きえてゆかずに届くなら
庭先に立った少年に、帰蝶は目を丸くした。
「お
空色の水干に
見た感じでは、帰蝶と同じか、一つ二つ年上といったところだろうか。
背丈もまったく変わらない。細身で、猫のような印象だ。
「……どなた?」
と問いかけながら、すぐに気が付く。
「義高殿の、お遣い?」
御所の中を歩く彼がよく連れていた従者の少年だ。
「うん。有王だよ、よろしくね」
目尻をさげて、手を差しだされた。
「お喋りするのは初めてだね」
濡れ縁に立ちつくし、帰蝶は眉をつりあげた。
「そんなにながくお喋りできる時間はないわ。ご用件は何?」
「つれないなぁ。もしかしなくても、いつもそんな感じ?」
「いつもって?」
「
空いた掌を振り、有王は頬を膨らませる。
帰蝶は眉を寄せた。
「……
今度こそわからない。
「誰?」
ああ、と有王は手を打った。
「聞いたことなかったの? あいつ、こんな簡単な話もしてないんだ」
「だから、なんなの」
しょうがないなぁ、と彼はにゅっと唇を上げた。
「あいつの本当の名前。宇治義高を名乗る前は『競』ってみんな呼んでたんだよ。あいつの家族があいつに与えてくれた、たった
元服前の幼名か、とうなずく。
「聞いてないわ」
「寂しいなぁ…… 君たち、本当に何も喋ってないんだね」
ピクリ、片眉が動く。有王は、やれやれ、と言わんばかりに肩をすくめた。
「この間さあ、好きな菓子を知ったって、競のやつ弾んで帰ってきたんだよ。思わず、いまさらぁって叫んじゃったけど、その調子じゃ知らないことだらけすぎて、何を知っても大喜びしそうだね」
反対の眉もはねたところで、有王は片手に下げていた包みを突きだしてきた。
こい紫の布包み。両手にちょこんと乗るほどの大きさだ。
「受け取って。競から」
「はあ」
予想どおり、両手の上に載せられたそれは、たいした重さもない。
「これは?」
「餅菓子。君が好きなんでしょ?」
え、と瞬く。
「今朝さ。僕らが泊めてもらっている方の建物に出入りの商人さんが来たんだよね。いつも着物とか、武具の手入れの道具とかが中心なんだけどさ。今日はお菓子も売りに来てて。
競ってば、見つけた瞬間に買ってた」
クスクス笑って、有王はまっすぐに見つめてきた。
「おいしくお召し上がりください。さっさとしないと、固くなっちゃうよ」
「そうだけど……」
「おいしいうちに食べてもらいたいからって、僕がお遣いに来させられたの。本当は自分で来たかったんだよ、あいつ」
そういえば、と帰蝶は視線を庭に巡らせた。
「義高殿はどうしているの」
「公方様から急にお呼び出し。なんかねえ、とっても良い太刀が手に入ったから一緒に見ようっていうの。向こうこそ全然急ぎじゃなさそうなのにね、そっちに行っちゃった」
当然だ。仲の悪い妻よりも、仕える貴人の御用のほうが優先だ。
チクリと何かが動くのを抑えこんで、口を開く。
「じゃあ、これはありがたく頂くわ。御礼を伝えておいてください」
「はぁい……」
するりと部屋に戻ったが、有王はまだ部屋の正面に立っている。
「まだ、何か?」
「せっかくだもん、もうちょっとお喋りしたっていいじゃん」
にっこりと、毒のない笑みを向けられて、首を振る。
「……わたしは喋ることはないわ。それに忙しいの」
「いいじゃんケチ」
「そんな言い草はないでしょう」
「君もだよ。もうちょっと、喋ってくれてもいいじゃん」
わずかに目を細めて、有王は続けた。
「君たちが夫婦になって三ヵ月。その間に、どれだけ仲良くなれた? 全然でしょ? 僕らはもちろん、競ともまともに喋ってないようだし。
せっかく夫婦になったのにさ。どうしてそんな冷たくしていられるの?」
帰蝶は唇を噛んだ。
紫の包みを机に置いてふりかえり、有王を真っすぐに見つめる。
「義高殿の従者だというなら知っているでしょう。わたしも義高殿も、望んで婚礼をあげたわけじゃないのよ」
でも、と有王も笑う。
「せっかく夫婦になったんだよ。家族ってそんな冷たいものじゃないはずだ」
「そんなの」
知らない、と言いかけて、唇を引き結んだ。
父も母も知らない、捨て子だったのだ。愛情など知らない。しいていうならば、彰子から向けられる、躾と稽古の熱だけだろうか。
黙って背中を向ける。有王の溜め息が聞こえた。
「やっと、競に家族が返ってきたって、思ったのに」
つい、ふりかえる。
有王は、ふわりと、微笑んだ。
「僕は、競に家族をとり返してあげたいの。
だから、君と競が仲良くしてくれると嬉しいな」
瞬く。ひらりと手を振られる。
「なんか、あんまり言うと君は意固地になりそうだから、今日は帰るよ。競が来たら、よろしくね」
ぺろりと舌も出される。
「子供が出来たってしらせを期待してる」
「うるさい!」
つい、最後は怒鳴ってしまった。
笑い声を立てながら、有王は去っていく。
その背中が角を曲がって見えなくなってから、帰蝶は両手をついてうなだれた。
「今はそれどころじゃなかったのに……」
視界の隅に紫の包みをとらえながら、立ち上がる。
棚の上をのぞき、後ろにも手を入れてみる。それから引き出しを開けて、首を振る。
「無い。やっぱり、無い」
舞扇だ。決して贅沢な一本ではないが、手になじむ重さと形のお気に入りの一本が、部屋から消えた。
「昨日はあったのに」
稽古で使ってから、畳んで、いつものこの場所にしまったはずなのに。
また場所を移されたかと思ったら、いくら見回しても、見つからない。
「しっかりしろ――早く見つけなきゃ」
今日の稽古に遅れてしまう。
手を止められた、と有王を恨みつつ、まったくひろくない部屋中を巡って。
外に出る。
まさか、と思いつつ、濡れ縁の下をのぞく。
「ここにもない」
膝を抱えて。
「どうして」
じわり、と目の端が濡れてきたのを、ごしごしと拭う。
はあ、と息を吐く。
「違うものを持って行くしかないかしら」
とはいえ、そんなに物は数多く持っていない。扇もあと一本だけだ。
ノロノロ立ち上がり、引き出しを開ける。
少し小ぶりな扇を持ちあげて、さらに息を吐く。
要がわずかに歪んでいる。
「開けないじゃない」
あはは、と笑って首を振った。
視線が床に落ちる。泣くまい、と唇を噛む。
かたん、と濡れ縁の板が鳴る。
振り向くと、御簾の影から茶々が顔をのぞかせていた。
「なに? 何の御用?」
低い声がでる。茶々はびくっと体を縮こまらせた。
「急ぎじゃないなら、後にして」
「これを届けに来たの」
そっと両手で差し出されたもの――扇に、息を呑む。
「これ、帰蝶のだよね」
「そうだけど……」
「向こうの、渡り廊下に落ちていたわ。昨日、帰りに落としちゃったの?」
違う、と言いかけて口を噤む。
茶々の手からそれをひったくる。
ありがとう、という言葉は喉に張り付いて出てこない。
「これだけなの。じゃあ、あとで、稽古でね」
パタパタと茶々が去っていく。
ぎゅっと扇を握りしめる。ささくれた骨が掌に刺さってきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます