第18回 劉淵、興る

 漢文大系本、第3巻、86ページ。

 ~西暦304年。


 ◯劉淵興于左国城。淵、故南匈奴之後。匈奴由漢魏以来臣中国、其先世自以漢甥、冒漢姓。父豹為左部帥、生淵。幼而雋異、博習経史。嘗曰、「吾恥随・陸無武、遇高帝而不能建封侯之業、絳・灌無文、遇文帝而不能興庠序之教。豈不惜哉。」於是兼学武事。姿貌魁偉。初為侍子、在洛。豹死。武帝以淵代為左部帥。既而為北部都尉。五部豪傑多帰之。及帝世、以為五部大都督。成都王穎表為左賢王。嘗使将兵在鄴。淵子聡、亦驍勇絶人、博渉経史、善属文、彎弓三百斤。


 ◯劉淵、左国城より興る。淵、もとの南匈奴の後なり。匈奴は漢魏以来中国に臣たりて、其のせん世〻よよ自ら漢のせいたりとおもふにり、漢の姓を冒す。父豹、左部帥と為り、淵を生む。幼くしてけいひろく経史を習う。嘗て曰はく、「吾れ、随・陸に武無く、高帝に遇ひてほうこうの業を建つる能はず、かうくわんに文無く、文帝に遇ひてしやうじよの教へを興す能はざるを恥づ。に惜しまざらんや」と。ここに於いて武事を兼ね学ぶ。姿貌、くわい。初め侍子と為り、洛に在り。豹、死す。武帝、淵を以て代へて左部帥と為す。既にして北部都尉と為る。五部の豪傑、多く之に帰す。帝の世に及び、以て五部大都督と為す。成都王えい、表して左賢王と為す。嘗て将兵をしてげふに在らしむ。淵の子聡、亦たげういう人に絶し、ひろく経史にわたり、善く文をしよくし、弓三百斤をく。


 ◯劉淵は、左国城から国を興した。劉淵は、昔の南匈奴の子孫である。匈奴は、漢・魏よりこのかた、中国に臣として仕え、その先祖が代々みずから漢のせい(姉妹の子)であると言っていたために、漢の姓である「劉」を使っていた(匈奴の娘が漢の皇帝に嫁ぐなどの政略結婚があったので、漢の劉氏とは親戚だということ)。劉淵の父の劉豹は、左部帥となり、劉淵を生んだ。劉淵は幼いときから特別に優秀で、広く儒教の経典や歴史書を学んでいた。かれは、かつてこう言った。「わたしは、随何や陸賈に兵法のたしなみがなく、漢の高祖劉備に出会いながら封侯の業を立てられなかったこと、周勃(原文「絳」。周勃が絳侯に封ぜられたのでいう)や灌嬰に文章のたしなみがなく、文帝に出会いながら国立学校の教育を打ち立てられなかったことを、恥ずかしいことだと思う。どうして惜しまずにいられよう。」そこで、兵法もあわせて学んだ。姿かたちは大柄で立派だった。初めは侍子(人質)となり、洛陽にいた。劉豹が死んだので、武帝は、劉淵を取って代わらせて、左部帥とした。それから北部都尉となった。五部の豪傑は、多くがかれのもとに就いた。恵帝の治世になると、帝はかれを五部大都督とした。成都王の司馬穎は、彼を左賢王とした。かつて、将兵を鄴にとどめた。劉淵の子の劉聡も、また勇敢で人後に落ちず、広く儒教の経典や歴史書を学んで、上手く文を作り、三百斤の強さの弓を引くことができた。

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