守るためにも白刃を
むかう先で、人が倒れた。
打掛姿の女だ。
ジワリ、板敷の床にあかい色が広がっていく。
「すまん」
倒れた体を飛び越して、義高は走った。
濡れ縁を抜けた先、庭に向かって開いていた格子から、部屋の中を見る。
大人と変わらぬほどの丈と、その倍以上の幅を持つ、黒い塊がいる。
魔物だ。
ただ、ただまっくろな、形と重さだけの存在。人間に害をなすモノ。
部屋の奥から、万寿――数えて三つの幼い子が、それを指さす。
「あれは、なあに?」
その口を押えて、小さな体を抱き込んで、義長はガタガタと震えはじめた。
「おお、見るな見るな。穢れたものなど、見るでない」
その横で、彰子がすっくと立ちあがる。
肩から落ちそうになる打掛をしっかりと押さえ、背筋をのばし、目尻をつりあげる。
「どこから迷いこんだのですか、この魔物は」
よくとおる声が響く。
「早く、治めなさい」
だが、まわりを見まわしても、侍女たちは部屋の隅で蒼い顔をしているし、庭師は腰をぬかしてへたり込んでいるし、義長についてきたはずの護衛は何処にもいない。
彰子自身も、言っただけで動く様子はない。
「街の魔物が減らぬわけだ」
ポツリ、義高は呟いて、腰の太刀に手をかけた。
魔物も動く。彰子に向かって宙を滑る。
「失礼」
義高は走って、その勢いのまま彰子を突きとばした。
かるい体が床に落ちる。侍女たちが悲鳴を上げる。
何も無い空間を横切って、魔物は北側の柱にぶつかった。そこから跳ねかえって、また部屋の中央へ。
彰子のいた場所に立ったままの義高へと向かってくる。
太刀を抜きはらう。
魔物を受けとめようとして、そのまま押しきられる。
床で背中を打って、のしかかられそうになって、転がって逃げる。
跳ね起きる。
柄を握りなおすと、刃が床と当たって音を立てた。
魔物が、無いはずの目玉を義高に向けた。
唾を呑みこむ。そして、太刀を構えなおそうとしたら。
「よせ! 太刀を
義長の叫びが聞こえた。
「そんなものを見せるな! この御所で振るうな!」
え、と瞬く。
まさか素手でなんとかしろと言われているのか、と。
動きを止めたら、腹を殴られた。
体が浮いて、床に叩きつけられた。息が詰まる。
そこへ黒い塊がのしかかってくる。
腹を
目を細め、唸って、押しのけようと腕を出したところで。
魔物が横合いから吹っ飛ばされた。
ストン、と魔物を蹴りつけた影が、義高の横に立つ。
「なにやってんの」
手を出してきたのは有王だった。
ぐい、と腕を引かれて、起き上がる。
むせる。口の端から溢れた唾と血を拭う。
それから、片手でくるくる短刀をまわす有王を見上げた。
「……おまえ、どこに居た」
「ずっと後ろをついてきてましたけどー? お嫁さんにゲロ甘な愛の言葉を吐いていたところも全部見たよ」
「そうか」
げほ、ともう一度咳きこんで、顔をあげる。
魔物は変わらず、部屋に居た。
ブルンと身を震わし、無いはずの口を開けるような動きに、壁際まで避けた人たちが悲鳴を上げる。
「でかいけど、蹴っ飛ばせるくらいだから、まだなんとかなるんじゃない?」
「よし。そのまま庭に追い出せ」
「えええ? 僕がぁ?」
笑って、有王はもう一度跳ねた。
彼の右手に握られた短刀が、黒い靄をわずかに削りとる。
義高は転がっていた太刀を拾いあげて、握った。
「だから、刃を出すな!」
義長が叫ぶ。
振り向くと、蒼い顔の彼と目が合う。
「魔物はそうやって鎮めるものじゃない!」
「と言いましても。あれは今すぐ片付けなければ、また怪我人がでますよ」
床に手をついて起きあがっていた彰子が、静かな面持ちで言った。
「義高殿。はよう、片付けて」
頷いて、駆け出す。
庭に転がされた魔物は、松の木にぶつかっていた。
動きが鈍ったところに、また有王が突きこんでいく。
刺して、引き抜いて、蹴とばして、彼は叫んだ。
「あー、もう! 懐剣じゃこれ以上無理! 戦わせるなら僕も太刀を持って歩かせてもらいたいな!」
「おまえは子供扱いなんだから、無理だ」
「ちっくしょー! 童顔だからってバカにするなよ!」
「諦めろ」
「
「しらん!」
有王の横を駆けぬけて、転がっていく魔物を追って、斬りこむ。
ざくり、という手ごたえ。さっきよりずっと軽い。
「あとすこし」
構えなおして、横薙ぎにする。
真二つになる。
ざらり、と崩れて。
冷たい風の中に溶けていく。
はあ、と息を吐いた。
「お疲れ」
ぽん、と背中を押される。有王だ。
押されたところがジワリ疼くのを
水色の水干姿の彼は、ニコニコ笑っている。
「怪我は?」
「してない」
「嘘だ。さっき、かなりの勢いで殴り倒されてたよね」
また背中を押される。今度は呻いてしまった。
有王が笑う。
頰をかいて横を向くと、すぐそばまで歩いて来ていた人がいた。
帰蝶だ。
濃い緑の打掛の袂をぎゅっと握りしめて、唇をかんで、目の端に涙をにじませて、立っている。
その様を上から下までじっくり見て、義高は顔を歪めた。
ひょい、と抱き上げる。
腕はなんてこともない、腹はズキと鳴って背が軋んで、呻きを呑み込む。
「ちょっと! なにするのよ!」
「それは俺が言いたい。なぜ裸足で庭に降りてきている。怪我でもしたらどうするつもりだ」
「あんたたちだって裸足でしょう!?」
「へいきだ」
「とにかく降ろして! 歩けるんだから!」
「厭だ」
建物の脇までそのまま歩いていって、濡れ縁に腰かけられるように下ろす。
彼女はぶすっと頰を膨らませた。
ついてきた有王は肩を震わせた。そのまま、横を向いて、体をくの字におって、ヒーヒー呻きだす。
首を傾げてから、義高は、座ってうつむいた帰蝶の顔をのぞきこんだ。
「義高殿こそ、怪我をしたのではないの?」
顔をあかくした彼女は睨みかえしてくる。
はて、と首をかしげ立ちあがり。腕を片方ずつ順に回して、首をゴキゴキ鳴らして。
「打ち身だけだな」
痛いのは腹と背だけだ、とうなずく。だが、帰蝶の眉はピンと跳ねた。
「床に倒されたり、殴られたりしてたじゃない」
「見てたのか」
「こっちがどれだけ心配したと思って……」
言葉の最後はかすれて、消えていく。
またうつむいてしまったから、立ったままの義高からは帰蝶の顔は見えない。
ただ、またのぞくのは
所在ないままに、庭を見る。
今は、人が大勢走っている。魔物が消えたから、動けるようになったようだ。
先程倒された男は、侍女は無事だろうかと、人が走っていく先を考える。
渡り廊下の向こうも騒がしくなってきていた。
足音荒くやってきたのは、金馬重信だ。
太刀を提げた一団の先頭で、肩をいからせている。
濡れ縁を回ってきた一行を避けようと、帰蝶の手を引いて立たせ、庭に下がる。
だというのに、中の一人が、ピタッと止まった。
「お、おおおお、おまえ! おまえたちもいたのか!」
細身で猫背の青年。
「金馬頼信殿」
義高がその名前を呼ぶと、腕の中で帰蝶がわずかに震えた。
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