11.胸の痛みと涙

「君はあまり休息を必要としないのだね。治ったばかりだというのに、脱走を試みるとはたいしたものじゃないか」


 レイゼルは口元だけを緩め、そう言ってリトとライズを見据えた。


「……【銀酒シルヴァリキュール】か。揮発させると、いかなる相手をも昏倒させることのできる毒薬。このような高価なものを常に携帯しているとは、さすがだね」


 三日月形の瓶を指先で弄ぶように転がし、中の原液がゆらゆらと揺れる様子を赤髪の魔族ジェマは愉しそうに見つめた。


 炎狼フレイムウルフは昨日のようにリトに攻撃することはなかった。命令を与えているのか、主人が歩み寄ると興味を失ったかのように離れて行ってしまった。


 策が失敗に終わり再び捕まってしまった以上、無駄な抵抗はかえって状況を悪化するだけだろう。そうして促されるままに連れてこられたのが、応接間だった。


 この部屋は他の殺風景な部屋とは違っていた。壁を繰り抜いてそのままはめ込んだかのような巨大な窓が目立ち、絨毯やソファも用意されている。

 だが、レイゼルは椅子には座らずにリトと向かい合う形で立っていた。ライズは狼の姿のまま、上司の足元にでうずくまっている。


「まあ、ちょうどいい。君に聞きたいことがあるから、この部屋に呼び出そうと思っていたところなのだよ」

「何だ?」


 気づかないフリをして、リトはレイゼルを見返した。深紅の髪の魔族ジェマは無機質な瞳を細める。


「君が独自に開発した【制約ギアス】の指輪のことだ。どこにある?」


 予想に違わないレイゼルの狙いに、リトは冷静な表情の裏でほくそ笑む。

 やはり、彼の狙いはあの魔法指輪ルーンリングのようだ。研究所にまで手を伸ばして探しているところから、彼は喉から手が出るほどに欲しがっているに違いない。


「その情報をどこから手に入れた? その件についてはうちの所員でも知らないはずだ」


 ふと頭の中で浮かんだ疑問を口にした時だった。白い手が伸びてきて首を掴み、そのまま壁に勢いよく押し付ける。先ほど炎狼フレイムウルフに襲撃された時に強く打った背中が鋭く痛み、リトは苦しげに目を眇める。


「所長!」

「……そこの坊やと違って、今の状況を君は全く理解していないようだね。質問しているのは私だよ」


 怒りに触れたらしく、レイゼルの目は全く笑っていなかった。何の光も宿さない薄いグレーの両目。


「君があの指輪をどこか別の安全な場所に隠したことは分かっている。どこにある?」


 これは思わぬ幸運なのかもしれない。

 リト自身が開発した魔法不干渉の袋に入れてあるとはいえ、指輪は身体検査をされれば見つかる可能性は高い。しかし、どうやらレイゼルは別の場所に隠したと思い込んでいるようだ。


 どれだけ凄まれようが脅されようが、リトは【制約ギアス】の指輪を渡す気はない。レイゼルが本当に国家転覆を目論んでいるとしたら、尚更だ。


「俺はお前に指輪の在り処など言うつもりはない」


 まっすぐにレイゼルを見据えて、黒髪の魔族ジェマはきっぱりと言った。薄いグレーの目がす、と細められる。


「そういえば、そこの坊や。君は昨日、私に何でもすると言ったね?」


 ピクリと、足元にいたライズが反応する。


「はい、言いましたー」


 心臓が大きく波打った。同時に、嫌な汗が額に滲む。


 視線をリトではなくライズへと向け、レイゼルは冷笑を浮かべた。


「リトアーユは指輪の在り処を教えるつもりはないようだし、私は尋問に飽きてきた。君は狼のようだし、どうだい。私の炎狼フレイムウルフと遊んでみないかい?」


 柔らくした言葉の裏側にある意味をすぐに察し、リトは目を見開く。

 足元のライズは、当然ながらぼそぼそと自信なさげに答える。


「えー…オレ無理ですよぉ。そんなに強くないもん」

「君ならできるさ。……何でもするのだろう?」

「嫌ですよー。オレ死にたくないし」


 胸に痛みを覚えるほどに、激しく心臓が波打った。滲み始めていた汗が、ついに額から流れた。


「約束は約束だ。――この坊やを狼の檻に放り込め」

「待て!」


 制止の声を聞き届けられることなく、兵士は足元でうずくまっていた月色の狼を抱えて連れて行ってしまった。首をつかまれて動きを封じられているリトはレイゼルを睨みつけることしかできない。


「どうだ、指輪の在り処を言う気になったか?」

「貴様……!」


 怒りのこもった声を受け、レイゼルは笑みを浮かべる。


「早く言わないと、あの坊やは死んでしまうかもしれないよ」


 そう言ってから、レイゼルは部屋にある大きな窓に目をやった。

 そこから見えたのは真っ白な部屋だった。リトが屋敷を踏み込んだ時に連れてこられた、炎狼フレイムウルフに襲われた部屋だ。


 もしかして、レイゼルは昨日もこの応接間からリトが襲われている様子をすべて見ていたのだろうか。


 突き刺すような胸の痛みの中、炎狼フレイムウルフの鋭いきんいろの目と熱風がよみがえってきて、気分が悪くなった。


 ライズは魔族ジェマの中ではまだ若い方で、狼の姿になっても大人の狼に比べて少し小さい。それに比べてモンスターである炎狼フレイムウルフは森の中にいる狼よりも一回り大きく、獰猛だ。もともと研究員で、戦うのに慣れていない虚弱体質のライズが炎狼に敵うはずがない。

 一方で、リト以上にライズは自分のことをよく分かっていた。無抵抗の意思を表し、隅の方で小さくうずくまっていた。


 だが、主人の命令に従う狼が容赦するはずがない。炎の狼は大きな口を開けると、月色の狼の体躯に噛み付いた。


「……!」


 まるで剣で心臓を貫かれたかのような痛みが走った。思わず服ごと強く胸を掴むが、それでも痛みは消えなくて、ズキズキと身体全体が痺れるような感覚を覚えていた。

 なんだ、これは。


 以前から、うっすらとだが自覚症状はあった。ロッシェに出会ったばかりの頃、時たま痛みを覚えることがあったのだ。

 その点を鑑みても、ここまでの激痛は初めてだった。


 月色の毛並が紅く染まっていく。それでもライズは抵抗せずにうずくまっている。


「……やめさせろ!」

「やめさせたければ、君が指輪の在り処を話せば済む話だろう?」


 鈍器で殴られたかのような目眩がする。ライゼルの言葉を聞き入れるつもりはない。しかし、このままではライズが自分の二の舞になる。

 巨大な窓の向こうでは、まだ炎狼が月色の狼を引きずっている。時々、投げ出したり振り回したりしているが、それでもライズは体躯を小さくしてうずくまっている。


「……ライズッ!」


 不意に、へらりとした顔が脳裏に浮かんだ。物怖じせずに正面からいつも向かい、はっきりとした言葉で意見する魔族ジェマの青年。

 ギリッと心臓が痛み、強く胸を手で押さえつける。


「やめ、させてくれ……」


 気が付くと自分の声は消えそうなほど掠れていた。視界が霞む。


 不意に、ぱたりと頬に何かが滑り落ちた。涙だ。

 横目で見たレイゼルが軽く目を丸くする。


「……君は誰がどんな目に遭っても顔色を変えないタイプだと私も聞き及んでいたが、どうやら違ったようだな。たったこれだけのことで、涙を流す男だとは思わなかったよ」


 何を言っているのか、リトには分からなかった。誰を見て言っているのか。目眩と胸の痛みでどうにかなってしまいそうだというのに。


 今まで、一度だって泣いたことのない自分が涙を流すなんて、有り得ないことだ。

 そんなリトの思考に反して、ぱたりと再び流れ落ちる。頬に伝っていったそれは胸を掴む彼の右手の甲に落ちた。


 途端に動揺する。


 まさか、本当に泣いているのか。

 よく分からない。


「……頼むから、やめさせてくれ」


 おぼろげな視界の中、そう言うのが精いっぱいだった。レイゼルは薄い笑みを浮かべると、おもむろに口を開く。


「あの坊やをここに連れてこい」


 昨日の怪我からの貧血なのか、また別の要因による目眩なのか。リトはレイゼルの低い声を重くなっていく頭を感じながら聞いていた。胸の痛みも激しくなっていく一方でおさまらない。


 ぼんやりとした視界の中、部屋の戸が開けられて兵士が入ってきた。すでにヒトの姿に戻っていたライズはレイゼルの足元に転がり、うずくまっている。


「痛いですー。オレ、このままじゃ、死んじゃいます。お願い、ですから、助けてください……」


 白衣は紅く染まり、引き裂かれてボロボロだった。青灰色の目から涙をこぼして、ライズはレイゼルの足元にすがる。


「ふぅん。だが、私には君を助けてやる理由などないな。坊やは私の探しものの在り処を知らないのだろう?」


 見下すようにライズを見ると、レイゼルはようやくリトから手を離した。うずくまる小さな背中を見ると立っていられなくなり、ずるずると座り込んだ。荒くなる息の中、強く心臓のあたりをおさえる。


「お願いします。助けてください……!」


 幾度も頼み込むライズの声は悲痛だった。傷口は大きく、ひどいものに違いない。いつもリトにあびせる怒声よりも、懇願する声は小さくて必死だった。

 このままレイゼルが無視し続けると、ライズは弱って声も出せなくなるのだろうか。


「……た、のむ」


 突き刺すような胸の痛みに耐えながら、途切れ気味の言葉で続ける。鍵なしの手錠にぱたりと涙が落ちた。


「ライズを、助けてやって……くれ」


 心臓が凍えたかのように冷えて、痛かった。俯いたまま苦しそうに顔を歪めるリトアーユを見下ろし、レイゼルは口端をつり上げた。


「よかろう。君がそこまで頼むなら、助けてやるさ」





 レイゼルは言葉を違わなかった。彼の治癒魔法でライズの傷はふさがり、足元がおぼつかないまでも彼はなんとか立ち上がることができた。

 しかし、リトの場合は立ち上がるまで時間を要してしまった。


 身体の調子が明らかにおかしかった。リトはこれまで病気にかかったことはないし、今も持病は持っていない。それなのに、目の前がチカチカして胸の痛みもおさまらなかった。


 昼を過ぎた頃だっただろうか。抜け出した牢に戻り、兵士に鍵をかけられる。座り込んだまま黒髪の魔族ジェマは動かない。それまで痛かったと連呼してめそめそ泣いていたライズは無表情の兵士が出て行くと、へらりとした笑顔を上司に向けて言った。


「へへっ、嘘泣き」


 不覚にも、その笑顔を見てリトは安堵してしまった。再び視界が揺らぐ。


「……所長?」


 ライズは目を丸くする。闇色の両目を覗き込んでくる。


「泣かないでくださいよー。オレ、大丈夫ですから」


 直接言葉にされるまでまた泣いていたことに気づかなかったリトは、ハッとした。もう、わけが分からなかった。


 ライズの間延びした声とへらへらした笑顔に、感情があふれた。そんな自分に黒髪の魔族ジェマは戸惑い、混乱を覚える。


 なぜ泣いているのか分からなかった。リトはこれまで泣いたことなど、一度もなかった。どんな裏切りで心を痛めても、深く愛していた妻が亡くなった時でさえも泣くことはなかったのだ。

 俯いていると頭に温もりを感じた。目を向けるとライズが手のひらを黒髪の頭にのせ、撫でている。


「よしよし」


 まるで泣きじゃくっている子どもをあやすかのように、座り込んだリトの頭を撫でる。彼より背の低いライズは膝を立てて、青灰色の目を和ませながら撫で続ける。

 いつもなら横柄な口調で彼を一蹴するところだが、その気力さえなく。何かの蓋が外れたかのようにリトはしばらく泣き続けていた。

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