近よれぬまま時過ぎて

 水音が聞こえた。

 つづいて、頭のてっぺんと首のうしろが一気に冷たくなる。

 やられた、と帰蝶きちょうは空を見あげた。


 日差しの中に伸びる松の枝。そこに傾いた木桶がひっかかっていて、ポタリポタリとしずくを落としてくる。

 桶のには縄がくくられていて、それは枝をつたい幹をとおって土へおりて、帰蝶の足元へとつながっていた。

 縄の反対端には石ころが結ばれている。先ほど、帰蝶がつまづいたのはこの石だ。

 舌をうって、帰蝶は石を拾いあげ、あたりを見回した。


 広い広い御所。松が伸びるだけでなく、四季折々の花が咲き、池では鯉が跳ね、岩と竹筒がたかい音を立てる。

 立ちならぶ、くろい瓦葺かわらぶきの建物の数は、三十をくだらない。その間を移るには、渡り廊下を行くか、白い砂利が敷きつめられた道を歩くか、あるいは緑の合間を突っきるかだ。


 ここでの日々の暮らしは、建物を移らずにすますことはできない。

 どうやっても外には出るしかない。

 そんな中、ここ最近は建物のすぐそばを歩くほうが危険だと思っていたのだが、今日は失敗だったらしい。


 一番近い建物の濡れ縁では、娘たちが肩を寄せあって、笑っていた。

 皆がみな年頃の娘たちで、辻が花染の小袖と腰巻姿だ。色とりどりの小袖の華麗さもさることながら、腰巻には金糸銀糸で絢爛けんらん刺繍ししゅうほどこされているのが、遠目からも分かる。


――やられたら、やりかえせ!


 そこにむかって、帰蝶は握った石をぶん投げた。

 ガツンガツン、ゴン、と枝にかかっていたはずの木桶もそれについて飛んでいく。

 石と柱がぶつかって音を立て、木桶がバラバラになる。

 きゃあ、と悲鳴があがった。


 下を向いて、身を固くして震えだしたかと思ったら。中の一人がすっくと立ちあがった。


「何をするのよ、帰蝶!」


 同じ年の、数えで十六の娘だ。

 背丈も肉付きもいたって普通で、丸い鼻にふっくらした唇の、どこにも角がない娘。だが、蘇芳色の袖を揺らす今は、眉を、目尻をギュッとつりあげている。


「危ないでしょう。当たって怪我でもしたらどうしてくれるのよ! ご覧なさいよ、この木桶。端っこがこんなにささくれているのが、目の前に飛んできたのよ!

 ねえ、聞いているの、帰蝶!?」

「あら、ごめんあそばせ」


 その場で髪をかきあげながら、帰蝶はしれっと笑った。


清姫きよひめこそ、わたしの話を聞いてくれる?」

「なによ、乱暴の言い訳でもしようっていうの?」

「言い訳だなんて、滅相めっそうもない。皆様からちょうだいしたものだったから、お返ししようと思ったのよ。これは親切」

「バカをいうのも大概たいがいになさいよ。わたしたちが水桶をしかけたという証拠がどこにあるというの?」


 両手を腰に、庭より高い位置にある濡れ縁から見おろしてくる娘を、半目で見つめる。


「はまるのを待っていたから、そこに座っていたんでしょうか」


 ボソッと呟いたのが聞こえたらしい。

 清姫の顔が真っ赤にそまっていく。


「こんの性悪! 根性ねじ曲がっているから他人の行動も曲げてみるのよ!」

「じゃあ、あんたこそ、水桶をしかけたのが自分じゃないという証拠を示してみたら?

 ……って、そうね。清姫は木登りなんかできないでしょうから、違うかもしれないわね」

「そうよ! じゃじゃ馬のあんたと一緒にしないで!」

「その言い方だと、誰かに頼んで、水桶をしかけてもらったみたいですけど?」

「なんですってえええええええ!」


 ゼエゼエと清姫は肩で息をしている。

 もう一度髪をかきあげると、しずくがボタボタと地面を濡らした。お気に入りの薄紫の小袖にも、しみができていく。

 そのまま、一歩も建物に近寄らないまま睨んでいると、清姫の影から別の娘が顔を出した。


「乱暴はやめて」


 今度は小柄な娘だ。三人同じ年ながら、一番背が低い。線も細い。着物の色もごくうすい浅葱色で、声も小さい。


「なあに? 水桶の正体は茶々ちゃちゃ?」

「違うわ…… わたしだって、木の上に登ったりなんかできない。なんでもできる帰蝶とは違うもの」

「その言い方、イラッとするから、やめてくれる?」


 ヒッと息を呑んだ茶々に、肩を竦めてみせる。


「まあいいわ…… で、なに? なにが言いたいの?」

「乱暴はやめて、と言ったの。清姫も、他の子も、ほら。こんなにおびえているの。

 欠片かけらが飛んできて、本当に怖かったのよ。目に刺さったら…… きっと、見えなくなっちゃうから。そんな怪我、誰もしたくないと思うでしょう」


 黙ったままの娘たちは一様に、震えながら、うつむいている。その列の一歩前で膝をついた茶々は、両手を合わせて、帰蝶を見つめてくる。


「ね。お願いだから。乱暴はやめて」


 もう一度、溜め息をはく。


「水をぶっかけられるのは、乱暴じゃないのね」


 ビクッと茶々が体を揺らすのを目のはしでとらえながら、帰蝶はくるりと娘たちに背を向けた。




 長すぎる夏が終わって、空気が軽くなってきた。

 濡れた髪は重たいが、鼻をくすぐるハギとツワブキの香りは、頬をなでる風は心地良い。

 人気ひとけの少ない場所を選んで、帰蝶は自分にあてがわれている部屋の前まで戻ってきた。




 そこに立っている人を認めて、足を止める。

 松葉色の直垂ひたたれに、墨色の折烏帽子おりえぼし。腰には太刀。どこをどう見ても武者といういでたちの青年だ。


義高よしたか殿」


 呼ぶと、真っすぐに視線を向けられる。


「ご機嫌いかがか、嫁御殿」


 そう言うやいなや、彼は目を細めた。


「さすがにもう、水遊びをする陽気ではないだろうに」

「でも、おもしろかったですよ」


 わざとらしく笑って、前に立つ。

 視線をわずかに上げる。

 女子にしてはやや背の高い帰蝶と、義高では、拳一つ分ぐらいしか差がない。

 だが、高くも低くもない細身と見せかけて、衣の下に隠されているのは研ぎすまされた刃のような体だと知っている。

 ずきん、と胸の奥がきしんだ。


「着替えるので、中に入ってもよろしいですか?」


 無言で顎をひいて、彼は道を譲ってくれた。

 なのに。


「嫁御殿」

 また呼んでくる。

「なんでしょう?」

 振りかえらずに声だけ返す。


 ピンと背筋を伸ばしていると、やがて諦めたような溜め息が聞こえた。


「なんでもない」


 静かな足音が遠ざかっていく。

 それが聞こえなくなってから帰蝶は振りむいた。


 小さな葉と花びらが風にのってあそぶ庭先には誰もいない。

 それら混じって小さな黒い影が吹かれていったが、気にはしない。この御所の中、魔物が出るのは日常茶飯事だから。

 それよりも、去っていった夫の方が気になった。



 婚礼をあげた仲とはいえ、会話は少ない。

 帰蝶が以前と変わらず、養母の元で暮らしているからだろう。彼は毎日欠かさず顔を見せてくれるが、それだけだ。

 しとねを共にしたのも、最初の夜だけ。


――わたしが噛みついたから、もう抱かないというのでしょうけれど。


 首をふって、御簾をくぐる。

 びしょぬれの着物を脱ぎすててようやく、帰蝶も溜め息を吐きだした。

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