離されようと揺るがない

 手首を引かれて立たされて、足の裏につめたい土が触れる。体は、温かい腕と胸にくるまれる。

 二歩さがらされて。


 すぐに、荒くれた足音がいくつも、先ほどまで腰掛けていた濡れ縁を通っていく。


 そうかと思えば、妙にかるい足音が近づいてきた。

「お、おおおお、おまえ! おまえたちもいたのか!」

 甲高い声が聞こえる。

 その声の主は男なのか女なのか、と眉を寄せたところで。

「金馬頼信殿」

 自分を腕に囲ったままの夫が低く告げた名前に、帰蝶は身震いをした。

 そろりと体の向きを変えて、見上げる。


 本当は、背は低くないのだろうが、肩が薄っぺらくて、背筋が丸まっているから、とても細く小さく見える。

 きょろきょろ動く目元はキツネのようだ。

 濃い藍染めの直垂の袖も、忙しなく揺れている。


「ひ、久しいな、義高とやら。ここで何をしてるのだ」

 はははっと笑って、相手はふんぞり返ろうとした。

「ここは、御所の中でもなかなか立ち入れない場所だぞ。なんといっても御台所の居所だからな!」

 威勢よくしたいのだろうが、背筋が丸まっているせいで、どうにもせせこましい。


「俺は、公方様のお供で来ただけですが」

 帰蝶の肩にかけたままの義高の指先に力がこもる。見上げれば、切れ長の瞳には剣呑な光がちらついている。

「なるほど! ボクも父上のお供だ! 同じだな!」

 曲がった背筋をしならせて、頼信は笑う。それも耳にザラザラと引っかかる声で。


「ついに同行を許してもらえたんだぞ。義長公の近習として長く働いた父上の跡を継ぐために、見て覚えろ、と」

「失礼ですが、頼信殿はおいくつで」

「二十二だ!」

「随分おそくまで御許可が出なかったんですね」


 高い声も低い声も、ぼやかして言う、ということはしないらしい。

 こめかみに指先を当てて義高は呻き、頼信は顔中に汗をかいている。


「ボクは恥ずかしがり屋だからな! 表に出るというのは苦手なんだ…… だから父上はギリギリまで待ってくださったのだ」

「そのまま出てこなくて良かったんじゃないですか」

「そうもいかない。金馬の棟梁としての立場とか見栄もあるからな。縁談も決まったし」


 そこで頼信は、はああああ、と肩を落とした。

「嫌だなぁ、婚礼」

 何故、という言葉は呑み込む。義高もらしい。彼はすこし目を細めただけだった。


「やっぱさあ、自由でいたいよね。責任とかまっぴら。

 公方様と父上が整えてくださったとはいえ、逃げれるものなら逃げたくない?」

 言って、こてんと首を傾げられる。

「公方様の下で育った娘というなら、美しさはお墨付きだけどさ。どんな綺麗でも、気に入らなかったら意味ないじゃん。

 その証拠に、おまえたちも仲が悪いと評判じゃないか」


 ピクリ、と義高の口元が動いた。ギリ、と奥歯が音を立てて、こめかみに青筋が浮く。だが言葉は投げ出さない。ただ睨みつけるだけ。

 帰蝶もわずかに義高に体を寄せる。

 だが、頼信はこちらを見ていない。


「ボクは、ボクが気に入った綺麗なモノだけを愛でて過ごしていたいんだよ。綺麗だなってモノをもっともっと沢山集めたくて…… って、おっと」

 頼信は両手で、己の口をふさいだ。

 廊下の先からは、彼の父――金馬重信がドスドスと歩いてくる。


「何をしている、たわけもの」

 腹の底に響く声。

 ひっと頼信が叫ぶ。

「公方様の下に参るといっただろう」

 それと、と彼は義高に視線を送ってきた。

「そちらもだ。公方様がお呼びだ」


「すぐに参ります」

 静かに答えた義高が、帰蝶から体を離していく。

 北風が鳴く。

 ぶる、と身を揺らした。


「部屋に戻れ」

 言われるまでもない、と思いつつ。つい、袖の端を掴んでしまった。

 小さな溜め息を聞く。


「有王」

「はーいはい。送っていけばいいんでしょ?」

 水色の水干の少年が、クスクス笑って、帰蝶の反対袖を引く。

「ほら、行こう。向こうは絶対、難しいお話なんだから」




 御所中がざわめいている。

 噛みつかれた男は手当の甲斐なかったそうだ、と聞こえてきた。




 自室に戻って、御簾を捲る。有王が声を上げた。

「わあ。随分散らかってるね」


 畳まれていたはずの寝具が、ぐしゃりと丸められて隅へと転がっていた。正面の棚の引き出しは、半端に傾いている。

――また、だ。

 魔物より、悪戯のほうが怖いかもしれない、と額に手を当てる。


「……片付け、手伝おうか」

「大丈夫、一人でできる」

「はいはい。そういうところが困ったところって誰かさんが惚気のろけてたから、安心して!」


 ぐいと袖をまくった有王が駆けていく。かと思ったらすぐに、水桶と雑巾を持って帰ってきた。

「はい。水を使って手が荒れたら困るから」

「それはあんたもでしょう?」

「僕の手が荒れてもきおうは怒らないから。でも、君だとガチギレするよ?」


 ふっふっふっ、と笑う有王は、雑巾を絞り、はたきをかけて、かなり堂に行った姿だった。

 自分でも棚を拭きながら、帰蝶は彼に問いかける。


「あなたたちのほうこそ、仲が良いのでしょうに」

「まあね。従兄弟いとこなんだよ、僕ら」

「そうなの? ああ、だから義高殿を幼名で呼ぶのね」

「幼名っていうか、まあ。それはそれとして、僕たちはずっと一緒に育ってきた。それなのに、今も生きているのは僕と競しかいない」


 磨き上げられた部屋を背に、有王は笑った。


「だから。僕は、競に家族をとり返してあげたい」


 帰蝶は黙った。

 なのに、心臓はけたたましく動く。

 静まれと押さえつければ、着物の中に硬い感触があるのに気が付いた。


 懐からは紙扇が出てきた。先ほど義長に贈られたものだ。忘れていた、と眉を寄せる。



 宴も恋も生きてこそ

 血汐燃ゆるは現世のみ

 泉下へ持てるものはなし

 舞も歌いも忘れゆく



「なにこれ」

 覗き込んできた有王が吹き出す。

「へたくそな歌だね。誰が作ったの?」

「公方様よ」

「げげっ。今の発言はなかったことにして」

「しょうがないわね……」

 帰蝶も笑って、首を振った。


 たしかに、巧緻こうちは決して良くない。

 だが。生きろ、という願いだけは読みとれる。

 それに引きかえ、と帰蝶は壁を見た。棚に隠されているそこ。呪いの言葉が染み付いた場所を。



――死ね、だなんて簡単に言うのね。


 庭先で、血を噴き上げて倒れた体を思い出す。


 魔物に殴られて義高の体が吹き飛ぶのを見た時、体中が冷たくなる感触がしたのを思い出す。


 ぎゅっと紙扇を握りしめる。



「あ、おかえり競。意外に早かったね」


 有王のからりとした声に、はっと顔を向けた。

 入り口には、松葉色の直垂姿の義高が立っていた。心なしか、顔が削げている。


「疲れてるよ」

「そう、かもな」

「さっき魔物に殴られた傷も実はまだ痛いんでしょ?」

「そんなことはない」

「はいはい、無理しなーい」


 有王が笑んで、帰蝶を振り向く。


「悪いけど、今日は連れて帰るよ?」

「どうぞ。全然悪くないから」

「あんなデレデレの場面見せつけといて、ほんとうにそう思ってる?」


 あははは、と腹を抱えて、有王は立ち上がった。

 ひょいと歩いて、御簾をくぐる際で義高の背中を叩く。

「ちょーっとだけなら、待ってあげる。これでまた明日ってのは嫌なんでしょ?」

 クスクス。笑って、有王が出て行く。足音はあっという間に遠くなる。


 義高は、溜め息をはいて、部屋の入り口で立っている。帰蝶はきっと睨んだ。


「どうぞ、さっさとおかえりください」

「嫌だ」

「莫迦なの、あんたは。怪我してるんだったら無理しないでよ」


 叫ぶ。ずいっと身を乗り出す。

 義高は顔を背けた。

 むっとなって、帰蝶は彼を両手で押した。こぼれた呻き声に、それ見ろ、と笑う。


「痛いんじゃない」

「平気だ」

「じゃあなんで痛そうな声出すのよ。実は、血が流れていたりするんじゃないの?」

「そんなことはない。見れば信じるのか?」


 言うなり、義高はずいっと直垂の前をくつろげた。

 筋ばった首が、鍛えぬかれた肩が、 無駄なものなど一切ない胸と腹が、あらわになる。


 顔が一気に熱くなった。なのに視線はそらせない。

 だから、おおきな、あおい痣が腹にあるのを見てしまう。

「これ」

「先ほどのだな。血は出てないだろう?」


 指先で触れる。

 硬く引き締まった宍の感触。そして温もり。たしかに血は流れてないが、と眉を寄せて。

「こんなに、痛そうなのに」

 呟いて、顔をあげようとして。

 途中で息を呑んだ。


 義高の左肩。くっきりと歯形がついている。


 寝込むその前の晩。戒めから逃げださず、体をささげた晩のことを思い出す。

――そういえば、また噛んだんだった!


 口が、ぱくぱくと、空気を求めて動く。

 夫はちいさく息を吐いた。

「血は出てない」

「それはわかった――わかったから! 今すぐ服を着て!」


 黙って義高は直垂を着込む。

 帰蝶は両手で自分の頬を包んで、横を向いた。


「嫁御殿」

「なに?」

「渡したいものがあるのだが」


 そう言って、義高は、懐から黒いものを取り出した。

 合口だ。長さは六寸ほど。柄と鞘だけ、鍔はない。中ほどに紐が括られているだけの、素朴な造りだ。舞の道具とは違う。

 キン、と鞘から抜き放たれた刃が、あかい陽の光を受けて輝く。

 目の前に掲げて、それを見つめてから、義高はもう一度刃を鞘に納めた。


「これを」

「わたしに?」

 受けとった懐剣は、決して軽くない。


「どうしろ、と」

「持ってろ。持っているだけでいい、抜かなくていい。持っているということが牽制になる」

 誰への、と問いかけて、止めた。

「何かあれば抗するつもりだと示せればいい」

 義高の視線はまっすぐに向けられている。だから、素直に頷いた。


「持つようにするわ」

「それでいい」


 そこで急に抱きすくめられた。

 顔をあげると、視線が交わる。それだけで、体の熱が上がっていく。

 義高が顔を寄せてきた。吐息が頰にかかる。

 唇が重なる。

 わずかに触れただけで離れていってしまって、さみしかった。

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