みずから望むさいわいを
結局、三日寝込んだ。
熱がひいて、起きあがって、うすい粥をかきこめるようになるまでの間、ちらほらと見舞いが来た。
養い親である彰子も来たし、夫の従者も来たような気がするが、ほとんどが一緒に養われてきた娘たちだったようだ。
一様に気まずそうな顔をした娘たちだ。
なんとなくその表情を
湯を使い、腹を満たし、帰蝶が人心地ついたところで部屋にやってきたのは清姫だった。
縹色の小袖の上に、唐紅に藍の花が染め抜かれた打掛を羽織った彼女は、入り口近くで腰を下ろして、唇を尖らせた。
「悪かったわよ」
「なにが?」
「その…… いろいろと」
帰蝶は眉を寄せる。清姫は頬をあかくして、横を向いた。
「だから…… そんな、倒れるほどなんて思ってなかったんだもん」
「清姫、こっちも悪いんだけど。何を言われているのか、さっぱり分からないわ」
ぎゅっと睨んでから、立ちあがる。
今日は黄緑の小袖と一段うすい緑の打掛を着た。ひさしぶりに
袖と束ねられた髪を揺らしながら、外を指す。
「部屋から出てくれる? わたしも出かけるから」
「ええ…… どこに行くのよ」
「彰子様のところよ。この風邪で稽古をさぼってしまった、そのお詫びに」
「その前に、ちょっとはわたしの話も聞きなさいよ」
「あんたの都合になんか構ってられない。早く出てって」
鼻をならして睨むと、清姫も不承不承立ちあがった。
そして、濡れ縁を歩きはじめた帰蝶のあとをついてくる。
「話すだけなら、歩きながらでもいけるわよね」
「わたしは話すことない」
「んもう! どうしてそうやって相手を怒らせることを言うのよ!」
「先に怒らせているのはそっちでしょう!?」
叫び、振りかえる。
「さんざん陰口をたたいておいて、いまさら、仲良しぶらないでよ!」
清姫が肩を揺らし、足を止める。
帰蝶も立ちどまって、眉をつりあげた。
「そうね。寝込むぐらい苦しんだわよ。だから満足でしょう? 満足したから水に流してくださいなんて、図々しい!」
言うと。
清姫がわずかに目元に涙をためているのが見えた。
「いやよ」
彼女は真っすぐ向いてきた。
「だって、本当に、そんなに苦しくなるなんて思わなかったんだもの」
慌てて前を向きなおる。胸の底がジクジク痛む。
床をけって、また進む。
清姫はまだついてくるらしい。
――勝手なんだから。
帰蝶の悩みもわだかまりも知らず、自分の気持ちばかり押しつけてくる。そう考えると。
体中に熱をのこしていった、指先と唇を思いだした。
髪の先では、紫の端布が音もなく弾む。
御所の南の一角。
冬になっても陽のあたる、あかるい建物。
その南側のひろい部屋の前に立つ。
「おや。帰蝶」
奥にいた彰子が、微笑んだ。
「もう大丈夫ですか」
「大丈夫です、ありがとうございます」
「それは重畳」
白の小袖に金糸の刺繍の打掛という、今日も手の込んだ衣裳だ。肌の張りもしろさも、磨き上げられたそれだ。
膝の上では、赤の着物の万寿をゴロゴロとたわむれさせている。
万寿の手から落ちて転がってきた鞠を拾い、帰蝶はゆっくりと中に入った。
「お座りなさい」
「はい、御台所様」
相対するように腰を下ろした帰蝶のとなりに、結局ついてきた清姫も座った。
「おや。二人そろうとは、ちょうどよい」
「何か?」
「話をしようと思っていたのですよ」
コロコロ笑い、彰子は膝の上から万寿を立たせた。
幼い子は、帰蝶から鞠を受けとり、部屋の中をかけ始める。
「夫を得て、子を産む。それが幸せだとね」
彰子に順に見つめられて、首を傾げる。清姫もきょとんとしている。
「帰蝶。あなたが宇治義高殿と夫婦になって数ヶ月経ちました。そして、清姫。あなたもいよいよ、縁付いてもらおうと思いましてね」
清姫の目がさらに丸くなる。唇がわなないている。
「金馬頼信殿との縁談が進んでいます。年が明けたら、輿入れをと――」
「嫌です」
キン、と声が響く。
「わたしは決められた嫁ぎ先になどに行きたくありません。夫とする人は自分で決めたいです」
顔をまっかにして清姫は言った。
「決められたところに行っても、自分の気持ちがない方と結ばれても、幸せになんかなりません。だから自分で考えます。自分で決めます」
「愚かな。何のために、舞を、琴を、歌を修めてきたのです。ひとかどの家の女主となった時に恥ずかしくないためにではないですか。
きちんとした家に嫁いでようやく、女は豊かに暮らしていけるのです。そして、よその家を知るには、年長者の意見を聞くのがいい。
進められた家に嫁ぐのが一番です。疑いないこと」
彰子の視線が厳しくなる。
「金馬重信殿から縁組をと乞われました。
そのなかで今、わたくしたちの娘たちで、年頃なのはおまえたち二人と茶々です。帰蝶はもう嫁ぎました。だから、清姫なのです。
若さとは愚かさ。勢いにまかせてはしったら、老いてから後悔します。素直に金馬殿に嫁ぐのです」
「絶対嫌です!」
叫んで、清姫は部屋を飛び出していってしまった。
きょとんと見送る。
彰子の溜め息が響く。
「困ったこと」
続いて、万寿の泣き声も聞こえた。
「おやおや。どうしたのです」
幼子は、隅の柱の前でうずくまっている。
周囲を侍女に囲まれてもなお、きゃんきゃん喚いている。
「またぶつかったのですか。だから走り回るものではないと言っていたでしょうに」
言葉は厳しいが、口調はやわらかい。
彰子が輪の中にすっと入ると、万寿が抱きついた。
母様、と万寿は泣きはじめる。彰子のあやす声が聞こえる。
ポツン、とその様を見ていると。
廊下の方も騒めきだした。
「おや。今度はなんですか」
ひょっこりと顔を出したのは義長だった。
「元気が良いな。なによりじゃ」
笑って、つかつかと入ってきて、上座に腰を下ろす。
脇息を引き寄せて、一息ついた彼は、帰蝶を見て笑った。
「おお。おぬしも元気になったか」
「ご心配を、おかけしました」
「なんの、なんの」
おおらかに笑う顔は、ほんのりあかい。
「この昼間から、酒を嗜まれましたか」
「なに、ほんの少しじゃ」
彰子が溜め息をついたのに、義長はまだ笑っている。
そして、筆を持て、と呼ばわった。
部屋にいた侍女がぱたぱたと箱を運んでくる。
「快気祝いじゃ」
懐から紙扇を取りだすと、すらすらと筆をすべらせた。
ほれ、と渡される。
墨の匂いがたちのぼる扇には、唄。
宴も恋も生きてこそ
血汐燃ゆるは現世のみ
泉下へ持てるものはなし
舞も歌いも忘れゆく
「このお歌は」
「我が作ったのじゃ。よい歌だろう?」
瞬いて、頷いた。
「ありがたく、頂戴します」
義長はニコニコしている。
その横に、彰子が戻ってきた。
「わたくしからも礼を。お気遣いありがとうございます」
「礼を言うのは早いぞ。彰子には別の荷物を持ってきたのだ」
「そうなのですか?」
「見せてやろう。義高、はいれ」
聞こえた名前にギョッとして振り向いた。
部屋の入り口。
大きな箱を抱えた義高が涼しげな顔で立っている。
義長が手招き、指先で示した場所に箱を降ろすと、義高は頭を下げる。
「これは?」
「万寿に本を用意した。幼い男の子が喜ぶものは何かと義高にも手伝ってもらったのじゃ」
「まあ。それはそれは」
彰子が箱を開け、中身を一つずつ取り出す。万寿がかけてくる。
「ほら。こちらの絵巻などどうですか。鬼退治の噺ですよ」
「輝夜姫はダメか」
「さて…… 万寿は何を見たい?」
肩を寄せて喋りはじめた三人を見て、帰蝶はそっと立ちあがった。
そろりそろり、出口に向かう。
義高も同じようだ。
角を曲がり、三人の声も聞こえず、侍女たちも見あたらなくなったところで、二人そろって足を止めた。
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