第四部

第十六章  奸話仇弟

第百一話 『奸話仇弟(1)』

 西エトラルカ大陸の南西部を占める広大な帝国、ジオ。

 ジオ帝国の首都、ジュマール――


 大陸暦六二四年が始まって三ヶ月、暦は水月みずつきを迎えていた。本来であれば徐々に春の訪れが感じられ、晴天の日々に時折雪がちらつく、きりりと引き締まった気候のはずである。だがジュマール一帯はかれこれ十日近くも陰雨に閉ざされたままだった。

 石組みの窓枠で囲まれた景色はひたすら鉛色に塗り込められ、雨はそこに音もなく縦線を引き続けている。

 ジュマール城の謁見室は昼前だというのに薄暗く、光の霊晶を用いた照明が輝いていた。


 玉座にて尊大に構える口髭の男は、皇帝ゼネモダスⅢ世だ。隆々たる筋骨を包む黒い衣は飾り気こそないが、一見しただけで最高級の生地で作られていることが見て取れた。

 玉座の設置されたところから数段下がって、黒い絨毯の上で謁見している、豪奢な身なりの男は、第一皇子ルーノである。その体躯は、とても親子には見えない細身だ。

 ルーノの背後には二つの影が従っている。一つは引き締まった体躯の戦士。もう一つは性別も怪しいほっそりとした魔導師。二人とも腰近くまで髪を伸ばしている。


「なに用か」


 威厳に溢れたゼネモダスの声。

 ルーノは何とかたじろぎを隠すと、口角を笑みの形に吊り上げた。


「父上におかれましてはますますのご壮健、恐悦至極に存じます」


 息子の形式張った挨拶に父帝は溜息をつく。


「お前のそういうところが実に月並みだ。普通の皇子なのだ。本来であればウインガルド侵攻の名誉と戦功はお前に与えたかったのだが……」


 そこまで言ってゼネモダスは息子の背後に控える二つの影に眼を向けた。


「……お前もなかなかやる。そのような危険な輩を引き連れて余の元に現れて、なんの用だ」

「はい。実は……」


 ルーノは一呼吸置くと、腹に力を込めて発声した。


「父上には玉座からご退場いただきたい」


 沈黙。

 しばしして、ゼネモダスの肩が震えだした。それが体幹を通って口から吐き出される。


「はっはっは!」


 満足げに大笑するゼネモダス。それは久しぶりに長男へ見せた満足の表情であった。


「ようやくジオの皇族らしい面構えになったな! 余もこの玉座を手に入れるために先帝とその取り巻き共を皆殺しにした。その気概がなければ、多くの種族が弱肉強食の元で共存するジオ帝国を束ねることはできん。六人の大将軍が余の元から離れている機を逃さなかった判断も素晴らしい!」


 立ち上がるゼネモダス。その手にはレグリス合金製の鞘に収まった大剣が握られていた。常に手の届く場所に剣がある生活がジオ皇帝の生きる道だ。


「……だが、余が死ぬか、もっと衰えるまで待てなかったものか? お前の最高の武器は『若さ』だろうに」

「日々もたらされる弟の……ヴォルワーグの戦果を聞くにつけ、待つことはできないと判断しました」

「それで後ろに侍るような人外と手を組むことにしたのか?」

「じ……人外⁉」


 ルーノが跳ねるように振り向く。

 畏まりもせず背後に立つ二人は肯定も否定もせず微笑んでいた。

 戦士の方が茶色の長髪を掻き上げながら口を開く。


「皇帝よ、なんじの魂は混沌に――闇の精霊に浸食されている。気付かぬだろうが、魂として危険な状態なのだ。もう少し早く冥界へいざなう筈だったが、やんちゃな弟が汝のことをいたく気に入ってしまってな。刈り遅れてしまった」

「そうそう。放蕩な兄のせいで」


 魔導師の方も釣られるように含み笑いを漏らした。その声色からは男女を判別することはできない。


「どういうことだ!」


 ルーノの怒鳴り声が上擦る。


「お前たちは魔導軍大将軍の兄弟で、皇位を手に入れる手助けをすると……」

「ええ、それは事実ですよ」


 魔導師がおかしくて堪らないように答える。

 その茶番を眺めながら、ゼネモダスが溜息を漏らす。隙なく立っているが、その表情は不肖な息子をおもんぱかる父の顔になっていた。


「自分が使う者の正体に気付かず召し抱えるとは。その者たち、御使みつかいであろう?」

「みっ……!」

「その通り。さすが、あのような者共を従えて正気でいられるだけのことはある」


 あっさりと肯定する、戦士の姿をした御使い。

 その言葉に、ルーノが身震いする。


 御使いとはその名の通り、十柱の精霊神の使いとして生命界において力を行使する下位神である。それが二柱も、しかも同時に自分の背後に存在している。それは自然の摂理として異常なことと言えた。


「その者だけではない。フェル・フォーレン聖騎士団を束ねるフォラントゥーリ府主教兼大将軍だいしょうぐんも御使いだ。他にも混沌に侵された者、常軌を逸した精霊使い、凶暴な魔獣を飼い慣らす者……ジオの皇帝になるということは、それらを束ねる覚悟をもつということだ」

「何と……」


 絶句するルーノ。

 不甲斐ない息子をよそに、ゼネモダスは懐から拳大の紅玉を取り出した。


「それは……」

「『ジュスランの宝珠』。お前も聞いたことがあるだろう。数十年前、余はこの宝珠で城を焼いた」


 言いつつ宝珠を掲げるゼネモダス。


「ルーノ、歴史くらい学んでおろうな! 玉座が欲しくば宝珠の力を超えて来い!」


 言うや否や、宝珠から巻き起こる炎の奔流。

 空間ごと取って代わろうとする破滅の炎は、ゼネモダスの周囲を残して全てを飲み込む。


 巨大な謁見室の扉を跡形もなく灰にし、謁見前の広間や控えの間も石組み以外なにも残さず消し飛ばしたところで、炎は消えた。

 痛みも感じず焼き尽くされたと思っていたルーノは薄く眼を開ける。

 自分の前に魔導師が不可視の盾を発生させて立ちはだかっていた。

 肩から先の右腕が完全に炭化し、崩れ落ちていた。


「魔導師よ……私を庇って?」

「ほほう、流石は『ジュスランの宝珠』。火の王の助力を得て力を込めるとは、大陸浮遊前の逸品は出来が違う」

「せ……戦士の方は?」

「兄ですか? ほら、もう戦っていますよ」


 ルーノが横を向くと、ゼネモダスは大剣で戦士と打ち合っていた。先端が斧状に広がった重厚な大剣を軽々と振り回す父の膂力は人間離れしている。が、それを平然と片手で打ち返す戦士の力も、恐ろしさを取り越して、もはや出来の悪い芝居を見せつけられているかのようだ。


「皇帝よ、よくぞ宝珠の力を過信しなかった!」

「ジオ帝国で息子の補佐をする気なら『命ある者』を侮らないことだ!」

「我らは留守番。補佐するかどうかは弟が決める」


 国の未来について意見をぶつけながらも、一瞬ごとに剣をぶつけ合う二人。

 二人とも、笑っている。戦いを楽しんでいるのだ。


「御使いと剣を交える機会に恵まれるとは。長生きはするものだ」

「剣で魂を刈るわれの斬撃をここまで凌いだことは賞賛に値する」


 突き、払い。

 刃が火花を散らし、力で押し合い、相手の体勢を崩そうと仕掛ける。

 古今東西の剣術を繰り出す御使い。

 それを捌く皇帝もまた、数多の戦士を屠ってきた歴戦の猛者だ。


「汝の剣、騎士とは思えぬ。武器の野蛮さを知り尽くしている。確かに刈るには惜しい」

「殺せるかどうかわからんぞ!」

「……だが汝の剣は王者として扱われすぎたようだ」


 戦士の太刀筋が変化する。今までの風格すら漂う正統派の打ち込みから一変し、剣舞の如き艶やかな動きと変幻自在の斬撃に切り替わった。

 相手の急な変化に、ゼネモダスの猛攻に迷いが生じる。

 凡人は気付きもしない僅かな隙に戦士は剣先を突き込み、ゼネモダスの身に少しずつ傷を刻んでいく。


「ぐっ……」

「……騎士の剣として洗練されすぎているが故に、突き崩すのは容易い」


 戦士の剣はついに皇帝の身を深く捉え、床に血の文様を作った。

 ゼネモダスは数歩下がると膝を屈しかける。が、ぎりぎりで踏みとどまると仁王立ちになって大剣を両手で構え直した。苦痛を噛み殺し、口から笑声を発する。


「ふっ。この興奮、この緊張感……帝位を奪うための冒険以来だ!」


 大剣を振り上げ、型に則った美しい袈裟懸けの体勢。

 だが、手負いの人間の斬撃など御使いである戦士に届くはずもなく――

 戦士は音もなく踏み込むと、ゼネモダスの心臓を貫いた。

 数十年君臨した皇帝の身体が、徐々にかしいでいく。


「お……面白き……人生で……あった!」


 それはまるで天に伸びきった大樹が地に還るかのように――

 ゼネモダスの隆々たる巨躯はゆっくりと倒れた。


「ああ……」


 ルーノが溜息を漏らす。


「私はただ、父上を追放しろと……」

「なにを言うのです、『新たな皇帝』よ」


 魔導師は純粋な疑問の色を浮かべて首を傾げた。


「ちゃんと追放したではありませんか……生命界から」

「ああ……」


 王と呼ばれたルーノは再度呆然と溜息を吐いた。

 戦士が、青い顔をしたルーノを促す。


「ぼうっとしている暇はない。汝は新たな皇帝として、ジオを守護する黒竜の所へ即位の挨拶に行かねばならぬのであろう?」

「そうだ……」


 ルーノの瞳から親殺しの罪悪感が消え、闇に曇る。簒奪者は己に言い聞かせるように口を開いた。


「私皇帝の座を受け継いだ。私には進む道しかない!」

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