2.【冬 猛る群衆が集う街 夜 メル・アイヴィーは歩いている。】


 ――流れるのは雲と、水と、時間。

 メルの靴先は、巨大な劇場に向く。

 右耳から入ってくる喧噪と、左耳から入ってくる静寂が、劇場の存在を異空間にする。


 裏口。

 開ける。

 橙色のランプが、「来たのか」と言わんばかりにメルの頬を染めた。喧噪が遠くなる。彼女は異次元の腹の中に入った。


「お帰りなさい。メル」

 黒いドレスを着たジェラが出迎えた。上も、下も黒尽くめの女性。

 メルと抱き合うと、二人は奇跡の花のように輝いて美しかった。

 彼女らをでる者はいない。

 崩壊への焦燥に、世界中の人々が余所よそを、別々の景色を見ているためだ。


 その、世界中の人々のために。

 劇場には様々な形の花がいる。

 大きく、名の通った花たちは、今も、メルとジュラの傍らを精霊のように走っていく。色彩と匂いで群衆たちをその身にいざなう。

 ここでは精霊であることこそが正義であり、群衆の声に千々に吹き飛ばされることこそが存在意義である。劇場で職務を全うする老若男女らは、すべからく打楽器のひと欠片と言える。一打一音に己を宿すのだ。


 劇場で慌ただしく動く彼らを、人間として生き返すのがメルとジュラに与えられた役割――平たく言えば、雑用。召使い。身の回りの世話である。腹も減れば汗もかく人間として扱うことである。

 育ての親の元から久しぶりに戻ってきたメルは、すぐに自分の役割を思い出した。異空間としての劇場のせせらぎ。流れる時。奉仕の時間だ。


 仕事に勤しむ手を、ふと、ジェラがつかんだ。最初は右手で強く。次いで左手を優しく添えて。

 ジェラは、以前からずっと抱き続けていた想いをぶつけた。

「あなたは! メル・アイヴィーは! こんなところにいるべき人じゃないの! あなたは、ここにいる誰よりも凄い人。たくさんの人を幸せにすることができる。大きな争いを止めることだってできる。あなたの声は、それだけの力を持っているの! だから」

 だから――ジェラの漆黒の瞳は、ごく薄い涙の膜で均等に包まれていた。溢れた分は、悔しさや憧憬や希望や憤りと一緒に頬を伝った落ちた。

「私にかまわず歌って。大丈夫。あなたはできる。あなたなら、全部幸せにできるから」

 二人は抱き合った。

 彼女らが醸し出す花は確かに美しかったが、やはり誰の目にもまらなかった。

 咲くには、舞台の上しかない。


 そして――。

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