第百十一話 『魔獣を御する者』

 黒々とした森が徐々に密度を失い、緑に変わり始めた木々の下――

 数百年の年輪を重ねたと思われる壮年の木の根元で、一人の女性が巨大な老人の顔と獅子の身体を持つ魔獣――マンティコアと対峙していた。

 だが様子がおかしい。

 戦っているわけではないようだ。それどころか、女性がマンティコアを叱責し、マンティコアは頭を下げて反省しているようにも見える。

 女性は片方の肩当てが長く作られた蠱惑的な黒い獣皮の胸当てを身に着け、上等そうな黒マントを羽織り、それに勝るとも劣らぬ艶やかな黒髪を背中の中央付近まで伸ばしている。体つきは華奢で、動きやすそうな革の衣を身に纏っている。眼の前に自然ならざる生き物が現れたら、悲鳴を上げて逃げ出しそうな出で立ちだ。だが彼女は奇妙な生物に対して子供を諭すように叱り始めた。その行動に恐怖は微塵も感じられないが、その眼は感情を宿していなかった。


「駄目じゃないか、人間をいきなり食べては」

「眼ノ前ニ急ニ現レタ。驚イテ噛ミ付イタ」


 叱られたマンティコアは申し訳なさそうに項垂れる。


「デモ、頭ハマダ食ベテナイ」

「ふうん……見せてちょうだい」


 女性が命じると、マンティコアは木の陰から胸像のように千切れた人間の身体を引っ張り出してきた。

 女性は顔色一つ変えずに遺体を転がし、衣服の意匠を確かめ、血飛沫に汚れた顔を覗き込む。


「これは……」


 衣類がウインガルド風で、しかも贅をこらした高級なものであったこと、またその顔がでっぷりとしておおよそ戦闘とはほど遠い肉付きであったこと、それらを総合的に考察し、彼女はある結論に至った。


(イルグネで革命が起こったようだ)


 が、女性は危険な予想はおくびにも出さず、マンティコアの方へ振り向いた。


「これからは許しなく人間を食べてはいけないわ」

「ワカッタ。ゴメンナサイ」


 マンティコアが再度頭を下げる。

 それを見計らって、一人の少女が駆け寄り、片膝をついた。彼女もまた、黒い獣皮の胸当てを装着している。


「トニーダ様、街道からやや離れた地点を友軍が歩いて向かってきます」

「友軍?」


 トニーダと呼ばれた女性は訝しむ。


「数は?」

「およそ二百」

「ほう、これはいよいよ……」

「?」

「恐らくイルグネに駐屯していた連中だろう。出迎えてやれ」

「はっ」


 少女が駆け去ると、トニーダは艶やかな口許を吊り上げた。


「……餌の補充ができそうだ」


 トニーダはマンティコアに死体の残りを食べることを許可する。彼女は知らなかったが、それはカールメ・スピコの死体であった。


 トニーダとマンティコアが森を出て今日の野営地に向かうと、すでにイルグネから追い出されたジオ軍の部隊は整列を終えていた。トニーダの姿を認めた将兵は一斉に姿勢を整える。


「帝国魔獣軍第五兵団のトニーダ将軍だ。君たちの所属は?」


 挨拶もそこそこに問いかけるトニーダ。

 隊長らしき人物が進み出て片膝をついた。


「は。我々はイルグネ共同統治大隊……であった部隊です」


 言いながら隊長は悔しさと恐ろしさのあまり頭が下がっていく。将軍ともなると、皆独特の威圧感を持っている。とりわけ魔獣軍の将軍を前にすると、両の目と額の額冠に埋め込まれた宝石と、まるで三つの目に射竦められているかのような感覚に襲われるのだ。


「このたびはイルグネ防衛の任にありながら、街を奪取され、任務を果たせず申し訳ありません。どうか責任は私の首一つでお納めいただき、兵たちの命は未来の帝国の力としてお許しいただきたくお願い申し上げます」

「ふん」


 平身低頭する体調の姿を見下ろし、トニーダは鼻を鳴らす。が、口元には笑顔を浮かべた。


「よい上司を持った部隊だ。敗北の責任は、我々魔獣軍第五兵団の指揮下に入ることを条件に不問とするが……どうだ?」

「ありがとうございます」

「そして貴公の職務放棄については……イルグネで起こった出来事について覚えている限り話せ。それで不問とする」

「! ……はっ!」


 トニーダは、地に擦り付けるように頭を下げる隊長をどうにか起こすと、将軍用の天幕へと引き連れていった。





 隊長の話は耳を疑うような内容であった。


「つまり貴公は、宿舎がまるごと氷の中に閉じ込められていたので出撃できなかったと、そう言いたいのだな?」

「は……」


 隊長は至極真面目な表情で頷いた。彼は知らなかったが、同時に北の築城橋も氷に閉じ込められている。


「にわかには信じがたいが……いや」


 頭を振るトニーダ。額冠の青玉もまた悩ましげに揺れる。

 大型の建造物にまるごと影響を及ぼす程度の力を持つ精霊使いや魔法使いなど、ジオ軍内には数多く存在する。町を縦貫する回廊を作り上げる者だって両の手で足りない程度には存在する。自軍にできて敵軍に不可能と考えるのは慢心だ。

 トニーダは隊長を見つめた。


「イルグネに駐留するウインガルド軍は五百人弱、その他に強力な……精霊を支配している以上の精霊使いが若干名といったところか。革命を成功させたばかりで士気は高い。対する我が軍は人の頭数こそ少ないが五体の魔獣を擁しており、その戦力は千人の兵団に等しい。さらに貴公らの兵二百を含めれば、兵力でいえば千二百以上はあるということになる。落とせると思うか」

「精霊使いを押さえられるかどうか、といったところかと」

「それほどか……」


 トニーダは腕組みをする。ざっくりと開いた胸元に隊長は釘付けになるが、当の本人は全く気にしていない。

 しばし考えを巡らせていたトニーダは、おもむろに立ち上がった。


「イルグネを再度奪還する。魔獣で門を破壊した後、精霊使いの打倒に三体差し向けよう。一般兵との戦闘に使える魔獣が二体になってしまうが、軟弱なウインガルド軍を打ち破るだけなら問題なかろう。貴公らも汚名を返上するといい」

「はっ」

「明日、出撃する。今日はゆっくり休んでおけ」


 隊長が天幕を辞する。

 トニーダは再度椅子に腰掛けると、明日の戦いに思いを巡らせた。


「久しぶりに蹂躙でなく、思い切り運動させられる戦になるかしら……」


 生き生きと暴れ回る魔獣たちの姿を想像して、トニーダの口元から残虐な笑みがこぼれた。

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