タローと直人

そらお

第1話

 駅を出て、エスカレーターを上がると、春の夜風に包まれた。

 直人は、昨年の春から雑司ヶ谷に部屋を借りて住んでいる。お寺の塀に囲まれた狭い路地を通り抜け、昔ながらの商店街に出た。直人は、この近くのアパートを借りていた。

 繁忙期とあって、毎日のように残業が続いていた。深夜の食事は身体によくないことは頭で分かっていたが、疲れて帰って何も食べないわけにもいかない。しかし、夜遅くの食事といっていながらも何を食べるかとあれこれ考えていたところだった。

 商店街から路地に入ったところで、黄色いちょうちんが優しく照らしている店が見えた。こんな路地裏に深夜でも営業している店があったかな。雑司ヶ谷の隠れ家的な居酒屋なのだろう。

「こんなわかりにくい場所に店があるんだなぁ。」雑司ヶ谷のアパートに住むようになってから1年、こんな場所に居酒屋があることは見逃していた。

 おばさんが、引き戸をカラカラと開けた。

「少し休んでいきなよ。魚が美味しいよ。」

 店をのぞくと、一人でも入れそうな優しい雰囲気がした。こんな深夜まで営業してるんだな。

 直人が、看板を眺めた。「深夜食堂タロー」と書かれている。

 店内は、カウンター15席があるだけの小さい店だ。時計を見るとすでに0時を過ぎている。それでも、週末とあって、席の半分以上は埋まっていた。

 深夜食堂タローは、深夜営業している焼き魚定食メインの食堂ということだ。

 「へ~。こんな深夜に客が来るんだな。」

 直人は、カウンターの席に座った。メニューを見ると、ぱっと見、魚料理は種類が豊富だ。

「ご注文はお決まりでしょうか。」黒いTシャツに白いタオルを巻き、黒いエプロンをした若い男がお通しをカウンター席に置きながら、注文を聞いた。

 先ほどのおばさんは、いつのまにか奥へ引っ込んでしまったようだ。

 お通しのごま豆腐が、とてもおいしそうだ。これだけでも、美味しくお酒が飲めそうな感じがする。

「生。それから、サンマ定食ちょうだい。」

 なれた手つきでビールをジョッキに注ぐ。泡が丁度いい具合に、きれいに乗っていておいしそうだ。

 この男一人でこの店を切り盛りしているのだろうか。他にお手伝いのバイトも料理人もいないみたいだ。

「前から失礼します。」カウンター席の向かいから男が生ビールを出す。

「生、お待たせしました。」

 カウンターの生ビールを受け取るとき、笑顔の青年の目と合った。チョコレート色の瞳を見つめた。さっきは、よく見なかったから気がつかなかったが、その男からどこかで会ったことのあるような親しみを感じた。

 真っ黒の髪、くりくりとしたチョコレート色の瞳、そして、無邪気さを感じさせる人懐っこそうな笑顔。今どき感がある髪型。まじまじとその男を見る。もしかしたら、容姿の整った若い男は、だいたい特徴が似ているから、会ったことがあると思い込んでいるだけなのかもしれない。

 お客との会話に耳を傾ける。座っている人たちは常連客なのだろう。青年が笑顔で会話をしている様子に注目する。客とのやりとりが、とても温かく、さわやかなだ。

 ごま豆腐を箸でつまみ上げる。口に入れると、なめらかでしっとりとした食感がした。美味しい!舌がとろけそうだ。

「お飲み物、どうしましょうか。」青年が、なくなりかけているグラスを見て、注文を取りに来た。

「あっ…」少しためらったが、聞いてみた。

「どこかで会ったことありませんか。すみません…突然。まるで、ナンパみたいなかんじで、変ですよね…。」

 少し驚いた様子を見せたが、すぐにもとのすがすがしい笑顔に戻る。

「気にしないでください。」

「私は、このあたりに住んでいるので、どこかですれ違ったことがあるのかもしれません。不躾な質問を突然してしまって、すみません。」

「いや、そんなことありません。ぼく、昼はここのちょうど裏あたりの店にいるんです。このあたりで、会ったことがあるのかもしれませんね。」

 さっき、ドアのところで、魚がおいしいと教えてくれた人は…、お母さんだろうかと、ちょっと気になった。

 しかし、やっぱりそうだったのか。このあたりに住んでいるのであれば、どこかで会っていたとしてもおかしくない。はっきりとどこで会ったかは思い出せないが、妙に知っている感覚があったのは、やっぱりそういうことだったからだ。

「こんな深夜に、営業しているなんて、ちょっと珍しいですよね。」

「そうですね。普段よく来てくださるのは、いつもなじみのお客さんばかりです。」

「一見さんお断りじゃないんだね。」

「いやそんな…一見さんOKなので、よかったらちょいちょい遊びに来てください。」

 しばらくするとサンマの香ばしい香りがしてきた。

「サンマ定食、お待たせいたしました。」

 定食は、お漬物、お味噌汁、大根おろしがセットになっている。箸で身を一口食べると、焼かれたサンマは、皮がパリッと、脂がのってうまみが引き立つ塩味で、絶品だった!

「うまい!!こんなうまい定食が夜中に食べられるというのは、残業続きのサラリーマンには、うれしいですね。」カウンターの向かいにいる青年は、笑顔で「ありがとうございます」と答える。

 午前1時を過ぎても、店内のお客さんは減るどころか、次から次へとお客さんが入ってくる。味が絶品で、飾りっけのない店の雰囲気についつい足を運んでしまうのだろう。

「お勘定お願い。サンマ、美味しかったよ。」

「また、ぜひ来てください。」

「寂しい独り身だから、またぜひ利用させてもらうよ。一人で切り盛りしてるみたいだね。」

「はい。この店は、以前は母の店だったんですが、今は僕がやっています。小さい店ながらも味にはこだわってやらせていただいてます。」

「ますます、興味がわいてきたな。若いのに深夜食堂か。ご馳走様。また、近いうちにおじゃまするよ。」

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