第11灯 混沌の街道
大司教の男と巡礼者の少女は、騒がしい酒場の席についていた。狭い店の中にはテーブルと椅子が雑多に並べられ、椅子のみならず床にまで転がっている酔いどれたちの罵詈雑言が飛び交っている。大司教とマーガレットは店の最も奥の席に座り、客のあまりの品性のなさに顔をしかめながら、壁に背中を押しつけていた。マーガレットなどは、このような場所に馴染みのある生まれでないのだ。
「では、用を済ませてくるよ。」
そう言ったのは、角帽子の狩人ハーンだった。
「少し時間がかかるけど、くつろいで待っていてくれ。えっと──巡礼者さん?」
「マーガレットと申します。」
「あぁ、なるほど。聖堂兵の君も巡礼を? 彼女に付き添ってもらってるのかい?」
「あ、いや……。」
ハーンが首をかしげると、大司教は何か言いかけて横目でマーガレットに訴えた。マーガレットはここで、すっかり忘れていた以前のやりとりを思い出した。
(うわ、そうだった。大司教様は私の従者としてついてる、みたいな設定だっけ。)
ハーンは渋い顔つきで黙っている大司教に微笑みかけていた。
「若い聖堂兵なのに、随分と威厳があるから驚いたよ。高貴な身分なのかい?」
「ジャアーックッ!!」
突如、マーガレットが甲高く叫ぶと、隣に座っている大司教の肩を思いきり引っ叩いた。大司教は特に動じなかったが、マーガレットの声があまりに通るので、店の中にいた者は全員この異質な客の方を振り向く結果となった。マーガレットは自分の行いに少し後悔したが、ここまで来て後戻りはできないので、大司教を小突いて喋り続けた。
「彼が話しかけてるのに、何を黙っているの! だからアンタはどうしようもないのよ。聖堂兵になりたいと言うから、うちの下働きから教会に出してやったのに、ちっとも役に立ちやしない。これ以上うちの家柄に泥を塗るような真似したらタダじゃおかないわよ!」
マーガレットが大声でまくし立てるので、これには大司教も驚いた。立場を隠すとは言ったものの、彼女ならもっと穏便に済ますだろうと思っていたのだ。
「も……申し訳ありません、マーガレット様。」
ハーンも戸惑いを見せていた。
「そ、そんなに言わなくても。会話だって人によって得手不得手というものがあるしね。」
「いいえ、なりません! この男、甘やかすとすぐつけ上がるので、厳しく言ってやらないといけないのです。私が叱っておきますので、ハーンさんはどうぞお構いなく、ご用事を済ませてくださいな。」
マーガレットはふんぞり返って言い放った。ハーンは狼狽えながら軽く返事をすると、あの干した肝臓が入った袋を持って店のカウンターに向かって行く。彼が、店の主と話し込み、こちらに注意が向いていないことを確かめると、マーガレットは反らしていた胸をしぼませて深く息をついた。
「設定を盛ってしまいましたわ……。」
大司教は頷きながら腕を組んでいた。僅かにマーガレットから顔を背けている。
「まぁ、いいだろう。それなりのインパクトは与えたんだ。──で、俺はジャックなのか。」
「ご自分で考えてくだされば、もっと素敵なお名前になりましたのに。」
「いや、問題ない。ある事情でジャックと名乗ったことがある。昔のことだがな。」
「……存じておりますわ。」
マーガレットの言葉を聞くと、大司教は目を見開いて彼女を見つめた。ひどく驚愕し、頭の中で思考を巡らせながら言葉を探しているので、ギリギリと音が鳴るほど歯を食いしばっている。マーガレットは言葉を続けた。
「いえ、実はそんなお話を伺っていました。フォルボスさんから。」
大司教は僅かに怒りの表情を浮かべたが、すぐに気を落ち着かせようと目を閉じ、うつむきながら「そうか」とだけ、声を絞り出した。
「ところで、大司教様。こんな人が多い場所にいて大丈夫なのですか? 人目に触れない方がいいと思うのですが。」
マーガレットは大司教が機嫌を悪くしたのではないかと思い、また雰囲気がまずくなっては困るので、できる限り陽気な口調で尋ねた。傍から見れば、とても陽気と言える語り口ではなかったのだが、マーガレットはこのとき本当に陽気に振る舞えていると思っていたし、空気を変えようとうずうずしていたので、この後の大司教の言葉にこれと言った明るさがなかったことに心底がっかりした。
「ここは教会の目があまり届いていない。いつ誰が出入りしたかが把握しにくいから、行方をくらますにはこの方がいい。確かに人の目は危険だが、
さて、二人がそんな話をしているとき、このナツガレオの別の場所では、少し奇妙なことが起きていた。この通りは、先ほど二人がいた寂れた脇道や人で溢れる中央街道とは異なり、民家が多く立ち並ぶ穏やかな場所だ。花に水をやる柔らかな音に、洗濯した衣服の擦れる音が重なり、住民の話し声や駆け回って遊ぶ子どもの笑い声が溢れていた。
ある民家の間に店を構えて呼び込みをしている年老いた布売りのもとに、二人の男女が近づいた。
「おいアンタ、布を見せてくれないか?」
「あたしの彼が、今度のデート用に素敵なドレスを仕立ててくれるって言うのー! とびきりのを見せてちょうだい。」
女は満面の笑みを浮かべて、自慢げな顔つきの男の腕に抱きつき頬を擦りつけていた。
「もちろん、どうぞどうぞ。どんなのがお好みで?」
布売りは朗らかな笑みを浮かべて、店頭に並べられた布を見せた。よく見る土色や草色をした無地のものから、夕日のように鮮やかな赤や月のように美しい白銀、金色の糸で繊細な刺繍が施されたものまで、多種多様な布が店の台にずらりと並べられている。
「うーん、そうだなあ。どうせなら、とびきり豪華にしてやりたいんだがね。おい、オマエはどれにしたいんだよ。」
男は絶えず擦り寄っている女に尋ねた。
「えーとね──。」
女は陳列された布をゆっくり見回しながら、店の奥へと進んでいくと、手を擦りながら間延びした口調で話し出した。
「あたし敏感肌なのよ! 肌触りが良くないとすぐかぶれちゃうの。それも人に選ばせるのは危険。だって、それが本当に自分に合ってるか分からないもの。他人の評価は当てにならないってホントにそう思う。他人の評価でモノを選ぶやつはバカよ!」
気の良い店主は、この女の話をたいそう親身になって聴き、手本のごとく穏やかに答えた。
「どうそ、手に取ってみてください。あなたのお肌にピッタリの布があるはずですよ。」
すると、女は並べられた布を一枚ずつ取りじっくりと眺めながら、時折手触りを確かめて品定めした。最初は無地の安くごわついた布から、徐々に鮮やかで滑らかな手触りの高級品へと移っていく。やがて、女は数種類の布を腕に抱えて店主に呼びかけた。
「決めたわ! この布はちょっとチクチクするけど、色がとっても素敵。肌が触れない部分に使ってもらいましょ。メインで使ってほしいのはコレ! 最高だわ!!」
女がメインに選んだのは、少し暗く深い赤色の非常に良質な布だった。一般市民はもちろん、裕福な商家ですら購入ははばかられるであろうブランド品だ。当然、店主の布売りは唖然とした。
「お客さん、これはうちで取り扱ってる中でも最高級のブランドですが、大丈夫ですかい?」
「問題ないわ! ね?」
女は、付き添いの男を見て尋ねるが、男の方は僅かに焦りを見せながら頷いていた。
「……あぁ、ではお値段はこちらで。」
店主が木の板に掘られた価格の表を見せると、男は所持金を手に出し始めた。
すると、女がいきなり大声で騒ぎ出した。
「ちょっと待って! コレ、破れてるわ。」
女は、例の赤い高級布を手に取っていた。彼女の言う通り、布は斜めに大きくまるで引き裂いたかのように破れていた。
「こりゃ失礼、お客さん。それは、さっき言った通り高級品でして、換えがきかないんです。申し訳ないですが、別のをどうぞ。」
店主がこう言うと、女は首を振ってさらに大きな声で話し出した。
「いいえ! この布が気に入ったのよ。コレ以外には、ありえないわ。コレをもらうわよ。でも、傷ものだから値段は勉強してね。……そうね、これと同じ値段で買うわ。」
女が指したのは、チクチクすると評していたあの安物の布だった。店主は愕然とした。
「そ、そりゃあちょっと……。そこまではまけてやれませんよ。」
店主が言葉を終えた直後、付き添いの男が店主の襟首を乱暴に掴み、柱に追い込んで睨みつけた。
「なんだと!? テメェは俺らに粗悪品を売りつけてんだぞ。客に傷もの売るなら、値段はお客様の決定に従うのが筋ってもんだろうが。ドブネズミの目ん玉より小汚いその頭でよく考えてみろや!!」
男が店主を怒鳴りつける間に、女は手に隠し持っていたナイフをこっそり袖口にしまった。このナイフの犠牲者は、あの深紅の布に他ならない。なんと言う許されざる行為か! 悪質な客の中でも、際立って血も涙もない者たちだ。
結局、男を逆上させることを恐れた店主が折れ、高級布は安物と同じ値段で男女の手に渡ることとなった。うなだれてひどく落ち込む店主を後にして、男女は高らかに笑って、店から離れた人通りの少ない通りを歩いていく。
「やったわ! この安物が100枚あっても足りないような一級品を、あんな値段で買い取ってやった。やっぱり、まけてもらって商売は成り立つのよ。それも覚悟してないんじゃ、社会のゴミよね!」
「お前が商品を傷つけて、俺がちょっとお願いをする。これだけでこんなに儲けるなんてな。これを売れば、しばらくは遊んで暮らせるぞ。。世の中はごね得で動いてんな! ──ん? どうした、急に止まったりして。」
世にも醜い会話が繰り広げられる中、女が歩みを止めた。如何わしい表情で地面を見つめている。
「なんか、脚に引っかかったのよ。……紐?」
女の足元には、細い麻紐がくるぶしくらいの高さにピンと張られていた。
「何コレ、いたずら? どこのどいつがこんなこと……。あれ?」
女は麻紐が張られている先を見つめた。紐は民家の間から出ており、建物の僅かな隙間に通されていた。
「どうやら、この家のやつのしわざだな。お前、その紐持って文句つけて来いよ。やり方によっちゃ、また何かもらえるかな。」
男が笑いながら言うと、女は頷いて紐を抜き取ろうと引っ張った。すると、なんということか! 建物の壁がぱっくり開いたかと思うと、女はそこに吸い込まれていった。すぐに壁は元に戻り、音も声も聞こえないまま壁にジワジワと赤いシミが広がった。あまりに一瞬の出来ごと。まるで建物が女を喰らったかのような光景に、男は呆然と立ち尽くしていたが、やがてひどく恐怖し、悲鳴を上げながら逃げ出しかけるが、あまりに慌てたので足元に張られた麻紐に引っかかり、彼もまた、壁の餌食となった。
人の見当たらないこの通りで、その光景を目にした者はいなかった。いや、たった一人を除いていなかった。男女が飲み込まれた建物の向かいの路地に立っていた血色の悪い小柄な男は、少々大げさな飾りのついた上等な服を着ており、手には猫ほどの大きさの銀髪が美しい少女の人形を持っていた。そして、白いケープに首には教会のチャームを下げ、その右目は赤く爛々と輝いている。──大司教と同じだった。
男は、非常にゆっくりと事件があった建物に近づくと、気味の悪い笑顔を浮かべて口を開いた。
「最悪だ……。イノシシ用の罠にゴキブリが引っかかった気分だぜ。くだらねぇことしやがって。」
言葉遣いに反して、その声は奇妙なほど猫なで声で、男は甲高く笑ってみせると、手に持った少女の人形を顔の近くに持ってきた。
「二人トモ、死ンジャッタノカシラ?」
それは人形のものか? はたまたこの男のものか? 低く響き渡った唸りのような声に対し男は人形を見つめつつ、なおも笑って猫なで声で話した。
「いいや、死んじゃいねぇさ。怪我はしたかもしれないし、気を失ったかもしれないが。しかし、錆が混じった水が染み出て、表面が汚れてしまったな。可哀想に、この仕掛けも作り直しか。」
男は建物の壁にできた赤いシミを優しくさすった後、被害者である男女が残した布を見つめた。
「ネェ見テ、アノ布。綺麗ナ赤ネ。ワタシ、赤ッテ大好キ。」
地響きのような声がそう言うと、男は屈んで布を手に取った。
「モラッチャオウヨ。」
地響き声はそう提案するが、男はゆっくりと二回首を振った。
「ダメだダメだ。それは盗むってことだろ? 神様は見てるんだから、ちゃんとしないといけないぜ。」
男は布を持ったまま、ゆらりと立ち上がった。虚ろながらぎらりと光る目を、遥か上空に向けて。
「落し物は、目立つところに置いといてやろう。……なぁ?」
デッドマンズ・フレイム 詠村 ハミア @Idel
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