25.開発部の名誉顧問(下)

「……ライズは寝たようだな」


 かすかな寝息が聞こえてくる。いまだにカミルによる金縛りで身動きが取れないリトには確認できないが、いつのまにかソファで眠ってしまったようだ。


「そのようだな。おまえもゆっくりと休むといい」

「この状態で休めるか。いい加減金縛りを解け!」

「わめくな。ライズが起きてしまうだろう」


 誰のせいだと思っているんだ、という言葉をリトは飲み込む。

 満身創痍の部下をいい加減休ませなければ、身体を壊しかねない。もともと彼は小柄で細く、丈夫ではないから。


「それにしても、この肩の傷は酷いな。手当てはきちんとしてあるようだが」


 リトの隣に腰かけていたカミルは、しげしげと彼の傷を眺めた。

 炎狼フレイムウルフに抉られた傷だ。リトが目を覚ます前にライズが消毒をした上で適切な治療を施されたせいか、蚯蚓腫れ程度で済んでいる。


「そんなに酷いのか?」

「ライズほどではないな。獣の牙は唾液が危険だし、お前の場合は炎の魔力による破壊も起きている。痕が残っているのがその証拠だよ」


 リトは特に闇の魔力を強く持つ体質だ。弱点である炎の魔力が身体の中に侵入していたとなれば、治りも悪いことも納得がいく。

 おそらく、破壊の性質が強い炎だったのだろう。


 それにしても。

 闇色の目で、リトは白い魔族ジェマを見上げた。

 嗜好や行動に問題はあるものの、カミルはモンスターに関しても詳しい。やはり大賢者と呼ばれるだけのことはある。


「他には何かあるのか?」


 自分の身体の状態くらい知っておくべきだと、リトは考える。やり方はともかく、彼は医者でもあるのか一応の診察はしてくれていたようだ。


「体内の精霊バランスが崩れているようだ。このまま放置すると、酷い後遺症に苦しむだろうよ」


 リトは驚きで目を丸くする。


「そんなに酷かったのか」

「所長の場合はそれほどでもない。今はもう痛みはないだろう」

「ああ、ない」


 痛みどころか、気だるさや目眩さえなくなっていた。やたらベタベタ触ってくると思ったら、カミルは治療していたのだ。

 最初はからかっているのだとリトは思っていた。しかし、彼が傷に触れていくうちに重かった身体が軽くなって、レイゼルに殴られた時にできた傷が跡形なく消えたのだ。


 癒しの魔法だ。

 魔法語ルーンさえ唱えずに、カミルは身体の傷を治していた。


 彼の言葉通りだとすると、あのままリトが帰っていたら宿屋で身体の後遺症に苦しんでいたのだろう。

 もしかすると、そのためにカミルは引き留めたのかもしれなかった。だからと言って、もっと別の方法があるだろうと思わなくもないが。


「他に聞いておきたいことがあるかね?」


 実のところ、聞いておきたいことはたくさんあった。元来の研究者気質ゆえに知的好奇心に火がついて、リトは頭の片隅に残っていた疑問を口にすることにした。


「――今日、吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマに噛まれた時、なぜか意識が溶けることはなくはっきりしていた。普通は意識が朦朧として、抵抗できなくなると聞いたんだが」


 レイゼルに噛み付かれた時は、さすがに命の終わりを覚悟して諦めたのも事実だ。そのような作用が働かなかったことをリト自身も最初は偶然だと思ったし、彼もそう考えていたようだった。


「ほう。所長はなぜだと思う?」

「分からないから聞いているんじゃないか。ただ、偶然とはどうしても思えない」


 そう、偶然だとリトはどうしても思えなかった。部族は違えど、同じ魔族ジェマのライズは実際に意識を溶かされて抵抗できなくなっていた。


「私も吸血鬼ヴァンパイアの部族だが、実験してみるかね?」


 深紅の瞳が細められ、開いた口から牙がのぞく。

 なぜ論点がそこに移るのだ、この男は。


「もう噛まれるのはごめんだ」

「そうだろうな。所長は夢魔ナイトメアの部族だから、魅了の魔力に免疫があるのだよ」


 案外、あっさりとカミルは解答を与えてくれた。


 魅了の魔力。夢魔ナイトメア魔族ジェマと同じように、吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマも目と牙で相手を魅了する特性があったことをリトは頭の片隅で思い出す。


「……なるほど。ライズは違ったようだが?」

「ライズは人狼ワーウルフだから抵抗できまいよ。おまえは人を喰らったことがないから分からぬだろうが、夢魔ナイトメアが他種族を喰らう時も相手に恍惚感を与え、抵抗を奪うのだ」

「そうなのか」


 初めて知った事実だった。


「相手を魅了するという同じ魔力を持ち合わせているゆえに、それが免疫となり、意識を支配されるということはない。夢魔だけでなく、蛇女ラミア死神レイスも同じ魔力を持っているよ」

「それは興味深いことを聞いた」


 その情報は、リトにとって初耳だった。貴族としての教育を受けてきた彼が知り得ていないのなら、同じ立場にいるライズやレイゼルが知らなくて当然だったのだ。

 つまり、あの赤い魔族ジェマに噛み付かれてもリトが意識を保っていられたのは、偶然ではなく必然だったのだ。


「何を他人事のように言っている」


 刺を含んだカミルの声に反応し、リトの眉がピクリと動いた。


「——は?」


 わずかに細められた深紅の瞳は、睨んでいるようにも見えた。

 前触れもなく訪れた剣呑な雰囲気に、リトは固唾を飲んだ。



「おまえは本当に分かっていないのだな。なんなら、その身体に教え込んでやろうか」


 話の方向性がまるで見えなかった。今までの会話で名誉顧問の逆鱗に触れる要素があっただろうか。


「話が見えないんだが」

「見える話など、初めからしていないよ。いつもライズを私に差しだしているのだから、たまにはおまえも同じ目に遭ってみるといい、リトアーユ」


 初めてリトの名を呼ぶカミルの声は低く、甘かった。

 じりじりと近づいてくる紅い双眸がリトを見据える。


 本気なのか。



「同じ目ってどういうことだ」


 カミルの返答はなかった。

 細い指先がリトの顎に触れ、そのままくいっと持ち上げられる。至近距離まで顔を近づけ、白い魔族ジェマは言った。


夢魔ナイトメアの血はまずいがな」


 まずいなら、何もしなければいいだろ。


 言葉にしてそう彼に伝えたかったが、喉が塞がったかのように声が出せなかった。

 どうやら本気らしい。


 固まるリトを見て、カミルはほくそ笑んだ。彼の耳もとでそっとささやく。


「脳髄まで蕩けさせてやるよ」


 それは吸血によって、リトに恍惚感を与えさせ意識を溶かすという、予告の言葉だった。

 ゴクリと喉を鳴らし、彼は固い表情のまま重い口を開く。

 今度は、難なく声を出すことができた。


「……免疫があるんじゃなかったのか」

「だから、試してみるかと聞いている。興味があるのだろう?」


 すぐにリトは否定できなかった。それは図星でもあったからだ。

 未だに動かないリトの肩をつかみ、カミルは顔を近づけてきた。


 ——噛まれる。


 一瞬の間、レイゼルに牙を立てられた時が頭の中によみがえってくる。

 強い痛みが走り、出血もいくらかあった。

 魅了が効かず意識を溶かされないということはつまり、痛覚が正常に働くということだ。


 とっさにリトは身構えて、固く目を閉じた。


「冗談だ」


 むにゅ、と鼻をつままれる。

 突然のことで固まっていたのもつかの間、瞬時にわき上がった怒りにまかせて勢いよく立ち上がる。


「カミル様、いい加減にしろ!」

「それは私の台詞だよ、リトアーユ」


 顔色ひとつ変えずに冷静に返されて、黒い魔族ジェマは押し黙る。


「おまえは怠けている」


 見上げてくる紅い瞳。見下ろしているのはリトの方だというのに、なぜか威圧感を覚える。


「俺のどこが怠けているというんだ」

「常におまえは怠けているではないか。職場には来ない、予算の着服、あげればキリがないぞ。それに注意も散漫のようだしな」


 笑みを深くして名誉顧問は、ついとリトを指差した。


 そういえば。

 いつからなのか、上司による金縛りがすっかり解けていた。


 部下の怒りが冷めてきたのを見て取ったのか、腕を下ろしたカミルはベッドに腰を下ろしたまま口を開く。


「おまえもそうだが、自分の望みを掴み切れず流されるままの安楽に甘えている者が多いな」


 それはリトにとって意味深な言葉だった。黒い瞳がひとつ瞬く。


「どういうことだ」


 ふ、と息を吐いて白い魔族ジェマは足を組んだ。見上げてくる目は先ほどよりも鋭くなる。


「おまえは自分を大事にしていない、ということだ。リトアーユ、おまえの浅はかな行為が大切な誰かを傷付けることになるとは思わないのかね?」

「意味が分からないんだが……」


 カミルは呆れたように、先ほどよりも深いため息を吐いた。


吸血鬼ヴァンパイアの部族による吸血は所有印だ。おまえが私に身を委ねるのは、私に従属するのでない限り、おまえを愛する者達に対する背信行為だ」

「……!」


 リトの目が見開く。

 ライズの真剣に怒った顔と言葉が、脳裏によみがえってきた。


 ライズは知っていたのだ、レイゼルの吸血が所有印だと。だから噛み付かれそうだった時、必死に抵抗していた。

 しかし、リトは違っていた。予測の範疇を超えた行動に驚きはしたが、すぐに諦めた。噛み付かれるまで大した抵抗もしなかった。すぐにすべて手放そうとした。


 それがリトを愛する仲間を傷付ける行為だと、気づきもせずに。


「だから、おまえはライズが喰われそうになった時、憤りを覚えたのだろう?」

「…………」


 リトは何も言えなかった。


 レイゼルの暴挙によって、衝動的な行動に駆られたのは事実だった。命さえも自分のものかのようにレイゼルがライズを喰らおうとした時、カッと熱くなって何も考えずに【本性変化トランストゥルース】をしたのだ。


 名誉顧問の低い声が、まっすぐ耳に入る。


「逆もまた、言えることだと思わないかね?」

「……そうだな」


 はっきりと鮮明に、カミルはリトの問題点を分かりやすく浮き彫りしていた。


 混乱する心がおさまらず、動揺を覚える。


 ライズがリトを真剣に心配していた。心から気にかけてくれることなど、彼にとっては初めてのことだった。


「理解したか?」


 無言で黒い魔族ジェマは頷く。

 声なき返答に満足したのか、カミルは深紅の瞳を細めた。


「おまえはまだ物分かりのいい方だよ、リトアーユ。おまえの父親は手がつけられないほどに歪んでいたさ」

「カミル様は俺の父親の顔を覚えているのか?」


 永遠の時間軸を生きる白き賢者は、先代の所長である父とは当然面識がある。

 身を乗り出してリトが尋ねると、白い魔族ジェマは真面目な顔で質問を返してきた。


「おまえは覚えていないのか?」


 その問いかけに、黒い魔族ジェマは首肯する。


「全く覚えていない。顔はおろか、どんな人だったのかさえも。カミル様、俺の父親はどんなやつだったんだ?」

「……ふむ。どんなやつ、ときたか」


 口もとに手を添えて、クスリと名誉顧問は笑みをこぼす。


「おまえは父親に対してあまり良い感情を持っていないようだな、リトアーユ」

「そりゃあ、調べたからな。俺の後見人や交流を持っていた貴族達から話も聞いた」

「そうか。ならば、彼の人物像はなんとなく想像がつくのではないか?」


 聞き及ぶ情報がすべて、父について語っているとでも言うのだろうか。


 直接的な答えが得られないことが不満で口を引き結んでいると、不意にカミルは口を開いた。


「知っての通り、おまえの父親は紅い髪が印象的な精霊使いエレメンタルマスターだった。今思えば問題行動の多い男だったな。勤務態度はおまえと大差なかった上に、禁じられた魔術道具マジックツールを秘密裏に開発していた。それによく部下を巻き込んで、顧客とトラブルを起こしていた。まあ、それでも当時の国王は罷免にはしなかったよ。だが——」

「突然、姿を消した」


 続きを引き取って言葉にすると、カミルは紅い瞳を細めて頷いた。


「ああ、そうだ。一人息子のおまえを屋敷に置いて、な」

「記録の上では、あれから数百年経つ。今でも帰ってくる様子はないな。たぶん、俺は捨てられたんだろう」

「今時珍しい話ではなかろう。ティスティルの貴族間では、よくある話だ」


 リトには家族の記憶がない。

 当時の国王だったティスティルの建国王が取り決めてくれた後見人が成人するまでの間面倒を見てくれたが、両親に捨てられたという事実が幼いリトの心を苛み、最後まで後見人の家族に馴染むことができなかった。

 誰かと一緒にいるよりは、常に独りでいることを好んだ。部屋にこもって研究に打ち込んでいる方が何も考えずにいられたし、楽だったのだ。


 独りだと誰かを心配する必要なんてなかった。誰かを心配することさえ、リトは知らなかった。

 気遣うのは自分のことだけでよかったから。


 自分は自分。自分自身が納得しているのだから、死のうが生きようが構わないと今まで考えてきた。


 けれど、ライズは命を簡単に手放すのではなく、生きるのを諦めないでください、と言った。

 悪気のない行動ひとつで大切な誰かを傷つけないためにも、自分の命さえも無頓着な傾向自体を改める必要があるのかもしれない。そう、リトは結論づけた。


「なんにせよ、無事で良かったさ。私は私の所有物に手を出す者を許さない主義なのだが、ライズは事を大きくしたくないようだ」

「それは、そうだろう……」


 人道に反する行為など、常識人のライズが許すはずがない。

 たとえ、相手が自分を食い殺そうとした魔族ジェマだとしても。


 そういえば。


 ここになって、ようやくリトははたと気付いた。


 今まで交わした、上司との会話を思い返す。

 吸血鬼ヴァンパイア魔族ジェマに噛まれたことは自ら明かしたものの、ライズがレイゼルに襲われた時に憤ったことまでは口にしていない。それなのに、なぜ彼は知っているのか。


 レイゼルの洋館に、カミルもいたのだろうか。


 いや、それはない。それなら開発部の名誉顧問という立場上、部下であるリトやライズをすぐにでも助けるはずだ。


 リトの脳裏に、治療のために身体を触れてきたカミルの手の感触がよみがえってくる。


 おそらく、カミルは治療と同時にリトの記憶を読み取っていたのだ。


 どんなに高名な魔法使いでも、相手の記憶を読み取るような奇跡に近い力を行使できるはずがない。実際、魔術師のリトにもそのような芸当はできない。

 しかし帝国の守護者であり、そばにいるだけで肌を刺すように感じるほど膨大な魔力を持ち合わせているカミル=シャドールになら容易く行えるだろう。


 つまり、事件の結末も首謀者も、リトが明かさずともすべて彼は知っているということだ。


「俺も同じだ。だから、奴に【制約ギアス】をかけた」


 指輪ひとつでレイゼルを遠ざけられるなら、リトはそれで良いと思っていた。


 本当は殺して口を封じた方が手っ取り早いし、確実なのも知っている。

 それでも命のやり取りなどは御免被るし、女王の耳に入るかもしれない。心優しいルティリスも望まないだろう。


「付け焼刃の魔法がどの程度の効果があるか、分からぬがね。彼がもしも再び付け狙うようなことがあった時、お前はどうするつもりかね?」


 深紅の双眸が黒い魔族ジェマを見つめる。

 黙ってカミルを見返し、リトは口許を緩めた。


「その時は、逆に返り討ちにして【永久の眠りスリープ】でもかけてやるさ」


 ふ、と小さな息を吐いて、カミルは笑った。


「そうか。お前はライズのように子どもではないのだから、あまりライズを泣かせるな」

「泣くとは思わなかったんだ」

「それは、お前があの子を知ろうとしていなかったからだろう?」

「確かにそうだな」


 むしろ、突き放して離れようとしていた。

 今なら分かる。ライズを含め他人には興味がなく、リトは鬱陶しいと嫌煙していたのだ。


「痛覚は人それぞれだ。身体は無論、心も同じく。お前は少し自分の痛みを知って、他人の痛みを慮れるようにすべきだろうな」

「ああ、その通りだと思うよ。――ところで、そろそろこれを外してくれないか?」


 大賢者による説教モードのせいで流されかけていたが、黒い手枷は今も外されていない。

 魔法封じがかけられているから、【瞬間移動テレポート】で帰ることもできない。いや、魔法で帰れないようにあえて外さないのかもしれなかった。


 どちらにせよ、カミルは確信犯だ。


「外してほしいかね?」

「外してほしいから聞いている」


 反応をうかがうように見ると、カミルは深紅の目でリトを見つめたまま言った。


「外したら帰るだろう」

「…………」


 子供か。


「もう治ったからいいじゃないか」


 睨みつけても効果があるはずもなく、白い魔族ジェマはリトに詰め寄ってきた。


「何を言っている。治ったからこそ、遠慮せずに楽しめるのじゃないか」


 艶然と笑むカミルを目の前にして、リトは石像のように固まった。


 どうせ、今度もからかっているだけだ。そうに決まっている。

 色々と胡散臭い噂が立っているものの、実際こうして接してみれば尊敬に値する大賢者だったのだし。


 信じても、いいんだよな……。たぶん。


「俺はルティのところに帰りたいんだが」

「私は帰すつもりはない」


 最後の足掻きで断っても、彼の主張は初めに言ったものと変わりなく。

 白い手で腕を引かれるのと同時に、リトはカミルに尋ねた。


「いつ帰してくれるんだ?」

「明日の朝には帰してやるよ。それまで、せっかくの機会を楽しもうではないか」


 冗談ではなく、白き賢者は本気だった。

 耳元でそう囁くとカミルはリトの顎をとらえて、そのまま唇を塞いだのだった。

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