渡さぬために走りだす
彰子との遊びはすぐに終わってしまった。ともに絵巻物を見ていた万寿が、午睡をもとめて、ぐずりはじめたからだ。
両手で両目をこする幼子を膝にのせ、その背をさする彰子に目礼し、帰蝶は部屋の外へ出た。
御所のなかでも南側、冬でもたっぷりと陽が降りそそぐ場所。 それでも北風が頬に刺さる。
先に出ていった夫はもう、この辺りにいないらしい。
ぎゅっと両手で打掛の前を合わせて、踏みだした。
輝く衣裳を、緑の黒髪をなびかせて歩く女たちの間を抜ける。
松葉色の直垂をもとめて視線を走らせながら、早足で進む。
途中の渡り廊下の先では、人だかりができていた。
思わず足を止める。
老若、立場の上下も問わず集まった人たち。その真ん中には、知っている翁が立っていた。
「千坂殿」
小声で呼んでも、もちろん彼には届かない。
常ならぬ顔をした千坂は、正面で相対した男に指先を突きつけて、何か言っている。
一方の男は、黙って睨みかえすだけだ。
直垂と折烏帽子、腰に太刀という、武士のいでたちの壮年の男。
あれは誰だっただろうと思ったのは一瞬。
「……金馬重信殿」
義長の近習だと、思い出す。
今代の将軍の近習と、先代の近習で今は半分隠居の身だという翁。
不思議な組みあわせだ。
なにか
部屋に戻る。
夫はいない。
ただ、文机にミカンが残されているだけ。
頬を膨らませて、どすんと床に座りこむ。
橙色の実ををひとつ手に取って、皮を剥くなり、口に含んだ。
口の中に、酸味が広がる。
「彰子様の意地悪」
胸のうちにも、だ。
「義高殿のバカ」
指先にのこった雫をなめとりながら、溜め息を吐きだす。
「構わずに宇治に連れていって、って言ってみたかったのに」
ここに居ないなら、夫はどこに行ったのだろう、と首をひねる。
――自分の居室かしら。
行けば、有王や公暁たちはいるだろう、と立ち上がろうとしたところで。
御簾の外から声をかけられた。
知っている声だ。
「代わりに来た、とかではないわよね」
顔を出す。正面に立っていたのは、他ならぬ、義高の従者である少年。有王だった。
「あなただけ?」
「頼みがあるんだよ」
有王は言った。
笑みもなにもない、強張った顔。角髪結いと水干なのはいつもどおりだが、左手に太刀を握っていた。
「ねえ。知ってたら、教えて。金馬重信の屋敷」
なぜ、と瞬く。
今日はその男の話が多いな、と思っている中で、有王の歯ぎしりを聞いた。
「競が連れていかれたんだって」
もう一度、瞬く。
「……どういう、こと?」
「競が、そこの屋敷に無理やり連れて行かれたらしいっていうんだよ!
重信の息子の――ああ、なんていうんだっけ?」
「頼信殿?」
「そう、それそれ」
清姫が嫁ぐかもしれなかった相手。二十歳過ぎの、細身で猫背の男だったはずだ。
いつだかに聴いたぬめる声音を思い出すと、ぞくりと背筋が震えた。
両腕で体を抱えた帰蝶に構わず、有王はまだ奥歯を鳴らしている。
「その莫迦がね、自分の家の下人を使って、御所の廊下で襲ってきたんだって。向こうは数人で組んできたみたいだけど、それを抜きにしても競の対応が信じられない。刀を抜かなかったんだって!
負けて、気絶させられて、運ばれたらしいって話なんだけど……!」
ダン、と床を踏みつけて、有王は叫んだ。
「もう、本当、なにしてたんだか! 全力で抵抗しろよ、あの老け顔!」
顔は関係なかろうに、と思いながら、眉を寄せる。
屋敷の場所を知りたい、というのは、義高が連れて行かれた先だからだろう。迎えに、助けに行きたいということだ。
額に汗を浮かべる有王を見つめて。
七条大路のほう、と答えかけて、唇を噛んだ。
――そうよ。助けに行くのよ?
するりと笑んだ。それから。
「案内してあげるわ。だから、連れていって」
帰蝶が言うと、有王は、かくん、と口を開けた。
「冗談でしょ? ろくに御所の外へ出たこともない君を連れて行けっていうの?」
「そうよ。なかなか外に出たことがないから、口ではうまく説明できないのよ。自分で行ったほうが確実だわ」
「どうだか」
「絶対うまくいくってば。南とか西とかは分からなくても、前とか右とかは言えるから」
「屁理屈だ」
「違うわ。伝えやすさの問題よ」
有王の溜め息が響く。
「強情。夫婦そっくりになっちゃった」
被衣だけ掴んで、飛びだす。
有王が手綱を握る馬に、ともに乗せてもらって、都の大路を駆け抜ける。
一度、千坂と歩いただけの場所だったけれど、過たずに辿りつけた。
道の端まで片づけられた屋敷前。
門の両側には、弓を手にした家人が立っている。
「ピリピリしてるね」
「どうするの? 正面から――」
「行くわけないでしょ?」
有王は肩を竦めた。
鞍から降りた二人は、歩いてその前を抜けていく。
角を曲がって、門が見えなくなったところで、有王はひょいと手綱を突きつけてきた。
思わず受け取る。太い革紐は、湿っている。
帰蝶が慌てふためく間に、有王は軽々とそばの木に登り、築地塀へと移っていった。
瓦の上から、見下ろしてくる。
「そこで待ってて」
「え、うそ」
帰蝶が何をいうよりも早く、有王は塀の反対側へと飛びおりていってしまった。
「置いていかないでよ……」
手綱を握って、立ちつくす。
夕焼けに染まった風にあおられて、深緑の被衣がふくらんだ。片手で押さえても、袖の中に冷たい空気がすべりこんできて、体が冷やされていく。
心細い。
かと言って、御所に戻るわけにもいかない。
しろい築地塀を睨む。
この向こうに、いるはずなのだから。
「義高殿」
百戦錬磨のつわものだ。
そうそう負けるとは思えないけれど。チリチリと胸の底が痛む。
首を振る。
馬が鼻息荒く、いななく。
「誰だ!」
叫び声に、肩を揺らして振りむいた。
角から、固い生地の仕立てを着た男たちが駆けてくる。
一気に背中が冷えていく。
男たちも。帰蝶から五歩離れたところまでしか近寄ってこないで。
ダラダラと顔中に汗をかいていた。
「ちょ、おまえが誰だって言ったんだから、そのまま捕まえに行けよ!」
「イヤだよ! 最初はやってやったから、次はおまえだよ」
「怪しい奴はみんな捕まえろってのが御主人のお達しだ! 忘れるなよ!
オレは! 無理だ!」
三人の男たちは、そのままヤイヤイと言い合いはじめた。
その様を見ながら、帰蝶は、一度唾を呑み込んで。
まっすぐに睨んだ。
「あなた方は金馬家の者ね?」
「そ、そそそ、そうですけどぉ!?」
声をひっくり返らせた男たちに向かって一歩踏み出す。
「や、今はダメですってぇ! 御主人は御所に出かけてるし、若様はお、お客ぅ?がいますから!」
「若様? 金馬頼信殿?」
「ええ!? そうですけど、なんでご存じでぇ!?」
「お客って誰?」
「その、なんでも、御所で襲われた相手だとか!?」
「その方の名前は、お聞きでないの?」
「き、聞いてますけどね! 今や有名な武将となられた宇治義高様らしいっすけど!」
「そう……」
どちらが襲った側だ、と思いつつ。
馬の手綱を離す。ぎゅっと両手を握りしめた。
それから、背筋を伸ばし、胸を反らした。
「では、金馬頼信殿に取り次いでちょうだい」
言うと、ヒィっと声をあげて、彼らはひとかたまりに抱きあった。
構わずもう一歩。
睨みつけて、声を張る。
「わたしは宇治義高の妻よ。今すぐ、夫に会わせなさい!」
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