第2話
直人は、雑司ヶ谷の石畳の参道にひっそりとたたずむ古民家風の店で、軽食をとっていた。ソファー席で、ゆっくりと珈琲を飲みながら、読書をしようというのがねらいだ。
物静かなご主人が、ハンドドリップで珈琲を入れている。あたたかな眼差しで珈琲を見つめながらドリップするご主人。
窓の外からの参道の緑と日の光を感じながらゆったりする。この和やかな空間がとても気に入っている。ここだけ時間の流れ方が違うようで、休みの日にふらっと足を運ぶことがよくあった。
ふと、後ろから誰かから見られているという感じがした。後ろを見ると、誰もいない。まだ見られている気がして、もう一度店を見渡す。視線を感じる方へ、顔を向けると、「やっと気がついたの?」とでも言うように、この店の看板ネコがこちらを見つめていた。
「にゃー」と甘えた声ですり寄ってきた。撫でてほしいのかなとぐりぐりと撫でやると、ちょっとうす目でこちらを見てからゆっくりと目を閉じた。
チョコレートいろの瞳、全身のもふもふした黒い毛に首のところだけが白くて、とてもきれいなネコだ。
さすが看板ネコだ。店内の邪魔にならない場所にたたずみ、店の様子をうかがっている。お得意さんには、こうやって言葉を交わすことができないかわりに、目でものを言ったり、コミュニケーションとっているのだろう。
ふと、あの夜の深夜食堂タローの若い男のことを思い出した。なでる手を止めて、じっと黒ネコを見つめる。あちらもこちらをくりくりとした目で見つめ返した。黒猫の瞳孔が少し大きくなったり、小さくなったりを繰り返している。
突然、このネコは、あの時の若い男ではないかというバカげた考えが頭に浮かんだ。くりくりとした黒い瞳、若々しく黒いつやつやの毛並み、凛々しい顔立ち、人懐っこそうな雰囲気。目の前にいるのは、ネコなのにかかわらず、あの時の若い男の印象にとても似ていた。
「タローは、あなたが好きなようですね。」
店の主人が声をかけてきた。
「このネコは、タローというんですか。」
「タローは、店番をするのが好きなようで、日中はうちの店にいるんですよ。」
「ご主人の飼ってるネコではないのですか。」
「タローは、だれのネコでもありません。このあたりじゃ、いろいろな店や家に出没するんですよ。」
「そうですか。タローくんは、不思議な魅力があるみたいですね。人を引き付ける力があるような。」
「タローは、この町が好きで、何かの役に立とうとしているんですよ。それがよく伝わってくるから、町の人たちもタローに会うとお礼にごちそうしたり、世話をしているのだと思います。」
「なるほど。タローくんが、町の人たちに愛されているのは、タローくん自身も町の人を大切にしているからなんですね。タローくん、ずっとこのあたりにいるネコなんですか。」
「タローが、こねこの時、この裏にある食堂のおかみさんが捨てられているのを見つけてね。それから、食堂の看板ねこになったんです。魚がうまい店で、ずっと繁盛している店だったんですけど、少し前に、おかみさんが亡くなったんです。」
直人は、あの夜、深夜食堂で会った若い男が、ひょっとしたら目の前にいるタローではないかと直観した。あの夜、青年は、昼間は裏にある店にいると言っていた。
「タローくん。君はあの時会った若い男かい。」タローに小さい声でささやいた。
タローは、直人の顔を食い入るように見て、一言にゃーと言った。それから、奥にあるかごの中に入って、きれいに丸くなって休み始めた。
「そのお店の名前、タローっていう深夜食堂ですよね。」
「おかみが元気なころは、昼間営業している食堂だったんだけどね。おかみが亡くなってからは、深夜の数時間だけ営業してるよ。」
やっぱり!あの時会ったのは、タローくんだ。タローくんがあの店を切り盛りしているのだ!初めは、ひょっとしたらら、ここにいるタローくんが、あの夜あったタローくんかもしれないと思う程度だったが、次第に確信に近づいていく。自分の気持ちが高ぶっているを感じた。
「私、じつは、つい最近、その深夜食堂タローっていう店に行ったんです。若い男が切り盛りしていて、料理もうまいし、対応もいいし、とても雰囲気のいい店で…。その時…の若い男が、このタローくんととても似ているんです…。ばかげた話をしているのは、分かっていますが、このタローくんが、人間の姿になって、おかみさんのために深夜食堂をやっているのではないかと、勝手に思ってしまっているんです。」
店主は、優しいまなざしをタローの寝顔に向けた。
「この町の人も、そうかもしれないと思っているんです。タローは、おかみさんに恩返しをしているのではないだろうかとね。商店街の人は、その食堂をよく利用しているんです。何しろ料理がうまいですからね。ネコのタローは、こうやって、商店街のいろいろな店や家に出没するんです。最近は、昼間うちにいることが多いですがね。ネコなのに人懐っこいので、お客さんから看板ネコとして可愛がられていますよ。」
直人は、人とのつながりを大切にするタローと出会えたことに心がおどっていた。また、タローを優しく包み込み、愛情を注ぐこの店主や町の人が気に入ってしまった。
近いうちにまた、深夜食堂タローに行ってみよう。タローのいる店で、うまい酒と魚料理を食べながら、町の人たちと触れ合いたい。
直人は、店を出るときに、タローを振り返った。タローの方もくりくりした目でこちらをじっと見ていた。「また、近いうちに。」と目で挨拶しているようだった。
直人は、金曜日の深夜、駅を出ると上りエスカレーターを駆け上がった。一日、忙しくほとんど食べていなかったので、お腹は減っていて、身体もへとへとだった。でも心は踊っていた。軽い足取りで、深夜食堂タローへ向かった。
タローと直人 そらお @solao_ulala
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