3.【いつか 控え室 明け方 メル・アイヴィーは親友を見つめている。】


「ようやく、あなたをここまで連れてくることができたわね。メル」

 今まさに花開こうとしているジェラは、言った。


 世界にうごめく闘争本能を鎮める饗宴きょうえんの舞台が、何枚かの壁を隔てた向こう側で延々と続いている。

 十分に養分を蓄えた花たちが全力で咲き誇る。その想いは、せいぜいが、白い鳩となって数人の手を止めるほどの結果しか生んでいない。

 舞台は延々と続いている。


 メルとジェラは、控え室でドレスを前に立っていた。

「メルのお婆さまが作ってくださったのよね。本当に美しい。私も一度でいいから着てみたかったわ」

 メルの髪色と同じ、透き通る銀色のひだ

 それ自体がこうべを垂れたひとりの人間のように、静かにメルたちを待っている。

 ジェラは確信していた。この衣装を着た者が舞台に上がったとき、饗宴は終わると。

「さあメル。あなたの出番よ」


 ジェラの親友は、じっと目をつむっていた。

 その彫像のようなたたずまいを見て、ジェラの現実感がわずかに遠ざかった。

「メル?」

 メルの右手が動いた。

 懐から封書を取り出して、ジェラに、差し出した。

 ジェラは封を解く。柔らかな紙が擦れる音が、さらりと、やけに大きく、聞こえた。良い匂いがした。


 匂いが空間に溶け、嗅ぎ慣れた木壁の香りに取って代わるまで、ジェラは手紙を読んだ。読んでいるうちに、このまま感覚が馬鹿になって、文面も理解できなくなればいいと、彼女は本気で思った。

 

「メル……あなた……」

 つぶやいたきり、動けないジェラ。

 しわになった手紙を、メルはジェラの手からゆっくりと引き抜いた。丁寧に折りたたみ、鏡面台の前に置く。

 そして、ジェラの前に立った。彼女の着替えを手伝う。銀色のドレスの主とするために。


 メル・アイヴィーは微笑んでいた。


「やめて……。やめなさいよ……。これは、あなたのドレスよ。あなたが着るべきなのに……どうして、そんな。優しく……」

 ジェラは声を震わせていた。されるがままだった。

 なぜなら、メルの動作一つ一つに意思と心を感じたからだ。

 メル・アイヴィーは語らない。

 その代わりに――。

「まったく……。笑い泣きしながら着替えさせる人なんて、初めて見た」

 ジェラは言った。

 白銀の紐を、最後に結び終えて、メルは目尻を拭った。


 舞台までの道は、黄金色に輝いている。一歩進む度に、肌にのしかかる空気の層が重く熱く暴力的になっていく。

「最高の舞台。憧れのドレスを着て上がれるだけでも、上出来ね」

 ジェラの声はところどころ、かすれていた。

 あと数歩進めば、舞台上から流れ込んでくる喧噪で、互いの声が聞こえなくなるだろう。ジェラは足を止め、振り返った。親友の両手を握りしめる。

「今日は先に行くわ。けどいいこと、メル。私はずっと待ってるからね」

 メル・アイヴィーの微笑みを正面から受け止めて、ジェラは、今この場を自分たちだけの誓いの世界と定めた。異次元である劇場のはらわたで、争いの情念に消化されないように、二人にとっての唯一絶対、永遠の真実となるよう、決意を込めて言葉をつむいだ。

「あなたが歌えば、最高の栄誉を手にできる。そうすれば、あなたもお婆さまも、一生幸せな暮らしが保障される。あなたの声を完全に蘇らせる方法も、色んな人が探してくれるようになるはずよ」


 神よ、ご覧あれ――とジェラはつぶやく。私の目の前にいる彼女こそ、この世界を救うひと。今はまだ、舞台袖に控えているだけだけれど、そう遠くない未来に、世界の称賛を浴びるべき人です。


「一生の幸せなんて、今の私には贅沢だわ。だって……舞台の眩しさが、こんなにも怖いから」


 臆病な私には、彼女のように世界を救うことはきっとできないでしょう。

 神よ。あなたが遣わした天使がその力を振るうまで。

 この私に、彼女の意志を継がせることをお許し下さい。


 ――神は、聞き届けた。

 

 足音。

 メルのすり減った靴が床を叩く。

 振り返ったジェラの眼前に、親友の顔がある。

 メル・アイヴィーは微笑んでいた。

 ジェラが抱える恐れ、勇気、気高い心のすべてを肯定していた。

 そして、祈りを捧げるように、優しく、淑やかに、万感の想いを込めて――ジェラの背中を、押す。


 彼女は。

 メル・アイヴィーは。

 神の力を宿す声で。

 その言葉を、口にした。





(了)


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