3.待ち人の帰還

 時刻は夕刻を過ぎ、空が濃い藍色へ変わってきた頃。リトが出て行ってから一時間も経たないのに、とうとうルティリスは尻尾のブラッシングに飽きてしまった。


 今度は街の様子を見てみたくなって窓を開けると、外からの声や音が入ってきて、金色の獣耳がピクリと震えた。


 昼間よりも冷たくなった風が頬を撫でる。けれど、凍えるような寒さではない。


 薄闇へと変化していく空を、ルティリスはオレンジ色の目を瞬かせながら眺める。


 住み慣れた村を離れて仲間達と旅に出てからしばらく経ったが、街中で見る夕焼けはいつ見ても新鮮だった。

 ルティリスの故郷であるユヴィラの森はリズで見るような高い建物はなかったし、小さな家と畑ばかりだった。沈んでいく夕焼けは森に溶けこんでいくようで、とてもきれいだと思っていた。


 それでも、森を出てから外の世界の景色に魅了された。


 街で見る空の色や夜に見る一面の星は故郷よりも霞んでいて輝きは薄らいでいたけれど、高い建物に隠れるように沈んでいく夕焼けはきれいだ。紅い輝きを主張するかのように、建物を紅く染め上げていく景色は心から美しいと思った。


 生まれた時から美しい自然がそばにあって、森に棲む動物や虫が遊び相手だった。

 朝になると鳥は歌い、天気のいい日には小川のせせらぎが聞こえてくる。木の下で寝転ぶと、降り注ぐ木漏れ日が心地よくてよく眠り込んでしまったものだ。獣道に咲く小さな草花は、生きるのに一生懸命で、気高くて。


 だから、世界は美しいものだと思っていた。きれいなもので満ちていて、いつまでも失わない輝きで人々の心を喜ばせるのだと。


 でも、そうではないのだ。世界は美しいけれど、きれいなばかりではない。


 ルティリスはその事実に気付く発端になったのは、黒髪の魔族ジェマリトとの出会いだった。

 両親が大切に育んでくれた命を失いかねないほどの危険な目に遭い、彼が切実としていた願いを遂げるために大冒険もした。

 初めての恐怖に肩が竦み、身体の震えが止まらなかった。守ってくれたひとが傷ついた時には涙が止まらなかったし、何よりも心が痛かった。


 それでも、ほんの数日だった短い旅で、ルティリスは世界を少しだけ知ることができた。


 とても怖かった。思わず身近な人に縋ってしまい、誰かが何とかしてくれるだろうと甘えてしまったことがあった。

 結果、その人に負担を強いてしまい、一度足らず何度もひどい怪我を負わせてしまった。


 後悔はすぐ身の内に迫ってきた。故郷の村に戻った夜、布団の中でルティリスは己の行動を恥じた。


 ルティリスは狩人見習いで、村長むらおさである父から弓の扱い方を、母からは格闘の技術を学んでいた。勇気を振り絞れば、今まで鍛え上げてきた力で守ってくれていた人達を、もっと助けることができたのかもしれないのに。

 優しい人達の好意に甘えて、守られるままだった。


 大冒険の末、世界をもっと知りたくて、ルティリスはそのまま保護してくれた人達の旅に加わらせてもらった。そしていつの間にか、気付くとリトもその仲間に加わっていて、とても嬉しかったのを覚えている。


 そんなルティリスの旅の目標は、守られるだけでなく仲間を助けられる自分になるというものだった。


 旅に出てから約二ヶ月。果たして、自分はその目標に近づけているのだろうか。


 正直に言って分からない。色々な街に立ち寄ってたくさんのものを見てきたけれど、ユヴィラの森の最深部で守護獣と戦うような大きな危険は今まで無きに等しく、穏やかな時間を過ごす旅ばかりだったから。

 危険がないに越したことはない。

 でも今度は、誰かの負担にはなりたくない。


 窓から見える街表通りは、暗くなろうとしているのにまだ人であふれている。入り込んできた冷たい風に、身体がブルっと震える。


 そろそろ窓を閉めようかと思った矢先、複数の足音が聞こえた。自然と反応して、金毛の耳をピンと立てる。


 ルティリスは身体の一部に獣の特徴を持つ獣人族ナーウェアという種族の、狐の部族ウェアフォックスだ。獣人族ナーウェアは聴力に長けた民でもあるので、足音だけで誰のものなのか聞き分けることができる。


 ドアを開けて入ってきたのは、ルティリスの予想に違わず、三人の人間族フェルヴァーだった。


 背高な薄い緑色の髪の賢者と、藍白の髪の剣士フェンサー。そして、明るい笑顔が印象的なオレンジ色の髪のツインテールの少女。

 彼らがルティリスやリトの旅仲間なのだ。


「ルティちゃん、ただいまです」

「おかえりなさい、ルベルちゃん」


 にこにこと笑う人間族フェルヴァーの少女――ルベルにつられて、ルティリスも自然と笑顔になる。感情に合わせて、尻尾もいつの間にか揺れていた。


「ルティリス」


 ルベルは買い物をしてきたらしく、紙袋を抱えたまま賢者の男と奥に引っ込んでいった。一部始終見届けてから、ルティリスは声をかけてきた藍白の髪の男―ロッシェの方へ向き直る。


 ルベルの父親であるロッシェは、今やルティリスの保護者でもある。背が高く、つった両目はこわそうな印象を受けるが、彼は無条件で仲間を守ってくれる心優しい性格の人間族フェルヴァーだ。


「彼はどうしたんだい?」


 彼、と聞かれて、すぐにそれがリトのことだと思い当たる。

 よくよくロッシェの表情を見てみれば、紺碧色の目を動かして友人の魔族ジェマを探しているようだ。


 六種族の中でも魔族ジェマは長寿で、見かけから判断する年齢と本当の年齢は大幅に違うらしいから、リトが一体どれくらいの時を生きているのかルティリスは知らない。けれど、ロッシェとリトは年が近そうに見えるし、実際二人で親しそうに話しているところをよく見かける。


 きっと二人は互いにとって親友で、第三者から見て微笑ましく思うくらい仲が良いのだろうと思う。


「リトさんはお仕事の用事でさっきお出かけしました」


 出て行く寸前、リトはルティに言付けを頼んだのだった。先ほどの出来事と彼の言葉を記憶の中から取り出して、思い出す。


「仕事?」


 ロッシェが短く聞き返すと、ルティリスはこくりと頷いた。


「はい。【風便りウインドメール】でお手紙がきたんです。リトさん、それを読んだら出て行きました。なんでも急ぎのお仕事みたいだったみたいで。すぐに戻ってくるから、そうロッシェさんに伝えておいてくれって言ってました」


 ありのままを伝えると、ロッシェは腕を組んで黙ってしまった。眉を寄せて考え込む表情に、ルティリスは見上げたまま首を傾げる。


 自分で意識する以上に、彼女は俗に言う世間知らずだ。

 人間族フェルヴァーと比べると成長の早い獣人族ナーウェアだからか、顔立ちや姿は十代後半でも、実のところルティリスはほんの十歳の仔狐なのだ。その上、両親から豊かに与えられる深い愛情に包まれながら生きてきたので、世界には善良な人ばかりではなく、悪辣な陰謀を企む者や卑怯な手段で弱者を闇に堕とす者がいるということを、彼女は本当の意味で理解していない。


 だから、ルティリスはロッシェが何を疑い、何を心配しているのか分からなかった。


 いつまで沈黙が続いただろうか。不意にロッシェは顔を上げるとルティリスを見、眉を寄せたまま渋い顔で、ぽつりと言った。


「……悪い予感しかしないんだけど」

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