5.月色の狼

 冷たい。


 意識の覚醒と同時に寒さを覚えて、身体が震えた。ゆっくりと重い瞼を開ける。


 真上には黒い天井。明かりが灯っているから暗くはないが、視界の隅に見える窓は小さい。見覚えのない部屋だった。


 ここは、一体どこだ。

 ――と、疑問が頭をもたげた時、上から聞き覚えのある声が降ってきた。


「あ、所長。気が付きましたー?」


 視線をさまよわせると、人影が見えた。見知った青年だった。薄明かりを背中に受けて、横たわっているリトを覗き込んでいる。


 肩より下まで伸ばした、クセのない月色の髪の魔族ジェマ だ。白衣を羽織り、青灰色の目を嬉しそうに輝かせている。


 おぼろげだった夢が、一瞬でよみがえった。


 ――所長の性格は歪んでいるんですよ!


 常日頃から上司であるリトに意見する唯一の部下。良くも悪くも、叱咤したその台詞は間接的に彼自身が旅立つきっかけになった、のかもしれない。


「……ライズ?」


 掠れ気味な小さな声にリトは自分のものなのかと本気で疑った。

 思っていたよりも、身体が弱っていたらしい。


 しかし聞き取りにくい上司の声を聞き逃さず、ライズはほっとしたように表情を緩めた。


「良かったぁ」


 今自分が置かれている状況を、リトはさっぱり理解できていなかった。


 なぜ自分は寝ていたのか。夢に出てきた部下が、なぜ目が覚めた今も現実に目の前にいるのか。

 頭が混乱しておかしくなりそうだ。


 ひとまず、今までの記憶の整理と置かれている状況を分析しなければならない。


 ここはリトが住居を構えている王都ではない。今は長期休暇を取って、世界を巡る旅の途中だ。


 宿場街リズに滞在中、無作法な依頼の手紙を受け取り不快に思ったものの、ひとまず話を聞きに依頼主の屋敷にまで赴いた。だが、主がいるはずの部屋には人の姿さえなく、いたのは獰猛な炎のモンスターだった。


 そして、見事に傷を負わされたリトは命拾いはしたものの、こうしてライズと共に暗い一室に閉じ込められているようだ。その証拠に、視界を巡らすと鉄格子が見えた。どうやら、ここは牢らしい。


(それにしても、なぜ、こいつがここに。)


 驚きを隠せず、月色の髪の青年を見てリトは動揺した。闇色の目を泳がせる。


 リト自身が所属する王立魔術具マジックツール開発部会計係兼次長。それが彼、ライズ=ウィルズ=ティラージオの肩書だ。


 旅立つ前、所長であるリトは、開発部での仕事の一切をライズに任せてきた。本来なら彼は研究所にいて、書類に追われているはずではないか。


「しょちょー。今の状況、めちゃくちゃヤバいですよー」


 言葉の割に緊張感のない声だった。思わず身体の力が抜け、ため息を吐きたくなる。


「ところで所長。これ、外せます?」


 ちゃり、という金属音が鳴った。


 ライズがリトの眼前に向けたのは、両手を拘束している手錠と鎖だった。


 鍵穴はない。目を凝らすと、手錠の内側に魔法文字で書き込まれた術式を暗がりの中でも確認することができた。おそらくただの拘束具ではなく、魔力を封じる効果のある手錠なのだろう。


「……どこかで見たことがあるな」


 明かりの少ない室内で全て目視できるわけではないが、術式の筆跡には見覚えがあった。


「何ねぼけてるんですか。これ、所長が作った魔術具じゃないですか! なんでこんな危険なものを量産してるんですかー!」


 寝ていたのではなく、痛みと出血で気を失っていたのだが。口に出しそうになるも余計に話が逸れそうなので、その言葉を飲み込んでおく。


 魔力を封じる拘束具を開発していたことは、特に口うるさいライズには伏せていたというのに、なぜ知っているのか。高価な結晶石で作った手錠は、特に変わった趣味を持つ貴族達には好評で、密かに依頼を受けて取引していたのに。


 だが会計係であるライズは、リトの見ていないところで素材の管理も徹底していた。

 上司が女王に提出する素材の在庫数を誤魔化して着服していたことに前々から気づいていて警戒していた彼が、結晶石の数が明らかに減少していることに気付かないはずがない。


「所長が作ったんだから解呪方法くらい知っているでしょう?」

「ああ、知っている」


 頭がぼんやりして、声を出すのも億劫だ。

 それでも話さないわけにもいかない。ひとつ息を吐き、リトは続ける。


「キーワードを心で念じて、直接触れば解呪される」

「どんなキーワードなんですか?」

「手錠のキーワードは作成者が決めるわけじゃない。使用者が決めたキーワードで解呪されるんだ。俺が知るわけないだろう」


 目だけを動かしてきっぱりと言い切ると、あからさまな溜め息が聞こえてきた。


「それじゃ外せないじゃないですかぁ。一応、言っておきますけど。これ、所長の手足にもついてるんですよ?」


 まだ回復していない身体を動かすことはできない。

 手足が重くて動かそうという気力さえ湧かない。手錠がかけられている感覚がまるでしなかったから気づかなかった。


 近くにいるライズを見やれば、手は繋がれているものの足には何もかけられていない。


「……なぜ、俺だけ足まで繋がれないといけないんだ」

「魔法を完全に封じて、逃げないようにするために決まっているじゃないですか。特に所長は魔力が強い上に、剣まで扱えるんですから」


 考え得る当たり前のことをさらりと言われて、リトは思わず黙り込む。


「そんなこと言ってる場合じゃないんですからね。今、一番ヤバいのは所長なんですよ?」


 眉を少しだけ寄せて、ライズは真面目な顔で言った。


「今、所長の身体は相当の重傷なんですよ? 分かってます? 何の処置もなく所長がここに連れて来られたから、オレはできる範囲で治療してたんですからねー」


 そういえば、と牢の端に視線を移すと、赤黒くボロボロになった黒い長衣とベストとシャツが丁寧に折りたたまれている。起き上がれないので確認はできないが、ライズは瀕死のリトの服を脱がせて容体を看ていたのだろう。


「端的に言うと、右肩と左腕の損傷が酷いです。獣の牙にでもやられたんですか? ほとんど抉れていますし、所長が自分で腕を動かせないところから判断すると筋が切れていますね。左腕なんかはもっと酷くて、骨に達するほどの――」

「それ以上何も言うな。余計に痛むだろうが」

「あはは、すみません。職業病みたいなものですから。それに、【銀酒シルヴァリキュール】を薄めて打っておきましたから、痛みはマシになっていると思いますよー」


 へらりと笑うライズを見ながら、リトは再びため息をつきたくなった。

 研究者であると同時に医者でもある彼は、普段から【銀酒シルヴァリキュール】を携帯していたのだろう。研究所でも用いられるその薬は薄めれば鎮痛剤の効果がある。確かに、気を失う前よりは痛みを感じなかった。


「とにかく、傷を塞ぐにはまず縫合の処置が必要なんですよ。でも、道具もないし、こんな不衛生な場所でできるわけがないですか。それに獣の牙にやられているんですから、このままじゃ傷から化膿して最悪死んでしまいますよ?」


 リトは何も言わなかった。出血で頭がうまく働かないが、ライズが言っているのはありのままの事実なのだろう。


「せめて治癒魔法でも使えたら、傷を塞ぐことができるんですけどねー」


 間延びした声で、けれども深刻に眉をひそめて、ライズは魔法製の手錠で繋がれた両手首に視線を落とした。


 魔法を使うなど、それこそ無理な注文だろう。魔力を封じて牢に閉じ込めておく人物が、ご丁寧にも手錠は外してやった上で魔法を使わせてくれるはずがない。

 まるで他人事であるかのようにリトがそう結論付けていると、ライズはおもむろに立ち上がった。


 声をかけず、とりあえず何をするつもりなのかと見ていると、ライズは鎖と手錠でつながれた手を振り上げて牢の格子に思いっきり叩きつけた。ガン、と大きな金属音が室内に響く。


 ところが、ライズはそれだけで飽きたらず、何度も何度もガンガン叩きつけ始めた。


「何だ。うるさいぞ」


 当然、音を聞きつけた兵士が飛び込んできた。にこりともしない男相手に、ライズはにこにことした笑みを浮かべる。


「あの、お願いがあるんですよー。魔法を使わせてくれませんかぁ?」

「お前、分かってて言っているのか。領主様が聞き入れるわけないだろう」


 無表情の兵士は淡々と返す。めげずに、ライズは人懐っこく笑う。間延びした声には緊張感が欠片ほども感じられないが、相手を見据える目は真剣そのものだ。


「あなたたちは所長に用があるんでしょう? でもほら、所長は今このとおり死にかけなんですよぉ。このままじゃ傷口から菌が入って、化膿して死んじゃいますよー。所長が死んでしまったら、あなたたちだって困るでしょう?」


 ピクッと兵士の動きが止まる。その僅かな隙を逃さず、月色の魔族ジェマはさらに畳み掛ける。


「なんなら、所長と距離を置いた状態でも構いません。オレに治癒魔法を使わせてくれませんか? それなら所長の傷はふさがりますし、一命を取りとめると思いますよー」


 最後の言葉には特に効果があったらしい。兵士の表情が少しだけ変わった。


「分かった。領主様をお連れしよう」

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