手がとどかない胸のうち
誰ともなく、口をつぐむ。
政時はしかめ面で、三寅は憂い顔で。義長は鼻をすすっている。
まいった、と視線をさまよわすと、正面の渡り廊下がざわめいているのが見えた。
人垣がわれてできた道から、一行が姿を現す。
先頭には、中肉中背の直垂姿の男。右手に持った扇を左手に打ち当てながら、大股で歩いてくる。
その後ろに、細身で猫背の一人が手ぶらで続く。四人がかりで
瞬いている間に、彼らは上座の前へ。
ぱっと義長が顔を上げて、段をかけおりていく。
「おお、重信か。よく来た、よく来た。今宵もまた
義長が喜ぶのも当然だ。ほかならぬ義長の近習として仕えてきた男だからだ。名を
乳兄弟でもあるらしく、年の頃は義長と変わらない。
ただ、こちらはでっぷりと
その彼は。
「自慢が増えました」
と、目をほそめて、運ばれてきた
「宴の余興にご覧くださいませ。職人が
出てきたのは、新品の鎧兜だ。
兜の地や胴、
「このようなものをかぶっていたら、動きにくかろうに」
政時が言うのに、重信は大声で笑った。
「戦場を駆けまわる役目の者は着ませぬでしょう。これは大将こそがまとうに
「では、公方様に献上なさるのかな?」
「いやいや、それは」
「重信が持っておれ」
義長はゆったりと笑んだ。
「我には似合わぬ」
重信が鷹揚に身を伏せる。政時は首を振った。
「我が好むのは、あれじゃよ」
義長が持つ扇で示されたのは、宴席の端で楽を奏でる一団。
笙が、笛が、高くなく。弦の音が風を起こす。
その舞台の真ん中に立とうとする背中が見える。
――舞う、のか。
すでに聞かされていたことなのに、ちくりと胸の奥がざわめく。
「今宵の舞も楽しみですな」
重信の声が響く。
「長くこの御所で育てられきて、舞う姿を何度も見ていますが、本当に良い腕をしている。
公方様は、義高殿に素晴らしい嫁をお与えなさった」
彼はこちらを向いていない。義長に言っているのだ。
は、と息を吐きかけて、呑み込む。ごまかすため
義長は、酒精にそまった顔で、重信を向いた。
「ながく
機嫌のよい声に、彰子がゆったりとうなずく。
重信は肩をすくめた。
「私にも、年頃の息子がおるのですけどね」
と、視線が置きっぱなしだった
そこには青年が一人。
見た目の年頃は義高と変わらない、二十歳過ぎだろう。細身の男だ。
目鼻も、眉もひょろりとしている。
背中はすこし丸まって、両手の指はソワソワと、ひっきりなしに組みなおされてつづけている。
「頼信」
重信のひくい声に、ビクッと肩が揺れる。
「公方様と、その弟君にご挨拶を」
「は、はははははは、はいはい!」
「はいは一回」
ふう、という呻きに続いて、細身の青年は額を床に擦りつけた。
「き、きききき、
「――よい」
片手を上げて、義長は息を吐いた。
その目が細められる。頼信がまた、ヒィッと声を上げた。
「落ち着きのない男じゃ」
「お恥ずかしながら」
口ではそう言いつつ、目元は慌てていない。
パシン、と扇を掌で鳴らして。ゆっくりと向き直って、重信は真っすぐに主を見た。
「ですが、慣れれば、落ちついてまいります。必ず。義長様の御役に立つよう、育ててまいりました」
「……頼りにしているぞ」
脇息に肘をついた義長が、また溜め息を吐く。
三寅は目を点にしていた。烏丸政時は、渋面だ。
重信がまた扇を鳴らす。
「さて、公方様。鎧でお目は喜ばれましたかな?」
「おお。十分に」
「中秋の名月は、如何に」
「今年もよく照っているのう」
「左様にございますね」
重信が頷く。義長はパッと顔をあかるくした。
「その月にも劣らぬ輝きを楽しまねばならぬのう?」
笙と琴の音が高くなる。人々のざわめきは鎮まっていく。
全ての視線をその身に集めて。
帰蝶が動き出す。
身を包むのはしろい狩衣。男物の衣裳だからこそ、その肢体のしなやかさがきわだつ。
ひろげられた扇も、やわらかく、宙を流れる。
彼女はこちらに気が付いていない。
ここに義高が座っていることは知っているだろう。ただ、見られていることには気づいていない。
気を配っていないのだろう。
凛々しい視線は遠くへと、舞楽の神へと向けられている。
――俺は望まぬ夫か。
つい、自嘲的な笑みが零れた。
最初の夜。
あのしなやかな体を確かに手に入れたと思ったのに。
心は遠い。
――有王には、仲良くなる努力はすると言ったが。
どうやって近づいていけばいいのか、分からない。
こうして遠くから見つめるだけだ。
肺の奥がひきつれるような感触を持てあます。
「美しい娘だろう」
耳元で義長に言われ、はっと顔を上げた。
目を丸くして向く。笑われる。
「そして、賢い」
不意に思い出す。軒先から転げおちてきた桶を、浴びせられた水の冷たさを。
義高が呆然となっているうちに、ふらりと義長は立ち上がった。
彼がトトトと駆けていくと、周囲の人がさっと道を開ける。舞台へと一直線に。
そこでは帰蝶だけでなく、他にも舞手がいた。彼らの手の扇が、風を切っている。翻る袖が灯りを揺らす。
義長は楽団の席に飛び込み、澄んだ声で歌い出した。
音が、七五、七五、と繰り返して並んだ、今様歌だ。
「本当に、お好きでいらっしゃる」
政時が呻く。
「それだけではまかりならぬとまだ気付かれぬか」
「叔父上様」
三寅が眉を寄せる。
「飢饉の
義高は首を傾げた。政時はもう一度首を振って立ち上がった。
「今宵はこれで失礼する。帰りましょう、三寅様」
「はい、叔父上様」
「義高殿」
視線が交わる。
「くれぐれも、滅多なことをお考えにならぬように」
「心得ています」
静かに顎を引くと、ニタリと笑われた。
三寅はただ、頭をさげるだけ。
二人の背が見えなくなってから、義高は再度、舞台を見た。
今様歌はまだ響く。周囲の者が、それに合わせて手を叩く。重信がそちらへと向っているのも見えた。
座敷の正面に真新しい鎧兜は残されていて、その横で、頼信が呆けたように座っている。
「やだ…… やっぱりあのコ、すごいきれいじゃん」
視線は舞台へ向けて、呟いている。
「……ボク、ああいうコ、とってもこのみなんだけど」
義高は首を傾げて、酒をなめた。
頼信のブツブツ言う声は、言葉のかたちになっていない。むしろ、義長の歌のほうが、はっきり聞こえる。
初めて聴く歌だ、と目を閉じる。
宴も恋も生きてこそ
血汐燃ゆるは現世のみ
泉下へ持てるものはなし
舞も歌いも忘れゆく
「現世のみ、か」
笑う。
確かに、ともう一度
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