13.眠れない夜

 小さな格子の窓から外を覗くと、いつの間にか外は暗くなっており、星がまたたいていた。とうとう夜になってしまったようだ。


 二日が過ぎてしまった。

 リトの中で確信に似たものがぎる。きっと、今頃ルティリスは自分を探しているに違いない。


 隣ではライズが自分の長衣を毛布代わりにして丸くなっていた。炎狼フレイムウルフにやられた傷のために高熱が出ていて、時々うなされているようだ。


 リトの時もそうだったが、治癒魔法で傷は塞がっても怪我に伴う高熱が避けられるということはない。せめて、解熱の効果をもたらす【銀酒シルヴァリキュール】があればライズも少しは楽になるのかもしれないが、それもレイゼルに取り上げられてしまったから見ていることしかできない。


 それにしても。

 なぜ、自分は泣いてしまったのだろう。


 リトは自分自身について考えを巡らし、思考の海に潜り込んだ。


 六種族の中でも鱗族シェルク妖精族セイエスと並んで長い寿命を持つ魔族ジェマ。その種族であるリトは、すでに数百年を生きてきた。だが、これまでの人生の中で、一度だって泣いたことはなかった。


 リトは決して一般的に言う"いい人"ではない。平気で人を騙して陥れるし、歪んだ仕方で人と接して、挙句の果てには傷つける。結果、時には人の涙を目にしたことはあるが、心は動かなかった。興味があったのは、魔術具マジックツールの研究とたったひとりの女性だけだった。


「……そうか」


 冷めた頭の中で考えると、妙に納得してしまった。


 大きな体躯の狼に襲われる月色の狼。うずくまって助けを請う小さな背中と声。

 消えてしまうと思った瞬間に感じた恐怖。初めてではないじゃないか。


 悟った瞬間、また胸が痛んだ気がした。そうだ、まだ一年も経っていなかったのだ。


「イリア」


 魔法語ルーンを唱える時のように名前を口にしたら、再び視界が歪んだ。

 本当におかしな話だ。彼女が死んだ時も泣かなかったのに。


 イリアはリトと同じ魔族ジェマの女性で、数か月前までは彼の妻だった人だった。

 よく笑う、可愛い女性だった。明るくてハリのある声でよく話し、しっかりとした考えや思いを持っていた。


 いくら魔族ジェマが長寿だからといって、病気が時には命そのものを奪うということにリトは気づかなかった。いや、気づかないフリをしていた。

 今となって、ようやく自分自身を理解する。リトはイリアが闘病の末に亡くなった時、こわかったのだ。


 明るかった声がだんだんと弱くなり、やがては聞けなくなった。いつも笑顔だった彼女が笑えなくなり、しだいに目も開けることができなくなった。最後には動かなくなった妻を目の前にして、茫然となった。


 いつもそばにあるアタリマエが崩れてしまった。だから、恐怖した。


 ふと、リトは隣で丸くなって眠っているライズに目を向けた。

 熱に浮かされて、ううと唸る声が聞こえる。長衣の隙間から手が出ていたので、小さな子どもにしてやるように握ってやるとライズは握り返してきた。


 おそらく、今回初めて涙を流したのは恐怖を感じたからなのだろう。

 リトは深くため息をつきたくなった。本当に自分自身には色々なものが欠けていて、しかも自分でそれが見えていないのだ。


 周りにあるアタリマエが消え去ることが、こんなに恐ろしく感じるとは。


「――それなら」


 そうならないように回避するしかない。

 多分、そうしないと身体がもたないだろう。今はおさまったが、いつまた胸の痛みがリトを襲うか分からない。この屋敷を脱出したら、医者にかからなければ。


「……くっ、また考えているそばからこれか」


 熱がつたわってくるライズの手を握りながら、リトはベストの上から再び痛みだした胸を服ごと掴み、弱々しく息を吐き出した。




 * * *




 結局、リトは一睡もできなかった。


 睡眠不足とここ数日食べ物を与えられていないための空腹と栄養不足からくる貧血。一体、どこからの目眩なのか分からなくなっていた。

 さすがに体調が思わしくない。それに、昨夜は時おり襲ってくる胸の痛みと目眩で死にそうな思いだった。リトが思っている以上に、身体は限界なのかもしれない。


 壁にもたれかかっていると、もぞもぞと丸くなった黒い長衣が動きだす。


「あ、しょちょー。おはようございますー」


 へらりと笑って、ライズは起き上がった。リトは無言で彼を見る。

 よし、どうやら熱は引いたようだ。


「あれ。所長、顔色悪くないですか?」

「そうか? 鏡もないから、自分の顔など分からん」


 とりあえず、リトは知らないフリをしておくことにした。弱っているところなど、部下に見られたくはない。だが、普段のへらへらとした雰囲気の割に、実は聡いライズはまじまじとリトの顔を覗き込んできた。


「うん。オレから見て、顔色悪いと思いますよー」

「他人のことを言えた立場か。熱はどうだ?」

「んー……、昨日よりだいぶマシですね」


 リトの黒い長衣は今や完全にライズの私物化にされている。毛布のように身体に巻きつけて、頬を緩めていた。


「そうか」


 眠れなかった夜、ずっと考えていたことがある。


 一昨日と昨日で得た情報から、少しレイゼルの人物像について見えてきた。レイゼルは人を人だと扱っていない冷淡な人物のようだし、昨日の行動から用があるのはリトにだけで、場合によってはライズを殺すことに躊躇いはないのだろう。

 何より頭の隅で引っかかっているのが、彼自身のまとう雰囲気だ。何の光も宿さない薄いグレーの双眸。得体が知れなく不気味で、訳もなく嫌悪感さえ覚える。


 リトは人に対して先入観を持つことはあっても、理由もなく相手を嫌うことはない。冷静にどんな人物か見極めようとするのだ。


 レイゼルの場合だけは別だった。彼を分析すればするほど、悪寒が走り嫌な予感を覚えるのだ。


 レイゼルは危険な人物だと言ってもいい。リトは指輪を彼に渡す気はさらさらないが、万が一【制約ギアス】の指輪がレイゼルの手に渡ったなら、彼は躊躇うことなくリトとライズを殺すのだろう。もしかすると、指輪を手に入れる前にライズは本当に殺されてしまうかもしれない。


「ライズ」

「何ですか、所長」


 自分に向けられた笑顔を見て、リトは表情を変えずに言った。


「牢から出された時に隙を突いて俺がレイゼルを押さえ込むから、おまえは一人で逃げろ」


 ライズは青灰色の目を丸くする。そして、頼りない声で言った。


「えー…。そんなの無理ですよぉ、所長」


 予想に違わぬ答えにリトは黙り込む。

 ライズがそう言うのももっともだ。普段の冷静なリトなら、こんな提案を口にすることはなかった。――だが。


「俺が限界なんだ」


 目を細めて、リトは俯いた。一晩中痛んだ胸はもうなんともない。


「自分がどうなろうと何をされようと、俺は別になんとも思わないし平気だ。だが、おまえに関しては別なんだ」


 鬱陶しいほどに正論を並べてぶつけてくる部下の存在は、いつからなのかリトにとってアタリマエの存在になっていた。

 ヒトの命が消えそうだと予感する恐怖。大切なものが消えた時と重なって心臓が冷え、痛む。こわくてこわくて、耐えられなくなる。


「俺が指輪に関して何もしゃべらないことで、おまえがレイゼルに何かされるのを見るのは、これ以上耐えられない」


 リトはこれほど自分が感情的で、心が弱いとは思わなかった。思わず、自嘲の笑みを浮かべる。


 一人で逃げろ、などというのは無謀だと分かっていた。炎狼フレイムウルフは昨日の件から考えると屋敷内をうろうろしているし、戦うのに不向きな研究者気質のライズが兵士を蹴散らして屋敷を抜け出せる確率は低いだろう。

 しかし、このまま屋敷の中にいても命の危険は高い。それならば、レイゼルにとって生かす理由のないライズを逃がす方が得策だと言える。


「だから、おまえは一人でここを抜け出してこの現状を誰かに知らせてこい」


 顔を上げてリトはまっすぐライズを見た。月色の髪の青年は彼を見返し、人懐っこく笑う。


「分かりました。オレ、頑張ります」


 ほっとしたように、リトの口元が緩む。


 それから二人の間にしばらく沈黙が続いたが、ほどなくしてその空気が壊れた。カツカツという足音が忙しなく近づいてきたのだ。


「領主様がお呼びだ。出ろ」


 現れた無表情の兵士を睨みつけて、リトは無言で立ち上がった。

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