呪いをかくす愛を乞う
稽古は散々だった。
顔をあげて、前をむいて、ことさら背筋を伸ばして。扇のささくれが掌に傷を作ってくることにも、平気な顔をしているつもりだったのに。
「気が散っていますね」
そう指摘してきた彰子の顔はこわばっていた。
「いま、目の前のことだけを、考えておやりなさい」
立たされて、叱られる。俯くしかない。
居合わせた娘たちは、クスクス、クスクスと笑いあっている。指先を向けてくる。
歩いてきて、一人になる。
自分の部屋がある一角は、今日は特に静かだ。
両隣を宛がわれている娘たちはまだ戻ってきていないらしい。通りかかる人もいない。誰もいない。
風とたわむれる、色づいた葉だけが音をたてている。
濡れ縁の途中で一度立ちどまって、袖で顔をぬぐった。
あとからあとから湿ってくるのだから仕方ないとゴシゴシこする。
目が、頬が、顔全体が熱い。
「もう、本当! 一体なんなのよ!」
拳をふりあげて、ゆっくりとおろした。
すん、と鼻を鳴らして、足を引きずって進んで、部屋を仕切る御簾をくぐって。ぎょっと目を剥いた。
入って正面。板の壁に大きく墨書きされている。
―― 死ね ――
ざわりと、体中が冷たくなる。
「なに、これ……」
文字の形をなしたそれのほかにも、壁や棚、床のあちらこちらにぽつぽつと墨の跡がある。
入り口すぐ
壁の字にも触れる。
冬のおとずれをつげる北風で、冷たくなった壁。そこに吸い込まれた墨で表された文字はどうやっても。
「死ね」
そう読める。
ふにゃり、その場にへたり込んだ。
持ち帰ってきた舞扇が手から落ちて、カチカチと奥歯が鳴りはじめる。
指先が、ガリガリと床をかいて。
「痛い!」
ピリ、という感触が走り、振りあげた。
ふう、と手の先に息をふきかける。
右手の人差し指の先だ。
爪が欠けている。ささくれたところを左手で引っ張る。とれる。血がにじむ。
血を舐めとりながら。
「どうしよう」
帰蝶は呟いた。
板にじっとり染みこんだ墨。
帰蝶が拭いたところでどうにもなるまい。
人を呼んできて、落とせないか訊いてみようか、と考えてすぐに首を振った。
聞こえるはずのない笑い声が聞こえた気がした。
――書かれるほどに恨まれている、と言われるだけだ。
「どうしよう」
もう一度言って。ふらり立ち上がる。
文字の上に掌を置く。乾いた感触しかしない。
掌はすこしも汚れない。
ならば、上から布でも被せてしまおうか。棚を前に置いてしまおうか。
考えて、視線をめぐらせて、衣裳やらなんやらを仕舞っている桐箪笥で目を止めた。
「そうだ。かくしちゃえ」
よし、と拳を握る。
骨がささくれた舞扇を、ちいさな紫の包みが置かれたままの机の上に放りだす。
袖をまくって、ず、ず、と箪笥を引く。押す。
床に筋が走る。
引っかけた指先の爪がまた欠けた。
「痛い」
棚を壁にぶつかるまで押してから、やっと呟いた。
ゆっくり体を起こして、また見回す。
入った真正面に背の高いものが置かれたからか、部屋が狭く感じられる。
もともと箪笥があった場所では、溜まっていた綿埃がまいあがった。
「掃除しなきゃ」
そう考えたところで、机の上を見て、苦笑いを浮かべた。
紫の包みはかわらず、ちょこんとすわっている。
そろりと開いてみると、中では三つしろい餅菓子がならんでいた。
わざわざ遣いを立ててまで、早く食べろと贈ってきたものなのに、包みを開いてさえいなかった。
「ひどい女ね」
掠れた笑い声を立てる。ぽたり、と涙が落ちた。
「ひどい女だから、恨まれるんだ。呪われるんだ」
むぐ、と一つ口に押し込んだ。こちらは乾ききっていない。かろうじて。
また袖で顔を拭いて、モグモグと、三つともお腹に収める。
紫の布だけが残されて、ぎゅっと両手で握りしめる。
ふう、と一度息をつくと、急に寒くなってきた。
開いたままの御簾の向こうに、日が落ちて紫がかった空が見える。
吹き込んできた風に一度体を揺らして、綿入れを着込んだ。
指先はあかく腫れて、血がこびりついている。
それをじっと見つめていたら。
「嫁御殿」
声が聞こえた。
肩がはねる。
胸を押さえながら振りかえる。
淡い夕暮れを背に、義高が立っていた。
切れ長の瞳が、眉が、吊りあがっている。
「何をしていた」
問う声は低い。
「模様替えですが」
とっさに、両手を背中側に隠す。
「なにも、一人でやらずともいいだろうに。物を動かすぐらいなら、俺がやる」
「結構です」
「そんなところで意地を張ってどうする」
「別に、意地なんか……」
「張っているだろう」
いつも険しい視線がさらに厳しい光を
「一人でできたのだから、よろしいではないですか」
本当のことなど言えるはずがない。
それに。
壁のその文字を見られることを考えると、無性に恥ずかしかった。
――なんで。
「今日はもう、お帰りいただいてもいいですか?」
どうにかつむいだ願いには。
「断る」
即答された。
「放っておけぬ」
「なんでですか」
「泣いていただろう」
「そんなことないです」
「うそだ。目が赤い」
そうして伸ばされてきた手を。
「さわらないで」
思いっきり払った。
バシンという音が思いのほか大きく響く。
帰蝶は動きを止めた。
一方で、すぐ隣に膝をついた義高は、ふわりと帰蝶の両手を持ち上げた。
「指先もぼろぼろではないか。いったいなにを隠している」
顔をそむける。だが、手首は掴まれたままだ。
夫の視線が自分に向けられたままなのも、分かる。
「雅やかなこの御所で育った嫁御殿は、俺のことなど風情も
「ち、違う……」
「それでも話を聞くことはできる」
おそるおそる振り向くと、彼はまっすぐに覗きこんできた。瞳の奥を、じっと。
「わかることもある」
胸の奥がざわりと揺れる。
「嫁御殿は弱い」
くい、とそのまま腕を振られた。
体が揺れて、足元が浮く。浮いた体は片腕で抱きとめられた。
静かに下ろされる。背中が床に着く。
そのまま、両手をひょいと頭の上にあげられて、押さえつけられた。
「俺が片手で
ぐい、と腕を持ち上げようとしても、ビクともしない。
帰蝶の両手首に右手の指を絡ませて、義高は涼しげな顔で続けた。
「なぜ頼らない。一人で生きているわけではないのに」
彼は怒っているのだ。
気付くと急に、怖くなった。
「やだ……」
戒めから逃げ出そうと身をよじる。ますます力が強くなる。
「離して」
「いやだ」
「どうして」
「こうでもしないと、おまえは俺を見ないだろう」
両手は右手で、頭は左手で。体は体で押さえつけられたまま。帰蝶は動くのを止めた。
「わたしがそちらを向いたら満足ですか」
「そうでもないな」
「じゃあ……」
「夫婦らしく過ごせればいいと願っているが」
「押しつけられた妻なのに?」
「たとえそうだとしても」
義高は苦笑いを浮かべた。
「一度手に入ったら
つい、吹き出した。
「そんなの知りません」
「当然だ。嫁御殿が、俺の何を知っているというんだ。
知ろうとも、見ようともしないのに」
まったくだ、と首を振る。唇を噛んで、見あげた。
夫であるところの青年は、真っすぐに見つめてきている。
静まり返った夜の初め。互いの呼吸の音しか聞こえない。
そのまま、唇で唇をふさがれる。
それを、あたたかい、とおもってしまった。
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