逃がしはしない必ずや
義高は首をひねった。なぜ、こうも意固地なのだろう、と。
「認めないと、何度言ったら諦めるのですか」
口許にも目元にも、穏やかな笑みを浮かべながら、御所の女主人は一歩も譲らないつもりらしい。
齢四十を迎えているとは思えない、皺も染みもない顔。しろくふっくらとした掌。それらを引き立てる、金糸銀糸の輝く衣裳。部屋の中の、一段高くなった場所に腰を下ろして、彼女はゆっくりと扇を振っている。
「帰蝶をこの御所の外へなど、出してやろうはずないのですよ」
「彰子様」
隣に座った帰蝶は、眉尻をさげて、鴬色の打掛の袖を握りしめている。
「別に一人で出るわけないのですけど」
「そうね。頼りになる夫が一緒ね」
「それに、行き先は宇治なんです。義高殿の所領なんです。わたしにも縁ができた――」
「だからと言って、わざわざ出向くまでもないでしょう?」
さらりと言葉は返ってくる。
唇を噛んで、帰蝶は顔を伏せた。
目の端でそれを見ながら、義高は彰子も見る。
脇息から身を起こした彼女は、義高に微笑みかけてきた。
「それで? 義高殿はいつ宇治にお戻りになるつもりでしたか?」
「お許しさえいただければ、明日にでも」
「なんて急なのかしら」
ほう、と吐き出された彰子の溜め息が宙を漂う。
「あまりに急だと、なんの準備もできないでしょう? いけませんよ、急かしては。
帰蝶もね、ほら――男のことばかり考えていると、清姫のようになるわけですし」
ずきん、と腹の底が疼く。
見送ったばかりの遺体の顔が脳裏を過ぎる。
義高もまた唇を噛むと、彰子は軽やかに、それでいて静かに笑い声をたてた。
「妾自身のことをいうとね、今は悲しい気持ちなのですよ。どの娘も可愛いというのに、その可愛い娘が一人いなくなってしまったのだから。
だから、あまり寂しがらせないでおくれ」
一頻り笑ってから。彰子はもう一度、脇息に身をあずけた。
その膝に、部屋の端からかけてきた万寿が飛び乗る。きゃ、きゃっと明るい声を上げる、その幼い子には、彰子はゆったりと笑みを向けた。
「昨日は慌ただしかったですからね。今日はのんびりしたい。
帰蝶。おまえも一緒に、絵巻物を見ませんか?」
手招く養母に、帰蝶はきょとんとして、それから渋い顔を義高に向けてきた。
首を振ってみせる。
手をついて、辞すると告げると、満面の笑みで頷かれた。
肩を落として、渡り廊下を歩き出すと。
「寂しいだけって感じじゃなかったけれどねえ?」
ひょこっと柱の影から有王が顔を出した。並んで歩き出す。
「競はどう思った?」
「どうもなにも――面倒だな、と」
ガリガリと首を後ろをかく。苛立ちが肌に刻まれていく。
有王は肩をすくめた。
「面倒だから、置いて行く?」
「いやだ。帰蝶も来ると言ってくれた」
「ウソだー…… ってことはなさそうだね、今朝の様子だと。お嫁さんも宇治に来てくれる、うん、まあ喜ぼうかな」
ふわり、目尻をさげて、彼は言葉を続ける。
「彼女の困りごとは、犯人が死んだことで解決したみたいだし」
「一人だけだ。今一人、御台所の下で見張られているのがいるというだけで、残りは解決していない」
「それでも面倒が減ったんでしょ? 今なら、里に連れていっちゃって、そのままにしちゃえば楽な気がするなあ」
両手を広げて。有王はもっと笑う。
「競の家族は大歓迎だよ」
そうか、と頷いて、義高は足を止めた。
有王も首を巡らせて、すいっと義高の背に隠れる。
廊下の向こうから走ってくる人影のせいだ。
「三寅殿」
しばらく顔を見ていなかった、先代義平の末の息子だ。
薄紫の水干の袖をはためかせて、彼は近づいてきた。
「良かった、お会いできて。今しか機会がないと思っていたから」
肩を動かし、息を弾ませて、彼は見上げてきた。
「ご挨拶を――それと、お願いを」
瞬く。肩から顔をのぞかせた有王も、なにかあった、と呟く。
三寅は、髪を揺らして、視線を左右にさまよわせた。
義高は一歩、廊下の端へと。それから、有王を見る。
「戻っていろ」
「うん。難しいお話みたいだねえ」
頭を振って、有王は一歩出た。
「気をつけて帰ってきてね」
ばたばたと駆けていく彼の背が、廊下の角の先に消えると、正面に立った三寅は義高を見上げてきた。
「叔父上様が、今年は北の所領に戻ることになりました。所領には、一族の他にも大勢の武者がいます。腕の立つ者が、大勢」
両腕を震わせて、それでも声はしっかりと、少年は言う。
「お戻りになるのに、僕はご一緒することになりました。でも、それに、嫌な予感しかしない」
首を傾げる。三寅は苦笑いを浮かべた。
「義高殿はご存じでしょう? 叔父上様は、今の公方様の、義長兄上のやりかたが不満なんです」
「宴を開かれるのを嫌がられているだけではなくて?」
「そうです、一番はそれが理由です。だけど、僕らが思う以上にずっと、二人の意見が合わないことは多くて、それでも叔父上はずっと兄上を立ててきた。兄上が、武家の棟梁、将軍だと認められているから」
そこで一度、三寅は両手で口を覆った。
きょろきょろと辺りを見回して、義高をまた見つめてくる。
「将軍にはどのような者が就くか、ご存じですよね?」
それに頷く。
「まず血筋、と。それから、朝廷から下される
「そうです。朝廷から、この国をあまねく見渡す
三寅も首を振って、ぐっと声を低めた。
「最近、叔父上様はこの御所ではなく、朝廷へ頻繁に顔を出していました。おそらくそれは、次に出る宣旨が願いどおりのものとしてもらうため」
ピクリ、と義高の眉も跳ねた。
「将軍位は、任じられてから死ぬまでではなかったのですか」
「本当なら。でも、逆に言えば、死んでさえしまえば」
ぶるりと体を震わせて。三寅は手を伸ばしてきた。思わずそれを握りとる。
「もう、想像できるでしょう? 叔父上様がなにか恐ろしいことを企んでいるのではないか、と。
そして今、公方様に何かあったときに跡を継げるのは、僕か、万寿です。義高殿は――就かない、とおっしゃったから」
「就かないのではなくて、就けないのですよ。いやしい身分の血だと、言ったでしょう?」
「そんなの関係ないんですってば。本当に必要なのは、武を正しく使えるかどうか、です。そう言った意味では、戦うことを厭う義長兄上も、まだ何も教えられていない万寿も、勇気が足りない僕も、ふさわしくはないんですよ。
でも――もしも。本当に公方の座につくことになったら」
三寅は微かに笑って、まっすぐに見上げてきた。
「僕は、戦っていくことができるんだろうか」
握ったままの手を、さらにきつく握って。義高もうっすらと笑んだ。
「俺も宇治に戻ります。だが、何かあれば馳せ参じるとお約束しましょう」
「何のために?」
「勿論、魔物を斬り伏せるためにですよ」
すると、三寅は声を立てて笑いはじめた。空いた手で目の端を拭って、また笑う。
「ありがとうございます。人と人で争うことよりも、苦しむ民を救うことの方が、ずっと大事ですものね」
頷きあって、それからゆっくりと手を離す。
「烏丸殿はどちらに?」
「今、一応ご挨拶ということで兄上に会いに行っています。僕も、これからお会いするつもりで」
頷くと、三寅はぺこっと頭を下げてきた。
「それじゃあ…… お元気で、義高殿」
来た時と同じように走っていく。背筋はずっと伸ばして。
足音が遠くなってから、義高も歩き出した。
葉を落とした木々が並ぶ庭を横目に眺める。
土の上は、赤と黄色の落ち葉で埋め尽くされ、ボケの花だけが風に揺れている。
そうやって何度目かの角を曲がったところで、目を細める。
ちらりちらり、床の上で影が揺れた。
「何か?」
声をあげると、正面の柱からぬっと人が現れた。
さらに、もう一人、二人。
足を止め、がしゃん、と腰に下げた太刀を鳴らした。
相手の腰の太刀も、鞘から放たれる。
「何か、御用で」
もう一度問うと、ずいっと刃が突き出されてきた。飛びすさる。横合いの一撃を腕でいなす。後ろには蹴りを入れる。
大上段からの斬り下ろしも横っ跳びに避けると、壁にぶつかった。
右からも刃。身をよじったが、袖が裂けた。
「多勢に無勢、というやつだな」
蹴り倒したと思っていた相手が起き上がっていて、短刀ごと向かってくる。
また袖が切れる。それを見ていたら、腹を殴られた。
よろめく。押されて、転がる。
床に転がって、そのまま両腕を広げさせられて、ぐいと床に抑え込まれた。
むせかえりながら、ギッと睨みあげる。
囲んできたのは四人。どれも見知らぬ顔、と思ったが。五人目の、ぬっと覗き込んできた顔に口の端が引きつった。
「金馬頼信」
名を呼ぶと、相手は壮絶に笑った。
「忘れられてなくて良かった! この
「それは迷惑だな」
「まったくだよ、迷惑甚だしいよ! おまえがボクを裸にしたせいで、ボクが怒られたんだから!」
「いや、自分で脱いでいたんだろう?」
「怒られるばかりでなく、金馬の棟梁の地位も危なくなってるんだからね!」
「自業自得だ」
「このボクの苦しみを思い知れ!」
甲高い叫びが聞こえ、それから鳩尾を踏まれた。
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