うでのなかにはよろこびを
額にひんやりとした感触。目を開ける。
最初はぼんやりと、やがてはっきりと見えてきた顔に、つい笑みがこぼれた。
「義高殿」
「ここで寝ていると、風邪をひくぞ」
眠気を払ってくれたのは、夫の指先だった。
それがゆっくりと離れていくのに合わせて、もたれかかっていた文机から体を起こす。そして、帰蝶は部屋の中を見まわした。
新しく与えられた部屋は、前より広い。そして、建物の中でも渡り廊下に近いところにあって、昼間はひっきりなしに誰かが通るようなところだ。
だが、今は静かだ。
「誰もいないのかしら?」
以前の部屋が空になっただけでなく、他にも二つ、主がいなくなった部屋がある。
住まう人が減ったから、と思ったのだが、義高が告げたのは別の答えだった。
「今は出かけている者が多いのだろう。公方様が宴を催されている」
「また?」
「今日のはごくごく小さく、招かれた者も少ないようだが、御台所が何人か連れていかれたと聞く。嫁御殿は招かれていないのか?」
それにも、帰蝶は笑った。
「わたしは嫌がられるんじゃないかしら。だって、騒動の真ん中にいたわけだし」
魔物が出たことも、血が流されたことも、余すところなく義長に伝えられたのだと聞く。帰蝶自身が問い詰められることはなかったが、逆に言えばそれだけ、義長が帰蝶を避けているということなのだろう。
「宴が開かれることだって、伝えていただいていないのよ」
すると、義高も苦笑いを返してきた。
「たしかに、そうとう御立腹だったな。前回の騒動から
「やっぱりね」
揉め事をとことん厭う御所の主の顔を思い浮かべ、溜め息をついた。
それから夫に向きなおる。
「義高殿も呼ばれていないの?」
「今日はさすがに断った。ああいう場は好きではない」
御簾を背にして座った彼はそう言ったきり、動かない。
松葉色の直垂は皺一つなく伸ばされている。手にしていたのだろう燭台は床に置かれ、チリチリと焔を揺らす。
「自分の部屋に戻るわけではないのね?」
「ああ」
「有王たちが心配するんじゃないの?」
「一晩帰らないくらいで動じるような連中でない。それとも、おまえは俺を追い出したいのか?」
帰蝶はむっと口を尖らせた。
「意地悪ね」
「どちらがだ」
それきり、夫は口をつぐんだ。帰蝶もうつむく。
こうして二人とも黙ってしまうと、聞こえるのは、夜風の音だけだ。宴の音は届いてこないらしい。
無表情をつらぬく夫の袖の端に、手を伸ばす。息を吐いて、ちらりと夫の顔を見た。
「今日、茶々に会った?」
「いいや」
「わたしは、会ってきたの」
彼女は今、彰子の居所である建物に移った。御所の女主人が自ら面倒をみているという。
「寝床の中でぼうっとしてたわ」
「体調は?」
「良くも悪くもないみたい。ただ――」
うつろな瞳は、何も映していなかった。彰子も、声をかける帰蝶でさえも。
「また元気になるのかしら?」
だが、元どおりになることが彼女にとって良いことなのか分からない。
自らの行動が招いた結果を知っているのかどうかも。
「そんなだから、とても葬列には加わってくれなかったのだけど。もし来られていたとしても、清姫は怒ったかもね」
苦笑いを向けると、義高は首を傾げた。
「死人に考え事ができるのなら、な」
ぎゅっと唇を噛んで、下を向く。
捕らえられまいと懐剣を振りまわして抵抗した清姫は、斬られ、その傷がもとで亡くなってしまった。
刺された男も程なく死んだのだという。
白い衣裳とあかい炎に包まれて、清姫は土に還っていった。
その後すぐに片付けられた部屋からは、いくらか衣裳を貰ってきた。朗らかに笑っていた彼女らしい、華やかな衣裳たちを。
望んだのは帰蝶だけだったらしい。
他の娘たちは、捨てられていく品物を眺めながら、冷たい笑いを流していた。
「そういえば、針のことも聞いた?」
くす、と笑うと義高は首を傾げた。
「騒動をお聴きになってお怒りの彰子様がね、みんな集めて、問いかけられたのよ。針を撒いたのは誰か、って」
だが、一人も答えはしなかった。知っているとも知らぬとも、何も。
黙って視線を交わしあう娘たちを見るほどに、腹の底は冷えていって、そして。
「もう、誰がやったのかとか、知らなくていいやって思ったわ」
クスクスと笑ったまま、夫の膝に崩れおちる。
「もう、うんざり。みんな自分のことしか考えていないんだもの」
頬を押し付けて、腕を腰に回すと。
「何を今更。御所には、そんな人間しかいないではないか」
流れた髪を、夫の指がすくっていくのが見えた。
「だが、時に、異なることをするから面白い」
穏やかな声も聞こえる。
「何処に行っても変わらぬと思うかしれぬが、宇治に来るか?」
「宇治? あなたの所領に?」
がばっと顔を上げる。
「御所とはまた違う理由で汚い奴ばかりだが、生きようという気概も凄まじい」
夫はゆっくりと口元を綻ばせた。
「俺はあの里が好きだし、嫁御殿にも気に入ってもらえればいいと思っていた。
新年には戻りたいと、公方様からはお許しを貰っている。帰蝶も、御台所を説き伏せればよいのだろう」
それとも、と低い笑い声が響く。
「許しの有る無しなど構わずに、
「そんな勝手をして、わたしが嫌がったら、どうするの?」
「そうだな…… さすがに俺も、惚れた女に
引き起こされ、くるりと腕の中に抱きこまれた。鼻先が触れあって、吐息が混ざる。
「是としか答えられぬようにしてやろうか?」
すぐ前には熱い瞳。それから逃げようと、目を閉じたのだが。
御簾の向こうからは、橙色の日の光。温かなそれに向けて、指先だけをどうにか動かした。
「意地悪」
呟きはかすれる。
体中に力が入らない。
おざなりに着せられた夜着を直す気力もない。
「いくら夫婦だからって……」
「文句は聞かない」
隣に起き上がっていた夫は、ゆっくりと笑みを向けてきた。
「帰蝶から抱きつかれたのは初めてだったからな」
「……なんの関係が」
「ある」
くつくつと喉をならす夫を見上げる。
折烏帽子を脱いだ髪は乱れ、いく筋も首にかかっていた。しろい小袖は寛げられていて、その合間から無駄なもののない胸と腹がちらちらと見える。袖からも、筋張った腕がのぞく。
目をそらすにそらせなかった手元は、ゆっくりと実を動かしていた。
「なに、それ…… ミカン?」
「先ほど有王が持ってきた」
「さっき? ってことは」
有王はこの醜態をしっかりと見届けているということだ。
「うそでしょう……?」
呟いて、布団を頭からかぶった。
顔が熱い。喉がいたい。
隠したいのに、するり、と布団を動かされる。
口許に冷えた房が押しつけられた。むぐ、と飲みこんで、睨む。
「あなたは恥ずかしくないの?」
「今更?」
「そうね…… 今更なのね」
目をしばたいて、もう一度布団をかぶろうとして、押しとどめられた。
「なんでしょうか?」
「顔が見えない」
「構わないでしょう!?」
「俺が構う。それに、もっと食え」
また一房、口に放りこまれる。
それでもまだ、夫は陽の光と同じ色の実を剥き続けている。
「落ち着いたら、御台所のもとへ行くか」
何のため、と言いかけて、笑った。
「結局、お許しを頂きに行くのね」
「真正面から出られるなら、その方がいいだろう?」
「そうね」
またミカンを口に含んで、さらに笑う。
「本当に、宇治に連れていってくれる?」
「連れていく。全部見せて、全部告げるつもりだ」
まっすぐに見つめてきてくれる、瞳に曇りはない。
果実の色に染まった指先をつかんで、握る。離すものか、と力がこめた。
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