手がとどかない胸のうち

 誰ともなく、口をつぐむ。

 政時はしかめ面で、三寅は憂い顔で。義長は鼻をすすっている。

 まいった、と視線をさまよわすと、正面の渡り廊下がざわめいているのが見えた。


 人垣がわれてできた道から、一行が姿を現す。

 先頭には、中肉中背の直垂姿の男。右手に持った扇を左手に打ち当てながら、大股で歩いてくる。

 その後ろに、細身で猫背の一人が手ぶらで続く。四人がかりでかつがれた葛篭つづらがやってくる。


 瞬いている間に、彼らは上座の前へ。

 ぱっと義長が顔を上げて、段をかけおりていく。


「おお、重信か。よく来た、よく来た。今宵もまたき物を見せてくれるのかな?」


 義長が喜ぶのも当然だ。ほかならぬ義長の近習として仕えてきた男だからだ。名を金馬きんば重信しげのぶという。

 乳兄弟でもあるらしく、年の頃は義長と変わらない。

 ただ、こちらはでっぷりとにくをつけ、肌をてからせ、確実に老いていっていた。


 その彼は。

「自慢が増えました」

 と、目をほそめて、運ばれてきた葛籠つづらの蓋を開けた。


「宴の余興にご覧くださいませ。職人が丹精たんせい込めてしあげた逸品です」


 出てきたのは、新品の鎧兜だ。

 兜の地や胴、草摺くさずりは深紅。通し糸には墨色が使われている。磨きあげられた鋼は、燭台の灯りをうけて輝いている。

 脇立わきだては鹿の角をしたらしく、横に大きくせりだしていた。


「このようなものをかぶっていたら、動きにくかろうに」


 政時が言うのに、重信は大声で笑った。


「戦場を駆けまわる役目の者は着ませぬでしょう。これは大将こそがまとうに相応ふさわしい」

「では、公方様に献上なさるのかな?」

「いやいや、それは」

「重信が持っておれ」


 義長はゆったりと笑んだ。


「我には似合わぬ」


 重信が鷹揚に身を伏せる。政時は首を振った。


「我が好むのは、あれじゃよ」

 義長が持つ扇で示されたのは、宴席の端で楽を奏でる一団。

 笙が、笛が、高くなく。弦の音が風を起こす。

 その舞台の真ん中に立とうとする背中が見える。


 帰蝶きちょうだ。


――舞う、のか。


 すでに聞かされていたことなのに、ちくりと胸の奥がざわめく。


「今宵の舞も楽しみですな」

 重信の声が響く。

「長くこの御所で育てられきて、舞う姿を何度も見ていますが、本当に良い腕をしている。

 公方様は、義高殿に素晴らしい嫁をお与えなさった」


 彼はこちらを向いていない。義長に言っているのだ。

 は、と息を吐きかけて、呑み込む。ごまかすためさかずきに口をつけける。

 義長は、酒精にそまった顔で、重信を向いた。


「ながく行方ゆくえのわからなかった弟へ、最上の贈り物だろう?」


 機嫌のよい声に、彰子がゆったりとうなずく。

 重信は肩をすくめた。


「私にも、年頃の息子がおるのですけどね」


 と、視線が置きっぱなしだった葛籠つづらの横に向けられる。

 そこには青年が一人。


 見た目の年頃は義高と変わらない、二十歳過ぎだろう。細身の男だ。

 目鼻も、眉もひょろりとしている。

 背中はすこし丸まって、両手の指はソワソワと、ひっきりなしに組みなおされてつづけている。


「頼信」


 重信のひくい声に、ビクッと肩が揺れる。


「公方様と、その弟君にご挨拶を」

「は、はははははは、はいはい!」

「はいは一回」


 ふう、という呻きに続いて、細身の青年は額を床に擦りつけた。


「き、きききき、金馬きんば頼信よりのぶでございます。い、いず、ずずず、いずれは、父の跡を継ぎまして――」

「――よい」


 片手を上げて、義長は息を吐いた。

 その目が細められる。頼信がまた、ヒィッと声を上げた。


「落ち着きのない男じゃ」

「お恥ずかしながら」


 口ではそう言いつつ、目元は慌てていない。

 パシン、と扇を掌で鳴らして。ゆっくりと向き直って、重信は真っすぐに主を見た。


「ですが、慣れれば、落ちついてまいります。必ず。義長様の御役に立つよう、育ててまいりました」

「……頼りにしているぞ」


 脇息に肘をついた義長が、また溜め息を吐く。

 三寅は目を点にしていた。烏丸政時は、渋面だ。

 重信がまた扇を鳴らす。


「さて、公方様。鎧でお目は喜ばれましたかな?」

「おお。十分に」

「中秋の名月は、如何に」

「今年もよく照っているのう」

「左様にございますね」


 重信が頷く。義長はパッと顔をあかるくした。


「その月にも劣らぬ輝きを楽しまねばならぬのう?」


 笙と琴の音が高くなる。人々のざわめきは鎮まっていく。

 全ての視線をその身に集めて。

 帰蝶が動き出す。


 身を包むのはしろい狩衣。男物の衣裳だからこそ、その肢体のしなやかさがきわだつ。

 ひろげられた扇も、やわらかく、宙を流れる。


 彼女はこちらに気が付いていない。

 ここに義高が座っていることは知っているだろう。ただ、見られていることには気づいていない。

 気を配っていないのだろう。

 凛々しい視線は遠くへと、舞楽の神へと向けられている。


――俺は望まぬ夫か。


 つい、自嘲的な笑みが零れた。



 最初の夜。

 あのしなやかな体を確かに手に入れたと思ったのに。

 心は遠い。



――有王には、仲良くなる努力はすると言ったが。


 どうやって近づいていけばいいのか、分からない。

 こうして遠くから見つめるだけだ。


 肺の奥がひきつれるような感触を持てあます。


「美しい娘だろう」


 耳元で義長に言われ、はっと顔を上げた。

 目を丸くして向く。笑われる。


「そして、賢い」


 不意に思い出す。軒先から転げおちてきた桶を、浴びせられた水の冷たさを。


 義高が呆然となっているうちに、ふらりと義長は立ち上がった。

 彼がトトトと駆けていくと、周囲の人がさっと道を開ける。舞台へと一直線に。

 そこでは帰蝶だけでなく、他にも舞手がいた。彼らの手の扇が、風を切っている。翻る袖が灯りを揺らす。

 義長は楽団の席に飛び込み、澄んだ声で歌い出した。

 音が、七五、七五、と繰り返して並んだ、今様歌だ。


「本当に、お好きでいらっしゃる」


 政時が呻く。


「それだけではまかりならぬとまだ気付かれぬか」

「叔父上様」


 三寅が眉を寄せる。


「飢饉の最中さなかにあってもこれだけの宴が開ける。その理由を忘れられては困るな」


 義高は首を傾げた。政時はもう一度首を振って立ち上がった。


「今宵はこれで失礼する。帰りましょう、三寅様」

「はい、叔父上様」

「義高殿」


 視線が交わる。


「くれぐれも、滅多なことをお考えにならぬように」

「心得ています」


 静かに顎を引くと、ニタリと笑われた。

 三寅はただ、頭をさげるだけ。


 二人の背が見えなくなってから、義高は再度、舞台を見た。

 今様歌はまだ響く。周囲の者が、それに合わせて手を叩く。重信がそちらへと向っているのも見えた。


 座敷の正面に真新しい鎧兜は残されていて、その横で、頼信が呆けたように座っている。


「やだ…… やっぱりあのコ、すごいきれいじゃん」

 視線は舞台へ向けて、呟いている。

「……ボク、ああいうコ、とってもこのみなんだけど」


 義高は首を傾げて、酒をなめた。

 頼信のブツブツ言う声は、言葉のかたちになっていない。むしろ、義長の歌のほうが、はっきり聞こえる。

 初めて聴く歌だ、と目を閉じる。



 宴も恋も生きてこそ

 血汐燃ゆるは現世のみ

 泉下へ持てるものはなし

 舞も歌いも忘れゆく



「現世のみ、か」

 笑う。

 確かに、ともう一度さかずきをあおった。

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