その木に愛と安息を

一飛 由

ある日の放課後

「ミユって本当に物持ちがいいよね」

 続々と生徒が教室を去っていく、弛緩した空気の中、活発そうな少女が机に腰掛けながら口を開いた。

「えっ? どうして、アキラちゃん?」

 腰掛けられた席の大人しそうな雰囲気を醸す主――ミユは首を傾げながら聞き返す。

 すると、アキラと呼ばれた少女は意外そうに目を見開き、驚きの声を上げる。

「どうしてって、その筆入れ――確か中学の時からずっと使ってるじゃん。普通ならとっくに買い替えてるでしょ。ほら、私だって――」

 そう言うとアキラは脇に置いていた鞄から自前のペンケースを取り出す。

 アキラの趣味だろうか、きらびやかなデコレーションこそされているが、それに負けないくらいの鮮やかな黄色いボディが、その手の中で輝いている。

 一方、机の上に置きっぱなしになっていたミユの筆入れは丸みを帯びた愛らしいデザインをしているが、彩度を落とした桃色の胴体からは相当年季が入っていることが容易にうかがい知ることができる。

 ミユは桃の筆入れを手に取って眺めてみるが、数秒ほどで再び元の位置に戻し、屈託のない笑顔を浮かべた。

「……ま、まぁ、人それぞれってことだよ、うん」

 笑って場を収めようとする魂胆が透けて見えるミユの態度だったが、それを逃がさなかったのは、他でもないアキラだった。

「またまたぁ、そんなこと言って、可愛い物好きのミユが新しいデザインに手を出さないなんて、何か理由があるに決まってるわ。男、男でしょ? 彼氏からのプレゼントだったりとか?」

 自身の憶測でアキラは勝手に盛り上がっていく。

 しかし、そんな彼女に対してミユが見せたのは、地面に降り積もることなく消え逝く初雪のような儚げを含んだ、曖昧な表情だった。

「……違うよ。ただ、小さな女の子に会ってね……」

「えっ? 彼氏からじゃなくて、その女の子から?」

 前のめりになりながら話に食いついてくるアキラに対して、ミユは吹き出して笑いながらやんわりと否定する。

「だから、そういうのじゃないって。親戚の子なんだけど、小学生で、漢字の成り立ちっていうのを教えてたの」

「あぁ、ミユって国語の点数結構いいもんね」

「そういうわけでもないけど……まぁ、いいや。それで休むって漢字、あるじゃない?」

 そこまで言うと、ミユは目の前で宙に『休』の字を描いてみせる。

 するとアキラは軽く笑ってうなずく。

「さすがの私でも、その字はわかるよ。でも、その字がどうしたのさ?」

 アキラの言葉を受けて、ミユはどこか遠くを見つめるような眼差しで語り始める。

「うん、休むっていう字はね、木に人が寄り掛かって休んでいる様子が字になったって教えたんだけどね、その子が――」

 そこまで口にしたところでミユは一息置くと、視線を下げ、かすかに震える声で続けた。

「――その子が、じゃあ、その木はどうやって休むの? って――私、そこで気付いたんだ。私は目立つ方ばかりを見て、支えてくれてる存在のこと、全然考えてなかったんじゃないかって――」

 ミユの声は次第に感情的なものに変化していき、最後の方では泣いているのではないかと思えるほどで、愛らしい顔も無残に歪んでいた。

「ちょ、ちょっと、ミユ? 大丈夫?」

 突然のミユの変化に、アキラも慌てて机から飛び降りて、正面に向き直る。

 心配するアキラの声にミユも我に返ったらしく、すぐに目元をぬぐって即席の笑顔を作ってみせる。

「ごめん、大丈夫だから……」

 気丈に振る舞おうとするミユだったが、顔は赤く、瞳は潤んでおり、彼女が平常な状態ではないことは誰の目にも明らかだった。

 瞬間、アキラはすぐさまミユの両肩へと腕を伸ばし、勢いのままにその小さな身体を抱きしめた。

「アキラ、ちゃん? 大丈夫、だから……」

「いいんだって! だってミユはこんな――小さなことにも涙を流せるくらい優しい子じゃないか……」

 感極まったアキラの、叫びにも似た声が響く。

 そして訪れる、ちょっとした沈黙。

「ありがとう、アキラちゃん……」

 それは湖に差し込む朝陽のように、ゆっくりと、穏やかで、自然のやさしさを体現したかのような声だった。

 抱き留める腕を緩め、改めてアキラはミユに向き直る。

 そこに居たのは、わずかに目元に涙を浮かべつつも、爽やかな表情をした、小さくて優しい少女だった。

「ありがとう……私、それでね、どんな小さな物でも大切にしてあげよう、いたわってあげようって、思うようになったの。これが、答え……ごめんね、彼氏とかじゃなくて」

 おどけて笑いを誘おうとするミユ。

 そこへ返ってきたのは、今にも泣きだしてしまいそうな、アキラの震えた声だった。

「ばか……いいんだよ。ミユは、そのままで……」

 改めてミユの身体をやさしく抱き留め、身体を震わせるアキラ。

「アキラちゃん……」

 ミユは困ったような、でもどこか嬉しそうな顔で、それを受け入れる。

 そこには、この世にある一切の干渉を許さない、ミユとアキラ――二人だけの、強くも優しい絆が、確かに存在していた。

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