第七十六話 『凪へ』

 ロベルクは床に無造作に置かれた霊晶に眼を落とした。


「それを……海に投げ込め」


 ノルビットがよろよろと近づき、霊晶を眼で示す。


「わかった」


 ロベルクはシャルレグに命じて霊晶に付着した体液を凍結させる。凍った残滓を払い落とすと、青く輝く宝玉を捧げ持った。

 広間のバルコニーは外洋に面していた。

 海は猛り狂い、神殿へ手を伸ばすように波濤を叩きつけてくる。

 ロベルクはバルコニーに立ち、霊晶を高く掲げた。海風を大きく吸い、叫ぶ。


「水神アレイルよ、浅海を司る御使いミルスよ、受け取りたまえ!」


 ロベルクは霊晶を慎重に右手で掲げ、左手を添えると霊晶を海に向かって投げる。霊晶は放物線を描いて海に向かって飛んだ。

 海面から一際高い波が立ち上がる。それはまるでドレスを纏った女性のような姿を形作り、霊晶を両手で包み込むように受け止めた。


「私の子供達……」


 ロベルクの耳には、波音に混じって包容力のある女性の声が聞こたような気がした。

 牙のように刺々しかった海面が、徐々に落ち着きを取り戻していく。


「水の精霊力が、穏やかになっていく……」

「霊晶が……届いたのだ」


 ロベルクとノルビットが疲れた微笑みを交わす。

 そのままロベルクは広間の入口近くの壁沿いに向かう。


「セラーナ……」


 呼びかけると、両手で顔を覆っていたセラーナが弾かれたようにロベルクの胸に飛び込んでくる。


「終わった? 終わった? 終わった?」

「ああ。奴は倒した」


 ロベルクは片手でセラーナの肩を包み、反対の手で夜空のような黒髪を撫でる。

 セラーナの呼吸が緩やかになっていく。同時に胸の中で嗚咽が漏れた。


「ごめん。ごめんね……」

「いいんだよ……」


 ロベルクはセラーナの小柄な身を抱きしめる。


「君がいてくれるから僕は強くなれるんだ。君が無事でよかった。君がいてくれて……よかった」


 波音だけが響く神殿で、二人は暫し互いをきつく抱き締め合った。

 暫くして。

 咳払いの声が控えめに鳴った。

 二人は我に返り、ノルビットが優しく微笑んでいるのに気づくと、頬を赤らめて身を離した。


「……その姿こそ、御使いイシュアーがよみするものだ」


 ノルビットの言葉に、ロベルクとセラーナは視線を絡め合い、はにかみの滲んだ微笑みを浮かべた。


「……戻ろうか」


 ロベルクはセラーナの手を取ると、ノルビットに戦いの終了を宣言した。





 一方、副伯邸。

 庭には、倒れ伏した兵士達が白い砂の上に斑模様を描いていた。

 立っているのは五人。

 ジェンタイことシャンリン・チェン、その護衛クイント、敵兵の新月刀を奪って予想外の活躍を見せたイハルと、ひらりひらりと逃げ回った妹のリンノ。

 それと相対するは護衛をしていた小柄な戦士だ。

 暗金色の髪を肩の上でざっくりと切り、青い瞳で油断なくシャンリンとクイントの動きを窺っている。朱色の胸当てを身に着け、手に握るのは身長の三分の二程もある長剣だ。


「でぇい!」


 戦士が打ち込みを掛けてくる。

 速い。

 軽業師のような速さと細剣のような軽やかで長剣を振るう戦士。

 シャンリンとて剣術に関しては達人の域だ。相手の剣を受け止めるくらいのことはできる。

 だが、


「うおっ⁉」


 打ち込まれた斬撃の重さに、受け止めたまま身の丈程も後方に押される。

 シャンリンは眉尻を吊り上げながらも相手の剣を打ち払い、間合いを取る。


「俺の刀が聖剣ファンホーシェンでなければ腕まで砕かれていたところだ……」


 人間を一人浮き上がらせるような一撃を受けて刃こぼれ一つしない聖剣を眺めたシャンリンだったが、遅れて漂った香りに訝しむ。


「……君、女性だね?」

「そうだ」


 戦士は気に障る風でもなく頷く。


「隠していたつもりはなかったが……見くびるのか?」

「いや、性別が見くびる要素にならないことは熟知しているよ」


 シャンリンは注意深く新月刀を構えながら隙を窺う。

 当然、相手もこちらの出方を窺っているだろう。双方が迂闊に動けないのは、打ち込む隙がないからだ。

 シャンリンはさらに呼びかける。


「相当の使い手だね」

「褒められても、痛み少なく斬ってやることくらいしかできん」

「そんな使い手が、何故ウモンの如き小者に仕えているんだい?」

「!」


 そこで初めて、戦士の剣先に僅かな動揺が生まれた。


「それは……」


 シャンリンは待った。

 相手の油断を待ったのではない。動揺してなお斬り込む隙を見せない相手を前に、待つしかなかったのだ。


(やれやれ。世の中には俺並みの『一騎当千』はゴロゴロいるってことか)


 戦士が再度口を開いた。


「それは……領主は一日六回の食事をくれるからだ!」


 沈黙。

 二つの剣の結界が、接触する直前の距離で対峙する。

 シャンリンは注意深く間合いを測りながら提案する。


「では俺は……いや、シージィ帝室は、一日七回の食事を提供しよう。それと、上級騎士専属の剣術師範の地位。おまけに、俺に断ってくれれば自由に旅立っていい。どうだ?」

「……十回」


 戦士がぼそりと呟いた。


「八回と帝室用のおやつではどうだ?」

「乗った」


 双方が呼吸を合わせて殺気を収める。

 シャンリンが張り詰めていた息を吐く。


「これにて一件落着、かな」


 シャンリンは、部下のクイントと、ウモンの護衛をしていた戦士という奇妙な取り合わせで、屋敷を後にすることとなった。

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