第七十九話 『巨大なものと、さらに巨大なもの』

「暴れるな! 落ちるのが速くなるぞ!」


 叫ぶロベルク。

 しかし男は半狂乱の状態で藻掻き、それによってずるずるを砂のすり鉢を滑り落ちていく。

 巨大蟻地獄は獲物の震動を感じ取り、男に砂をかけ始めた。

 ロベルクは舌打ちすると、自身が使役する精霊――氷の王シャルレグを召喚した。

 熱気の中を冷風が吹き抜け、空中に氷のドラゴンが姿を現す。


「氷の銛を底に打ち込め!」


 命令と共に虚空に透明な物体が形作られる。それは銛と言うより枝打ちされた高木のような大きさだった。

 巨大蟻地獄の大鎌のような顎が男の腰を捉えようとした瞬間、二本の氷の銛がすり鉢状の巣の底に突き刺さる。

 巨大蟻地獄は大木が裂けるような音を立てて顎を開き、動きを止めた。

 すり鉢状の巣は崩れ始め、後には腰程まで砂に埋まった男が呆然として残された。


「上ってこい」


 ロベルクはすり鉢の中に氷の階段を作り出し、男に呼びかけた。

 男が憮然として段に手を掛ける。

 砂丘に立つロベルクの横にフィスィアーダが寄ってきた。彼女はすり鉢の底で溶けかけた二本の氷の銛を指さした。


われの方が早く刺したよ」

「そんな勝負だったのか⁉」


 眼を丸くするロベルクに、フィスィアーダはふふんと胸を張った。

 それを見てセラーナが目を見張る。


「フィスィアーダ、何なの⁉ 可愛いわ! 許せないくらい可愛い!」

「可愛、い……?」

「ロベルク、わかってない! ああいうのが可愛いの! ああもう!」

「どうした? セラーナも……可愛いよ」

「あ、ありがと……いや、そうじゃなくて!」


 わいわい騒ぐ三人。

 そこに、ようやく氷の階段を上り終えた護衛の男がやってくる。


「助かってよかったな」


 砂まみれの男は、ロベルクに声を掛けられると、歩み寄ってきた。礼を言うかと思いきや、男はロベルクの眼前に斜め下から迫った。


「あの程度の怪物、俺だって余裕で倒せんだよ。余計なことしやがって、小便しそびれただろうが。そんなに女にいいところを見せたいかよ!」


 掴みかからんばかりの男に、セラーナが気色ばむ。


「な……あんた、助けてもらっといてそういうこと言うわけ⁉」

「やめよう、セラーナ」


 ロベルクがセラーナを宥め、踵を返す。


「悪かったな。ゆっくり鳥を捕ってくれ」


 三人は男を置いて隊商の元へ戻った。

 セラーナが小声で怒りを露わにする。


「何なのあいつ! ロベルクも言わせっぱなしにするの⁉」

「僕も腹が立たなかったわけではないんだ。でも、今は砂漠の旅の途中だし……それに、無力で他人の力に頼らないと生きていけない奴の気持ちもわかるんだ」

「むう……」


 セラーナがむくれて押し黙る。

 隊商は巨大蟻地獄騒ぎを機会に小休止に入っていた。

 商人たちが棒を取り出し、簡易的な天幕を設営すべく動いている。

 ロベルクは一息つこうと設営を手伝いかけ、その手を止めた。


「地震?」


 セラーナも砂地から伝わる振動を感じ取って周囲を警戒する。

 耳聡い商人が呟きを聞きつけ、顔面にうっすらと恐怖を滲ませた。


「いや、大地の精霊の仕業ではないよ」


 フィスィアーダは周囲の気配を察知しようと気を張り詰める。


「さっきの奴は……」


 大丈夫か、と言いかけたロベルクの言葉は、またしても先程の男の叫び声でかき消された。


「砂環竜だ~!」


 先程の虚勢を吹き消されたような叫び。

 再度、砂山を駆け上るロベルクたち。

 砂丘の向こうに男の姿はなかった。

 代わりにそびえるのは、頂点に無数の触手を蠢かせた肉の塔。その体躯たるや、陸上に露出している部分だけでもママドゥイユの城壁に匹敵する高さを持っていた。


「っ……!」


 セラーナが、うねる触手を見て悲鳴を飲み込む。


「下がって」


 ロベルクはすかさずセラーナを後方に下げると、霊剣を抜き放った。

 横にはセラーナを庇うように大剣を構えるフィスィアーダ。

 背後で隊商の面々が恐慌をきたしている。


「終わりだ! おしまいだ!」

「俺たちはここで死ぬのか!」

「死なない! そこを動かないで!」


 ロベルクは聞こえているか怪しい隊商へ叫ぶと、シャルレグに命じて周囲の砂地を凍結させる。一瞬で隊商の足元は分厚い氷床へと変貌した。これで地底からの攻撃を遮ることができる。

 砂環竜は暫く天を仰いで触手を揺らしていたが、ロベルクの周囲で発生している強力な精霊力を感知して首を曲げ、見下ろしてきた。眼はなく、洞穴のような口と無数の触手が強欲そうに蠢いている。


「ロベルク、さっきの男は恐らく……」

「わかっている。存分にやるさ!」


 フィスィアーダの呼びかけに、ロベルクは霊剣を握りしめた。翠緑色の瞳が冷たく輝き、シャルレグの身体がひときわ強烈な冷気を拡散する。

 隊商は恐怖と低温のために、歯も噛み合わぬほど震えていた。

 ロベルクはそれを後目に、さらに精霊力を高めていく。


「冬へ、極地へ、高山へ……酷寒の結界で世界を包め!」


 ロベルクの呼びかけにシャルレグが声なき叫びを上げる。

 砂漠は刹那の間に雪原へと姿を変え、大気中の霧が凍結して光の粒のように舞った。

 砂環竜はそそり立ったまま緩慢に揺れ、その触手はねじれたまま醜い石像のように固まった。


「ふっ」


 ロベルクが口角を吊り上げると、横のフィスィアーダが一歩前へ出た。


「今度はわれがやる」


 そのまま指先を天へ向け、呟く。


氷柱つららの雨」


 硝子を擦るような音を響かせながら空中に現れたものは、林立した氷柱といった生易しいものではなく、地に向けて幹を伸ばす氷の密林だった。

 フィスィアーダが、撫でるように指を振り下ろす。

 次の瞬間、耳をつんざく風切り音と共に氷の大木が地に降り注ぎ、動きを止めた砂環竜をバラバラに砕いた。

 ジャリジャリと崩れる凍った肉片。固まっているので、体液などの臭いは発しない。

 不自然なほど綺麗な細切れ死体を前に、隊商の一同は唖然として砂環竜だったものを見守っていた。


 最初に我に返ったのは、隊商の雰囲気をよくするために立ち回っていた商人だった。彼は駱駝から下りると、拍手をしながらロベルクの方へ歩み寄ってきた。


「いやあ、素晴らしい威力の精霊魔法ですね。神話の時代の魔法だと言っても誰も疑わないでしょう」

「ありがとう。でも、犠牲者を一人出してしまった」

「砂漠の商人は皆、砂環竜に襲われたら全滅を覚悟するものです。むしろ彼は軽率でした」


 ロベルクは、商人にしては損得に頓着しなさそうな男の容貌に興味を覚えた。


「あなたは?」

「私はキアラシュ。商いもしますが、ここから北に一日ほど行ったフルシャマルという街で族長の補佐をしております」


 キアラシュと名乗った商人は上品に一礼した。


「ロベルクさんたちには命を救っていただいた礼をしたいのですが、ご足労いただくわけにはいきませんか?」

「街道から、一日ずれるか……」


 ロベルクが指南していると、西進するはずだった別の商人たちが近付いてきた。


「これも何かの縁だ。俺たちもフルシャマルに立ち寄ろうじゃないか」

「そうだな。それに、ロベルクたちに護衛してもらった方が安全に砂漠を越えられそうだし……」


 あれよあれよという間に、隊商はまるごとフルシャマルを経由することに決まってしまった。

 生き残った喜びに浮かれている商人を眺めながら、ロベルクたちは肩を竦めて視線を交わし合った、


「じゃあ僕達も寄るとしよう」

「決まりね」


 こうしてロベルクたちは、砂環竜の死骸と巨大蟻地獄の巣を避けて、フルシャマルへと進路をとることとなった。

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