あやかしだけになかりけり

 風が吹くたびに、庭のシイの木が葉を揺らす。屋根のはしから垂れさがった紐も揺れている。

 それを横目で認めながら、帰蝶は自室の引き出しという引き出しを開け、あらゆる物を引っくりかえしていた。


 小袖と小袖が重ねられたあいだに筆が押しこまれていたり。歌本の端が少しずつ曲がっていたり。香炉が傾いていたり。

 他にも、小さな物が床に、外の濡れ縁に散らばっている。

 最後にそれを使った時にこんな乱雑な片付けをしただろうか、自分の部屋はこんなに汚れていただろうか、と首をひねる。


――やっぱり、最近おかしい。


 持ち物が、記憶にあるのと違う場所にしまわれていたり、少しずついたんでいたりするのだ。

 それがどうも、婚礼をあげて以来のことのような気がする。


 考えてから、まさか、と首を振った。


「……小袖も一枚たりない」


 溜め息まじりに、部屋の外へ。樋から落ちてきている紐には触れぬように、でも無表情に、下駄をつっかけて庭へ降りる。

 今日も空があおい。雲のまばゆさに目を細めて、それからぐるりと見まわして。塀の際のケヤキの木に目を止めた。


 夏の間にしげった葉の間からチラチラと赤いものが見える。

「あった」

 唐紅の一枚。探していた小袖だ。


 枝が刺さっていたら。幹の露が付いていたら。

 汚れてほつれて、着られなくなっていたら、どうしようか。


 唇をギュッとひきむすんで、木に登る。


 ゴツゴツした幹は、登りやすい。スルスルと上がり、てっぺんに近い枝にかけられていた小袖をふわりと外した。

 ギュッと抱き込む。

 降りるかと下を向いて、帰蝶は目を丸くした。

 夫がいる。


「なんの御用ですか」

「おまえも何の用で木に登っているんだ」

「荷物を取りにきたのです」


 首を傾げられる。次いで、両腕を広げられた。


「……なんでしょうか」

「降りるのだろう?」


 飛び込め、ということか。

 眉を寄せる。

「自分で降りられます」

 滑るように地面へ。


 真っ直ぐに立ってから。

「なんの御用ですか」

 もう一度問うと。

「ご機嫌うかがいだ」

 身もふたもない答えが返る。眉が跳ねる。


「お忙しいのでしたら、ご無理なさらず。毎日来なくてもいいんですよ」


 プイッと横を向いて歩きだしても、義高は一歩うしろをついてくる。

 相変わらず、樋からは紐が垂れて、風とたわむれている。そのわきをすり抜けて部屋に戻る。

 小袖の無事を確認してから、帰蝶は溜め息をはいた。



 最初から、ろくでもない結婚だったのだ。


 先代将軍・義平よしひらの落胤。それがこの宇治うじ義高よしたかだ。


 去年まで忘れられた存在だった彼が、武家がつどうこの御所で話題になったのは、洛外の魔物をことごとく斬り伏せている武者がいるという噂がきっかけだった。

 都より南にくだった田舎には、小さな荘園がいくつもある。そのあちらこちらで頼りにされている武者との評判だった。

 最初は、その一騎当千の強者に都の魔物も斬りふせさせようと、武家を束ねる将軍は考えたのだ。


 ところが、その彼自身が所有する荘園を調べれば、先代の将軍に縁があることが分かった。

 二十余年前、今代の将軍・義長よしながの母である正室にうとまれて、御所を追われた女がいた。傍仕えの身でありながら、先代と心をかよわせた女が。

 正室に呪われて、それでも恋を捨てられなかった先代は、女へひそやかに土地と屋敷を与え、通い、子を成した。

 その子が義高だ。

 朝廷の記録簿には、荘園の主としてたしかに義高の名が記されていて。彼もまた、自身の所領の証文を持っていた。


 御所は大騒ぎになった。

 頼りにならない今代の義長に変わって誰をすかでせめぎあっていた面々があおくなった。


 これ以上の火種はいらぬと、結局、彼は都に呼びよせられた。

 そして、呼びよせた面々は、適当な娘をあてがって、繋ぎとめようとした。

 その『適当な娘』が帰蝶だったのだ。


 今代の将軍とその妻が育てる、数多いる娘の中で、一番面倒が少ないと思われたからだろう。


 今年で十六になった帰蝶は生まれがわからない。

 赤ん坊のころ、春の日に捨てられていたのを、彰子が拾ってきたらしい。それからは寝床にも食事にも困ることなく育てられてきた。

 くわえて、歌も舞も、一流の教えを受けられてきた。

 この恩は感じている。

 そしていつかは、政治の手駒として、望まぬ結婚をするだろうということも分かっていたはずだ。



 ひととおり思いかえした後。帰蝶は、もう一度、夫を見た。

 部屋と濡れ縁のさかいめ、御簾の手前に腰を下ろした夫は、ピンと背筋を伸ばしたまま、こちらを見てきている。

 きりりとした眉に、冷たい光を湛えた切れ長の瞳。引き結ばれた口許。日に焼けた手。

 まったく考えがよめない表情をしているのは、婚礼の時もだった。


――押しつけられたうえに、噛みついてくる妻なんて、困るだけよね。


 笑う。

 首を振って、奥に向きなおる。

 唐紅の小袖を、ピンと伸ばして畳んで、引き出しにしまった。


 物の整理を終えてほこりをはらった部屋は、心なしか明るくなっている。

 それを見て、少し笑って、もう一度引き出しをゆっくりと開けて、中身を取り出す。


 まずは白練の狩衣。それを衣桁いこうにかける。そのそばに緋色の袴をひろげる。

 飾り太刀と扇も、桐箱から出して並べる。

 どれも一級品だ。孤児がよくぞ触ることができた、と思うほどの。

 触って、欠けたところがないことを確かめて、ほう、と息をつく。


「何をしている」


 かけられた声に目を丸くして振り向くと、そこにはまだ義高が座っていた。


「義長様の前で舞を披露するよう命じられていますので、その支度を」

 と答える。

 それからプイッと顔をそらす。


「特に御用がないのなら、行っていただけませんか?」

「用は…… そうだな、あるな」

「わたしは話すことはありません」

「俺はある」


 ぼそりと返された言葉に振り返る。

 無表情に、義高は左手で右の親指の付け根を――あの晩、帰蝶が噛みついた場所を撫でて、言った。


「嫁御殿は俺が嫌いか」


 ぎょっとする。

 口の中が一気に乾いた。


「喋ることはおろか、顔を見ようともしない。ここまで避けられていると、さすがに迷う。

 確かに、俺たちは好きあっていたわけでないが」


 自分たちはこの結婚を望んでいなかったが、周りは望んでいたのだ、と。

 義高が勢力争いの味方でいると、彰子が、義長が、彼らに関わる人たちが思えることが大事なのだ。


「だが、せっかくの縁を気まずくするのは忍びない」


 耳ざわりなところのない、低い声が響く。

 それに、わかっていないわけじゃない、と唇を噛む。夫を振りむかないまま。


「俺は、嫁御殿といい関係ができたらいいと思っている」


 バサリと、義高の袴が音を立てる。

 そっと振り返ると、彼が樋から下がって揺れている綱に手を伸ばしているのが見えた。


「さっきから気になっているんだが、これはなんだ」


 駄目、という声は出なかった。

 義高が紐に触れた途端、軒先から桶がころげ落ちてくる。


 派手な水音。


 義高は顔で受けたらしい。むせ始める。

 呆然とその背を見つめながら。


――水桶のいたずらがされるようになったのも、婚礼の後からだ。


 ふと、思った。


――もしかして。持ち物が最近おかしいのも。


 誰かが、何かを、している。

 浮かんだ考えに背筋が震えた。


――誰が。何のために。


 奥歯がカチカチと鳴り始める。

 部屋の外では、義高がひときわ大きなくしゃみをした。

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