満つるところがなかりせば

 膝に手をついていた万寿が、おぼつかない足取りで去っていく。

 義高は息をはいて、斜めうしろを見て、もう一度息をはいた。


 今は、有王がいない。

 連れてこないと決めたのは自分のはずなのに、と視線をさげる。


「今宵も賑やかですね」


 そこにかけられた声に、無表情のまま顔をあげた。

 隣に座っていた声の主、まだ幼さを残す少年がビクッと震える。

 怖がらせてしまったかと思いつつ、特に表情は変えずに。

「公方様のお力にございましょう」

 義高よしたかはそう答えた。


 返事があったことで少しほっとしたらしい。少年――末の弟だという三寅みとらは、笑った。


義長よしながお兄様のもとには、人がたくさん集まるんですよ。

 ああ、武士だけではないですよ。朝廷でまつりごとになう公家も、商人も、芸者も、たくさん。お兄様を訪ねてきます」

「将軍という肩書につられてくるんじゃ」


 頬を朱にそめた義長の声がわりこんでくる。

 二人で見やると、彼はニコニコしていた。


「将軍というのはどのようにしてなるか、知っているか?」


 視線を向けられて、義高は素直に首を振った。


「まずは血筋じゃ。どうも、源氏の血が必要らしい」

 はっはっはっ、と声を立てて彼はまだ酒を呑んでいる。

「その血筋に連なる者の中から、数多の武家を束ねるに相応ふさわしいと判じられた者が、なるのじゃ。朝廷から下される宣旨せんじをいただくのじゃぞ。そうすると、この座から死ぬまで逃げられなくなる」

「逃げられなくなるなんて、そんな」


 三寅がぎゅっと眉を寄せても、義長は上機嫌にさかずきをあおっている。


「我の場合は、この身を流れる血だけが理由じゃ。先代の正室の長子だったからというだけじゃ。

 なあ? おぬしもそう思うだろう?」


 話を振られたのは彰子しょうしだ。

 いつの間にか、三人の座る他よりも一段高く設えられた席に一緒座っていた彼女は、嫣然えんぜんと微笑んだ。


「まさかに、そのようなことがあるわけないでしょう?」

「おい」

「公方様は、公方様となられるべく、この世にお生まれになりました」

「冗談は程ほどにせい」

「いいえ、本気で思っておりますよ」


 ゆっくりと、紅をはいた唇で弧を描いて、彼女は続けた。


「武家を束ねるのは何のためですか。

 武は、この世にはびこる魔物を調伏する、制するために用いられるべきです。他の目的――例えば、人同士の争いなどに武を使わせては駄目なのです。そのために、あまねくひろく、武士をこの御所に集わせているのでしょう。

 公方様、自信をおもちさないませ。今どんな問題があるというのです?」


 力強く話しつづける彰子を、義高は改めて見つめた。

 義長の正室。年の頃は、彼と同じく、四十といったところだろう。

 だが、若い。

 口許にも目元にも皺はなく、掌もつるんとしている。日に灼けたことなどないだろう肌はしろく透けていて、紫色の小袖も藍色の刺繍も、その肌の色をきわだたせていた。


「人同士の争いなく済んでいるのですから、良いのです」

「そ、そうかのう……」

「そうですとも」


 そんな大人たちの会話を聞いているのかいないのか。

 彰子の膝の上に、万寿は頭を乗せて、ウトウトしていた。彰子がその髪を撫でていると、やがてムニャムニャと呟きはじめた。


万寿まんじゅはおねむか」


 義長が笑う。


「仕方ございませんでしょう」


 なかなか子をもうけなかった二人の間に生まれた、嫡子。数えで三つ、と聞いたはずだ。

 ゆくゆくはこの子が次代を継ぐのだろう。

 義長はその子をひょいっと抱え上げて、自分の膝の上へ動かしてしまった。


 浅い眠りを中断されたらしい子は、目を擦って起きあがり、それからまたパタンと倒れてしまった。

 義長が笑う。三寅もつられたようで、吹きだす。

 彰子は首を振った。

 その後ろに、年配の男が立つ。


「おお、道之」

 義長が笑う。

「お父様」

 彰子は眉を顰める。


「今宵はお招きにあずかり恐悦至極」


 慇懃に頭を下げる男。彰子の父、吉野よしの道之みちゆきだ。

 顔は何度も、この御所で見かけている。彰子によく似た面立ちで、少し眉が太い。するどい眼光で気づきにくいが、頬にはうっすらと傷跡がある。

 なんでも、大きな魔物を退治した際のものだとか。

 肩幅の広い、分厚い体の男だ。掌も厚く、筋張っている。


 その後ろへもう一人歩いてくる。こちらもよく見る顔だ。

 義長の、そして三寅の叔父であり後見人である、烏丸からすま政時まさとき。こちらもまた、恰幅の良い、たくましい体つきだ。

 眼光のぎらつきもあいまって、相対する相手を震えさせていそうだ。


 そろって座って。ギロリと、初老の二人は視線を交えた。


 仲が良いはずがない。

 吉野は、彰子の実家。道之は次代は万寿に、と思うはずだ。己が権勢を誇るためにも。

 一方の政時は、三寅を推すのだろう。引き続きの立場のために。


――これで人間同士の争いが無いと言いきれるのだから、たいしたものだ。


 形ばかりのあいさつを述べて、道之は足音あらく去っていった。

 見おくった政時はうすく笑っている。


「叔父上様」

 三寅がほそい声を出した。

「やっぱり、僕はこのような場は苦手です」

「いいえ、三寅様。よくよくご覧になってください。源氏の血に連なるものとして、知っておいたほうが良い」


 答えた政時は、そのまま視線を義高に向けてきた。

 顔色を変えずに、まっすぐに受けとめる。


「そなたもだ、義高殿。この場のこと、よくご覧になるがいい」


 義高は首を振る。


「私はただの田舎者です。本当ならこの場にいないはずの。

 末席に連なるだけで充分ですので」

「だが、武家の末席とは思えぬ活躍が聞こえた故、招いたのだ」


 政時の表情も変わらない。


「洛外――この都の南で魔物退治に勇をふるう武者がいる、と聞こえてきたのは昨年だったか。その続きをよくよく聞けば、義高という名の武者だという。ははあ、と思った」

「何故です、叔父上様?」

 と三寅がくと、やっと、政時の笑いの形が変わった。


「先代将軍は義平よしひら様とおっしゃる。彼の方は、自身の息子に『義』の字を与えていかれた」


「そうなのじゃ。よほど好きらしい」

 と、義長が顔を出す。

「思いいれが強すぎてな。子等はこの腹にその字を刻まれた」


 え、と三寅があおくなる。


「僕だけでなく――義長兄上にもあるのですか?」

「そう。てずから、刀で掘られたのだ――生まれた日にな」


 右の腹をさすっている。そのあたりにあるのだろう、と義高は目を細める。

 三寅は袖で口を押さえて、横を向いた。


「なんだ、みんななんですね」

「そう。おまえたち以外にも五人いた兄弟も全員、刻まれていた」


 はははと義長が言うと、政時はおおきく咳をした。


「さらに、朝廷の記録を調べれば、先代がそのあたりの所領を息子に譲っていたという事実がでてきましてな。宇治の一帯の荘園を義高のものとする、というものが」

「それで宇治を姓として名乗られているのですね」


 三寅が言うのに、つい吹き出した。


「そんなところ、ということにいたしましょう」

「義高兄様も、源を名乗られればいいのに」

「いいえ。いやしい身分の者を母とする身ですので、これで十分です」


 視線を三寅から政時に。

 老いを知らない男の目が研ぎすまされる。


「つまり将軍位に――」

「就けるはずございません」


 低く、頬を動かさずに答える。


「この御所に招かれましたからには、この刀は義長公のために振る所存」


 ゆっくりと上座の将軍その人に頭を下げる。

 政時の顔に喜色がうくのがちらりと見えた。

 兄、であるはずの男は、袖で目頭を押さえていた。


「なんと嬉しい言葉じゃ、義高よ。

 だが、おぬしは死ぬなよ。他の五人は、理由はそれぞれあれ、みな死んでいった。

 争いなど困るだけよ。魔物とではなく、人同士で血を流しあうなど、この世を末法の世へと近づけていくだけじゃ」

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