第十八章  三年間の清算

第百十話 『古き者、新しき者』

「はあ……はあ……」


 狭い地下道の石壁に、荒い息遣いと靴音が木霊する。

 カールメ・スピコ伯爵だ。

 彼は、イルグネの地下に掘られた領主専用の隠し通路を歩いていた。配下の騎士や兵士に義勇軍の迎撃を命じた後、館の謁見室から伸びる隠し通路へとひとりで逃げ延びたのだ。

 この通路はイルグネ伯がカールメの代になって造られたものだ。彼の父はジオ帝国と国境を接するイルグネの防備や統治に矜持をもって取り組んでいた。だが息子は、自分が生き長らえること、そして統治者としての利益を貪ることにのみ興味を示した。カールメがイルグネ伯を継ぐと、町の防衛力強化よりも領地の環境整備よりも先に、この隠し通路の建設に着手したのだった。

 この男に妻子はいない。過去にはいたが、妻はカールメの余りの利己主義と病的な保身に貴族の矜持がないと愛想を尽かし、子供もろとも実家に逃げ帰ってしまった。


「糞っ!」


 何度目かわからない蜘蛛の巣が額に絡む。

 外光が差さず灯りもない隠し通路は自分の指先すら見えない。

 一体なん日、この真っ暗な地下をさまよい歩いただろうか。

 視覚が全く使い物にならない場所で長いこと過ごしたために、他の感覚が鋭敏になっていた。埃の臭い、虫の這う音、彼以外の全てが彼をびくつかせる。しかし今、彼は風が頬を撫でたのを感じた。


 出口が近い。


 カールメは駆け出した。途中、二度転んだ。一度は無様に腹ばいになり、もう一度は反射的に伸ばした腕を壁で擦り剥いた。だがそんなことは今の彼にとって些末なことだった。


 行き止まりに辿り着く。

 板材に鉄枠を嵌めた扉の隙間から微かに光が差し込んでいる。

 錆びた錠前に慌てて引っ掴んできた鍵を差し込む。祈るように鍵を回すと、錠前は開いた。


 扉を押す。

 動かない。外から破られないよう、丈夫に作らせすぎたか。

 蹴飛ばす。

 肩からぶつかる。

 背中を扉に押し付け、体重とありったけの足の力で突っ張る。

 少しずつ扉が動き、ようやく頭の直径くらい開いたところで、カールメは身体をねじ込み、外へ転がり出た。


 あとは井戸に偽装したこの縦坑を上るだけだ。吊り下げられた朽ちた縄に体重を掛けるのは危険だ。そんなこともあろうかと、井戸の内壁には両手両足をかける溝を切ってある。縄は身体の平衡を保つことのみに使い、あとは内壁に足を突っ張らせて上っていく。


 ようやく井戸の外に出た。

 周囲は木々に囲まれている。脱出口の出口が容易に見つからぬよう、森の入り口付近に打ち捨てられた古井戸に偽装して造った。

 手は傷だらけ。足は歩き通しで筋肉が震えている。

 森の薄い方を目指し、最後の力を振り絞って歩く。枝の間から差し込む陽光が眩しい。

 周囲は徐々に明るくなり、そして遂に森を抜けた。


 「おお……」


 カールメの口から自然と詠嘆の声が漏れた。

 光が眩しい。

 空気が旨い。

 思わず両腕を広げ、深呼吸をする。


 突然、胸に激痛が走った。

 骨が砕ける音と大量の血液が地面に落ちる音が鼓膜を震わせる。

 急速に意識が遠のく中、彼は渾身の力で振り向き、何が起こったのか確かめようとした。


 カールメの目に最期に映ったのは、彼の横腹の肉と血まみれの衣を咀嚼する、大きく醜い老人の顔だった。





 義勇軍はイルグネ城を占拠すると、続いて氷壁に閉じ込められているジオ駐屯軍に対処すべく、町の東部にある兵舎へと兵力の半数を向かわせた。

 ロベルクたちもまた義勇軍と共に兵舎へと向かっていた。


「さて、どうやって戦ったものやら」


 攻略を任された隊長が氷山の前で腕組みする。確かに前代未聞の状況である。巨大な氷山の中に敵が閉じ込められていて、それを掘り出してから敵と接触するという、普通の将兵であればまず出会わない状況だ。

 ロベルクが進み出る。


「別に戦う必要はないのではないか?」

「降伏勧告か? 今まで我が物顔でやりたい放題していたジオ軍に、例えば身の安全を保証すると言って信じるだろうか」

「では、町から出て行かせるのはどうだ?」

「それこそ大人しく城門から出て行くとは思えない」

「一つ方法があるんだ」


 ロベルクが氷漬けになった兵舎を指さす。


「僕が兵舎から町の外まで氷の壁で回廊を作り、町の人と接触できないようにする。準備ができたら兵舎の氷を消す。それからジオ軍に町から出て行くよう勧告するんだ。ジオに帰りやすいように北の方がいいだろう。途中の川を凍らせて、副市を通さずに町の北西から出すのが手っ取り早い」

「そんな大規模な精霊魔法を……」

「それほど大規模じゃないし、それほど繊細でもないから容易い」


 隊長はしばし唖然としていたが、氷に閉ざされた兵舎とロベルクとを見比べて頷いた。


「それでいこう。宜しく頼む」


 ロベルクは頷くと、早速シャルレグに命じて氷の城壁を作り上げた。半透明の城壁は兵舎を取り囲むと、大通りを中心に北の河岸に向けてそそり立っていく。次いでフィスィアーダが兵舎を覆っている氷の山を消滅させた。

 爆発したかのような勢いで兵舎の扉が開く。そこからジオの将兵が我先にと飛び出してきた。一様に氷の粒が付着した武器を手にしている。内部から氷を削ろうとして藻掻いていたのだ。ジオの将兵は天に太陽があることを確認すると祈るように見上げ、身体を四方に伸ばしてその光と熱とを僅かでも多く浴びようとする。が、数瞬の後に彼らの爽快な表情は凍り付いた。氷が消え去った兵舎の周囲にはさらに氷の城壁が聳え立っていたからだ。

 兵士の一人が城壁の上に立つロベルクたちを見付け、指さして何事か喚いた。その声を聞きつけたジオ軍の視線はロベルクに注がれる。


「ジオ軍の諸君」


 ロベルクの声は風の精霊によって拡大され、兵舎前に響き渡った。

「イルグネの町は傀儡政権が打倒され、新たな政権が立つ。あなたがたには今から、この氷の回廊を通ってイルグネの町から立ち去ってもらう」


 ざわつくジオ軍。それを無視してロベルクは話を続ける。


「大人しく退去するなら、こちらも手出しはしない。町の外には、少ないが一食分の食料も用意する予定でいる……なにぶん、イルグネの町は三年間もどこぞの軍に搾取され続けていたので蓄えが少ない。こちらとしても心苦しいが、命と安全を買ったと思って了承してもらいたい」


 痛烈な皮肉にジオ軍のざわつきが大きくなった。明らかに罵詈雑言で満たされている。

 怒りに駆られたゴブリンと思われる一人のジオ兵が、ロベルクに向かってクロスボウを放った。

 太矢はロベルクの隣に立つセラーナの足元の氷壁に刺さった。軌道が大きく外れていることを予め把握していたセラーナは微動だにしない。

 それを恐怖のために硬直したと勘違いしたジオ兵たちは勢いづき、壁上のロベルクたちを囃し始めた。


「この町は俺たちのもんだ!」

「今ならお前らの命だけで許してやる! 下りてこい!」

「勝手にこんなもの建ててんじゃねえ!」


 罵詈雑言を無感動に聞いていたロベルクだったが、太矢の当たり所が悪かった。


(セラーナを狙ったな)


 やおらクロスボウを射たジオ兵に掌を向け、くっと閉じる。

 次の瞬間、その兵士は一瞬で全身を凍結され、地に落ちた陶器のように砕け散った。

 広場は水を打ったように静まり返った。


「もう一度言う。退、こちらも手出しはしない。あなた方は既に占領軍ではなく、敗残兵だ。せっかく助かった命を無駄にせず、速やかに退去されよ」


 セラーナの危機に対してロベルクは容赦なかった。

 同僚を文字通り消された様子を目の当たりにしたジオの将兵は戦慄した。声を失ったかのように押し黙り、氷の回廊に列をなして町外れへと歩き始めた。

 先ほどのように不穏な動きがないか監視していると、リーシが氷の階段をおっかなびっくり上ってきた。


「ロベルク、よくやってくれた。奴らが素直に退去してくれてよかった。町外れに用意する保存食は二百五十でよかったかい?」

「ああ、ありがとう。あとは素直に国へ帰ってくれるといいんだけど……」

「最悪、北のイルグナッシュに駐屯するジオ軍に合流すると思っていたほうがいいだろうね」

「僕も同感だ」

「食事を平らげた途端に反転攻勢、なんてことは勘弁してほしいね」

「兵はこちらと同数しかいない。そういう暴挙はないと思いたいな」


 ロベルクたちとリーシは、肩を落として町を去るジオ軍の背中を見送った。





 ここにウインガルド人が独立した統治を行う町が生まれた。だがウインガルド人たちは、生まれたばかりの新たなイルグネという嬰児を守り通していかなければならない。

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