと、彼は肩を竦めた。
「ここで手を引くこともあるまいに」
それでも、微かに笑って、彼は押さえつけていた魔物を、そのままむんずと掴み上げた。
大股で部屋に戻ってくる。
ぶん、と音を立てて魔物を茶々に投げ返す。影はしゅるしゅると茶々の背中に吸い込まれていった。
また、部屋の外から悲鳴が上がる。
振り向けば、木の陰で一人、倒れるところだった。
濡れ縁の向こう、庭の木々の蔭、あちこちに人が集まってきている。
ざわざわと声が沸き立つ。
何本もの指が、奥の壁の文字を指す。
その前では、背中を丸めたままの茶々がぴくりともしなくなっていた。
気を失ったらしい。
その体を義高はためらいなく持ち上げた。
「どう…… するの」
「こうなったら、俺にどうにかできる問題ではないだろう?」
眉を寄せて、彼は息を吐いた。
「御台所のところに連れていく。先に、千坂のおっさんが話をしにいっているはずだし、有王も衣裳を返しているだろうからな。ここでの出来事は俺から申し上げる」
「いたずらのことを知ったら、彰子様は何とおっしゃるかしら」
「想像つかん。だが、全部話すぞ。構わないだろう?」
頷いて。
ふと、気が付いた。
「清姫は?」
「……さて?」
顔を見合わせる。帰蝶は肩を震わせた。
「先に行っていてくれる?」
見上げる。首を傾げられる。
「清姫を捜さなきゃ。だって、あの子の想い人は」
――茶々とも抱きあっていたんだ!
集まってきた警護の武士たちの間を抜けて、走る。
ぐるりと建物を回って、目指す部屋は一つ。
「清姫!」
飛び込んだ部屋はもぬけの空だ。
唇を噛んで、見回す。庭を、木々の向こうを見る。
それから飛び出して、冷たい土の上を走り出す。
ケヤキとタブノキを抜けた先から、錆びた匂いがする。
「清姫!」
もう一度呼ぶ。
「こっちよ」
掠れた声に振り向いて。目を剥いた。
裸の木の枝に、ぽつぽつと赤い雫が散っている。
土の上にも、落ち葉とは違う赤。
錆びた匂いが広がる。
紅の衣裳の清姫を見つめて、その足元で倒れ伏した大きな背中をみやる。
「その人は」
「わたしが好きだった人」
クスクスと清姫は笑った。
「わたしのことも好きでいてくれると信じていた人」
笑う彼女の両手は、帰蝶と同じような懐剣が握られている。ただし、刃は赤く濡れていて。
「誰でも良かったんだって。わたしじゃなくても、彰子様の養い子なら誰でも。武士として連なる席の一番端から前に進む切っ掛けを作れるなら、誰でも」
目の端もまっかで、ぼろぼろと雫が落ちる。
襟元の血の文様が広がっていく。
「莫迦みたい。わたしは何を夢見ていたのかしら」
ねえ、と笑いかけられて、首を振る。
それから両手で顔を覆った。
怒鳴り声が近寄ってくる。
清姫を捕らえようとする声だろう、と思った。
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