2.フレイムウルフ

 手紙をよこした依頼主の屋敷は、それほど深くはない森の中にあった。


 貴族というだけあって、街中にある宿や店などの建物とは比べものにならないほどの大きな洋館がそびえ立っていた。さらに容易には侵入できないほどの高い塀が、館を守るように囲まれている。

 すぐ目の前にある門扉も大きく、雇っているのか幾人かの兵士の姿も見られた。


 洋館は全体がほとんど真っ白で、特に装飾もない黒の窓と扉といったシンプルなデザインだった。


 リト自身には特にこだわりなどはないが、ティスティル帝国の多くの貴族は国柄ゆえに壮麗に飾り立てたがる。実際のところ、彼の父親もそうで、彼の本宅は研究のために頻繁に行き来している別宅よりも美しい芸術品や美術品で飾られ、キラキラを通り越してギラギラしている。


 ティスティルの貴族の中でもここまですっきりとした屋敷は珍しいかもしれない。


 突然のことだったので約束は特にしていないが、【風便りウインドメール】で手紙を寄越すのだから、当然訪問があることは向こうだって予想はしているだろう。そう考え、リトは門に立っていた兵士に近づいた。


 見張りの兵士は無表情で、主人の来客であろう長身の魔族ジェマが近づいてきても目を向けようともしなかった。あらかさまに無礼な態度に、眉を寄せる。


 無関心な態度。それに近いのかもしれない。


 ついにしびれを切らして声をかけようとした寸前、今度は兵士の方が不意に顔を動かしてリトを見、口を開いた。


「リトアーユ様ですね。領主様がお待ちしております。どうぞお入りください」


 抑揚のない、淡々とした声だった。しかし、不思議と頭に残るその声に、なんとなく違和感を覚える。一介の兵士そのものに不審を抱いても仕方ないことなのだが、主人を訪ねてきた客に笑みのカケラもないことが引っかかる。


 だが、兵士は門を開けたまま客を促すことなくさっさと歩いて行ってしまった。後を追わねば、館の中で迷ってしまうかもしれない。

 リトはすぐにその違和感を頭の中から押しやって、敷地内へと足を踏み入れた。


 兵士は木製の大きな扉を開けて屋敷内に入ると、後ろも振り返らずスタスタと長い廊下を歩いていった。黙々と足音をたてて進む兵士の背中を追いかけながら、黒い両目を巡らせて屋敷内を観察する。


 館の中もいたってシンプルな作りだった。

 広がる白い壁に絵画はかかっておらず、壺はおろか花さえも飾られていない。むしろ、シンプルを通り越して殺風景だ。


(やはり、どこか妙だ)


 貴族の屋敷なのに女中や使用人の姿はなく、シンと静まりかえっている。

 リトが常に使用している別宅の屋敷も使用人はいないが、それは研究の邪魔になるから敢えて置いていないだけで、本宅の屋敷には幾人かの女中や使用人を配置してある。

 大抵の場合、ティスティルはそれが普通である。かえって、これだけ人の気配がないのは変だ。


「…………」


 廊下では案内人の兵士とリトの足音だけが響き、一歩ずつ進んでいくにつれて頭の隅に追いやったはずの違和感は大きくなっていく。

 だが、案内されて館内に入ってしまったからには依頼主に会わずに帰るわけにはいかないし、おそらくすでに引き返せない。なんとなく、そんな予感がした。


 絨毯も敷かれていない廊下をどのくらいの間進んだのだろうか。一体、いつまで歩かせるつもりなのか。

 そろそろ文句を言ってやろうかと思った矢先、兵士は大きな両扉のある部屋の前でようやく立ち止まった。


「この部屋でお待ちください」


 淡々と言った後、兵士は片側の扉を開けた。促されるままに入ると、そこは予想以上に広く、殺風景な部屋だった。

 真っ白な壁と床。家具はなく、もちろん芸術品はひとつもない。


「すぐに領主様がまいります」

「待て」


 ここに来て、ようやく心臓が大きく波打つ。

 リトの制止の言葉が聞こえているのかいないのか、兵士はそのまま扉を閉めた。続けて、ガチャリと鍵の閉まる音。


「……貴様!」


 曖昧だった疑惑や予感が確信となって警鐘となり、心臓の鼓動が激しさを増していく。この屋敷は危険だ。


 さっさと【瞬間転移テレポート】の魔法で宿に戻った方が得策だ。――と、魔法語ルーンを唱えようと口を開いた時、リトの背後から大きな影が躍り出た。


「うわ……っ!」


 急いで振り返ったが間に合わなかった。予想を遥かに超えた大きな力が長身の身体を突き飛ばし、気がついた時にはすでに仰向けに押し倒されていた。


 肌に直接当たる熱風と、鼻を刺激する焦げた匂い。肩には激痛が走り、リトは顔を歪める。


 赤とオレンジの毛の大きな狼だった。それが身体の上に乗りかかり、右肩に強く噛み付いていた。濃いきんいろの目が動き、黒髪黒目の男を睨みつける。

「……くッ、炎狼フレイムウルフか」


 狼の牙が長衣とベスト、さらにはシャツの布を貫き、直接肌に食い込んでいる。鋭い痛みに顔を歪めつつも、リトは検索した脳内の記憶からモンスターの名を口にした。


 通常の狼よりも体躯の大きい炎狼フレイムウルフは力も強く、大きな前足が長身のリトの動きを封じている。持ち合わせているモンスターに関するデータを記憶の引き出しから取り出し、分析する。結果、黒衣の魔族ジェマは自嘲気味に笑んだ。


「さすがに死ぬかもしれないな、これは」


 牙が食い込んだままの右肩からドクドクと血が流れていく。

 なのに、自然と頭の中でモンスターや状況を分析し、持ち合わせている力では敵いそうもないと冷静に判断できることを考えると、やはり自分は研究者なのだとリトは思い知る。


 炎狼フレイムウルフは炎に属するモンスターだ。だが、リト自身は炎を弱点とする闇属性の体質で、また闇の民と呼ばれる魔族ジェマのため、その魔法しか使えない。闇魔法だけでもある程度は攻撃できるのだろうが、室内から光の精霊の強い気配がする点から考えると、闇魔法さえも発動できないように仕組まれているのだろう。


 魔術師ウィザードが魔法を封じられて、一体何ができるのか。


 つまり、今の状況は俗に言う、絶体絶命のピンチというやつなのだろう。

 仕組まれている。作為的な、確実にこれは何者かの手によって仕掛けられた罠だ。


「……ぐ、あああっ」


 皮膚の中に牙が沈んでいき、リトは悲鳴に近い呻き声をあげた。

 このまま狼の口が喉へと移動して噛み切られてしまったら、間違いなく死ぬ。


 さて、どうしたものか。


 右肩を噛まれているから、利き手は使えない。ならば、左手を使うしかない。

 いつも帯刀してある長衣の中の片刃剣を手さぐりで鞘ごと掴んで、そのまま巨狼の横っ面を殴る。

 だが、獣はビクともせず、唸り声が頭上から降ってきただけだった。


(……しまった)


 きんいろの目が動き、黒髪の男を睨みつける。殺気に似たものをぶつけられて、恐怖で身体が固まったが、炎狼フレイムウルフは噛み付いた肩から口を放さない。

 もともとあまり腕力がないリトが剣で殴っても効果はなく、かえって怒らせただけだった。


 一応、剣術には少し心得があるが、片手では鞘も抜けない状態の上に得意とする魔法を封じられては、リトの攻撃にも限界がある。そもそも狼を退けるほど剣が扱えるわけではないことは、誰よりも彼自身がよく理解していた。


 だが、ただ何もしないで噛み殺されるよりはマシだ。


 指をうまく動かして、鞘ごと掴んだ剣を柄に持ち替える。時々、狼の牙が傷口に深く食い込み腕が痙攣するが、諦めずにゆっくりと剣を手の中で滑らせていく。

 そして、喉をかばうように横に持ち、そのまま身体の上から狼を引きはがすように押し出した。


「……あああ!」


 その拍子に獣の牙が食い込んだまま動いて肩に激痛が走った。焦げたような匂いと肌にあたる熱風がさらに傷口を痛くさせる。


 自分の悲鳴や呻き声ばかりが耳について、本当に嫌になる。


 傷口を広げて出血をひどくさせたせいなのか、頭がぼんやりとしてきた。それでも、力は緩めずにリトは喉をかばい続けた。

 いつ決着がつくのか分からない力比べに飽きたのか、不意に炎狼は肩から口を離すと今度は躊躇いなく左腕に噛み付いた。


「うあっ! ……く、そっ」


 思わず悲鳴をあげつつも、リトは手の力を緩めなかった。すると、あざ笑うかのように、炎狼フレイムウルフは左腕に噛みついたまま頭を動かして振り回し始める。


 耐えられない痛みに悲鳴や呻き声をあげているうちに指の力がなくなり、てのひらから剣が滑り落ち、カタンという金属音が室内に響いた。


「……こいつ、飼われている…モン、スターか」


 痛みと苦しさから荒くなる息の中で呟く。本来なら噛み付いた腕を振り払ってしまえばとっくに喉を狙えるはずなのに、この狼はそうしない。標的を殺さない程度にいたぶるように、とでも命令されているのだろうか。


 もしそうなら、この館の主人はいい趣味をしていることだ。


 どちらの手ももう使えないし、乗りかかられている時点で足を使って反撃もできない。何よりも、もう頭が働かない。

 次第に霞んでいく視界の中、黒髪の魔術師はすべてを諦めて目を閉じた。


 無抵抗になっても炎狼フレイムウルフは喉を噛み切らなかった。左手を噛み付いたまま身体から降りたのか、腹にかかっていた重みがなくなる。

 そのままずるずると身体を引きずられいるのが、真っ暗な視界の中でも分かった。


 そんな時だった、狼の動きが止まったのは。


 突然、巨狼がリトの左手を離し、遠ざかる。何が起こったのか分からず、沈みそうになる意識の中でうっすら目を開けると、リトの方へ歩いてくる人影が見えた。


「知略に長けた者だと聞いていたが。案外、簡単にかかるものだな」


 それは誰かに聞かせるというわけではない呟きのようだった。床を歩く足音がやけに響いて聞こえてくる。


 朦朧とした意識の中では、その姿見届けるまでが限界で。

 リトは声の主を確かめることなく再び目を閉じて、一気に意識を手放した。

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