前だけを向け舞いおどれ

「ひどい妻よね。夫に冷水を浴びさせたそうよ」

 クスクスと笑いあう声が、狭い池をはさんだ向こう側から聞こえる。


――あんたたちがしかけた水桶でしょうが!


 こちらは庭の中、向こうは濡れ縁。午後のひと時をお喋りでつぶそうという面々をギロッとにらむ。

 声は止んだが、あざけるような笑みが彼女らの顔から消えることはない。

 腕の中で、小袖が濡れている事実も変わらない。



 みな同じ、将軍・義長よしながとその妻・彰子しょうしの養い子という立場の娘たちだ。


 長く実子に恵まれなかった彼らは、方々ほうぼうから年頃の女子をひきとって育てていた。

 彼らと同じ武家の娘から、時には公家や地方の豪族からもつれてくる。皆、十になるまでに御所にやってきて、温かい寝床と食事とひきかえに、きびしく躾けられ、芸を身につけさせられる。

 そして年頃になると、夫妻の政治の手駒として、公家や武家へ嫁入りしていくのだ。


 こんな環境だ。お互いにはりあう、比べたがる気持ちがあるのを、帰蝶きちょうも否定できない。

 より良い嫁ぎ先にむかわされるかどうか。また、夫婦となった後も、婚家に向かわされるのではなく、彰子の手元に置いてもらえる――夫を通い婚とさせられるかどうか。

 些細なことで、大事にされているされていない、と競争する。

 自分より上とみなした相手を突きおとそうと、あの手この手で攻めたてる。


 あの笑みは。大事にされているのだから、これくらい耐えろという笑みだ。


 先代の落胤という血筋の良さがあり、武家のあいだでのこれから地位が高くなるであろう夫を手に入れたことと。

 いまだに御所内に住まわせてもらえているということを。

 その幸いに応じた嫌がらせは耐えるべきだという、娘同士のふしぎな不文律。



 もう一度、ポタポタと雫を落とす小袖を見た。

 今度の舞の披露に着ようと思っていた一枚は、苔がべっとりと貼りついて、擦りきれ破れている。


 話せる相手がへった御所の中で、自分の顔が鬱々うつうつとしていることを、帰蝶ははっきりと感じていた。




 秋が深まる晩の、東から月が顔を出した頃合いに。


 白練の小袖と黄檗きはだ色のそれを重ねて着こみ、緋色の袴をはく。その上に、真っ白な狩衣をまとう。締めた当て帯もまた緋色。

 豪奢な飾りの太刀を帯びて、扇を手にして立ち上がる。


「用意はできましたか?」


 部屋の前には、いつの間にか彰子がやってきていた。

 その後ろには五人も侍女が控えている。

 鮮やかな紫色の小袖の上に、誰よりも刺繍の多い袿を肩にかけて、彼女は微笑んだ。


「今宵もまた、凛々しい装いですね」

「ありがとうございます」


 ゆっくりと頭を下げる。コロコロと笑われる。


「参りますよ」

「はい、御台所様」


 育ての母の後ろについて、渡り廊下を進む。

 煌煌と照らされたそこはごった返していたが、彰子が進むとスルスルと道がひらけていく。


 ふと視線を感じて振りむけば、娘たちがこちらを指さして、笑みを交わしあっていた。


 眉がよる。

 娘たちはあからさまに指さしてくる。

 彼女たちが一致団結して、今日の大一番の舞台へ帰蝶をしたのは、尊敬からではない。失敗させて、恥を欠かせようというという魂胆だ。


――せこい意地悪しかできないあなたたちと一緒にしないで。


 舌をうって、睨みつける。

 あちらこちらで目を逸らす娘たちがいる。

 さらに、と見回すと、ひとつ隣の渡り廊下の人影が目に入った。



――あれは誰だろう?


 つい、耳をすます。


「いたい」


 そんな、小さく震える声が聞こえた。


「なにが、かなあ?」


 甲高い声も耳に届く。


「ボク、乱暴はしていないよ?」


 え、と声が漏れた。

 灯りのすくない向こう側にいるのは誰だろう、と目を凝らした時に。



「早くおいでなさい」


 ハッとして、振りむいた。

 離れたところで、彰子が困ったような顔で立ちどまっている。


「申し訳ございません」


 小走りで向かう。

 もう、すぐそこに、今日の会場が見えている。


 今宵の一席は特に大きい。二月前の、帰蝶と義高よしたかの婚礼の際のものよりもだ。

 中は人と食べ物と、それらの匂いで充たされている。


「義高の顔を知らぬ者が多くてな。あいつもこいつもと考えていたらここまで広がってしまった」


 上座の真ん中に座って、今代の将軍その人が笑っている。


「ご機嫌よう、公方様」


 正面に座った彰子が頭を下げる。

 その彼女に、横から小さな男の子がとびついた。


「おや、万寿まんじゅ。おまえもお呼ばれですか」

「ててさまに、よんでもらったの。かかさまと、いなさいって」

「それはそれは」


 ぎゅっと、母子が抱きしめあう。


「あたらしいおじさまに、おごあいさつしなさいって、いわれました」

「なるほど」


 きゅっと唇を上げて、彰子は笑った。

 帰蝶も彼女にならって、頭をさげ、正面を見る。



 今代将軍、みなもとの義長よしなが

 四十路に手が届いたはずの男だが、眉が細く、鼻も小ぶりで、女々しく、そして若い印象だ。

 身にまとった着物は濃い紅色で、優美さがきわだつ。


 左隣には、今年で十二になる少年、三寅みとら

 そのさらに隣に、義高。

 三人、年は離れているが、全員が十年前に亡くなった先代・義平の息子たちだ。


 母親は全員違う。

 義高の母は別として、正妻であった義長の母と、三寅の母は姉妹だった。

 だから、時期は違えど、二人はその母たちの兄である烏丸からすま政時まさときの手で養育されてきた。



 会場を見回せば、別の一角で人に囲まれた政時が見える。

 還暦を過ぎているはずなのに、恰幅の良さも視線の鋭さも変わらないと言われている。桑染の直垂の、背筋が伸びた姿は、歴戦のつわものそのものだ。

 

 三寅はなかなか、こういった場には出てこない。今夜は政時が連れてきたのだろう。

 よほど緊張しているのか、柿色の衣裳の袖が、こまかく震えている。

 目の前の膳から料理を口に運ぶのも一苦労といった感じだ。


 万寿のいう「新しい叔父」というのは義高のことのようで、彰子のもとから離れた幼な子はその膝に手をついて遊びはじめた。

 今年三つの万寿は、まんまるな目をキラキラ輝かせて喋りつづけている。

 あいづちを返す義高は、常どおりの無表情だったが。


 彼は、普段見るのとは違う直垂、胡桃くるみ染の落ち着いた一枚を身につけている。そして、折烏帽子をかぶり、腰には大振りの太刀を佩いていた。

 視線は万寿を向いたままで、帰蝶を見ることはない。


――興味ないわよね、やっぱり。


 もう一度頭をさげると、義長の声がふってきた。

「今宵は期待しているぞ」

 はい、と答え、帰蝶は口の端を無理やり上げた。



 舞うことに否やはない。

 荒ぶる神を鎮めるため、和いだ神に恵みを乞うために。


――失敗なんかしない。



 建物の南側には大きな池。灯篭とうろうを乗せた舟がゆらゆらと踊っている。

 その灯りに負けじと、漆黒の中で光る真円の月。

 おかげで、舞台はあかるい。


 そそがれる好奇の目を一瞥してから、ゆっくりと扇を広げて、掲げた。

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