第七十五話 『神降ろしの祈り』

「さあ、ご降臨ください。愛の御使い、イシュアー!」


 ザンモが呼びかける。

 彼の身に纏わりついていた水煙が、身体に吸収されていく。

 水神アレイルの従属神、御使いイシュアーをその身に降ろしたザンモ。周囲の水の精霊力が膨大な威圧感を放ち始めた。


「な……何て……力だ」


 ノルビットが上擦った声を絞り出す。

 ロベルクも、霊剣を握る手に汗が滲むのを感じていた。日頃から氷の御使いと旅を共にし、死の御使いと戦った彼をしてさえ、魂を削り取らんとする威圧感は慣れるものではなかった。


「うひょぉう!」


 ザンモの周囲に、十個もの水の球体が発生した。その一つ一つが、先程ノルビットが放った水弾を上回る精霊力を内包している。


「喰らいなさぁい!」


 水弾が次々と撃ち出される。


「っ! シャルレグ!」


 ロベルクは、回避した水弾が石畳を砕くのを眼にし、空中に待機させていた氷の王を呼ぶ。

 シャルレグが、ロベルクを狙った水弾のうち三つを凍気の息で凍結させて撃ち落とす。次いでもう一つを噛み砕いた。

 ふと横を見ると、ノルビットが三叉槍を振り下ろして水弾を叩き落としているところだった。

 さらに一つを石突きで砕く。

 が、水飛沫に視界を遮られたところに三つ目、四つ目と水弾が命中し、ノルビットはその身の五倍程も後方に跳ね飛ばされた。


「があっ!」

「ノルビット!」


 ボロ布のように転がるノルビットを見下ろし、ザンモはおぞましい笑いを浮かべた。


「皆殺しでぇす!」


 ザンモが最後の水弾に標的を指し示す。

 指の先にあるのは――セラーナだ。

 視認したロベルクは、思考するより早く身体が動いた。


「やらせないっ!」


 セラーナの蹲る前に立ちはだかる。

 一閃する霊剣。

 激情に反応した氷の精霊力は水弾を一瞬で凍結させ、ロベルクの左右後方へ金剛石の欠片のように散らばる。

 それでも変換しきれない水が、全身にぶちまけられる。

 さらに捌ききれない衝撃がロベルクを弾き飛ばし、セラーナの前へと打ちつけた。


「ぐっ……」


 霊剣を杖に立ち上がるロベルク。


「ロベルク……」


 両手で顔を覆ったまま、震える声で大切な人の名を呼ぶセラーナ。


「大丈夫だ。そこにいて」


 ロベルクはセラーナを庇うように仁王立ちになると、ずぶ濡れの衣に左の指先を向け、それをゆっくりと天へと持ち上げる。すると、衣に染み込んでいた水が繊維からすっと抜け、空中で凝結すると彼の周りにぱらぱらと小さな音を立てて落ちた。

 霊剣を構える。


「……もう二度と、大切な人を失わない。失うわけにはいかない!」


 剣先に精霊力を集中させる。

 空気が青く液化し、霧が巻き起こった。


「あの醜い心の器を凍てつかせ……砕け!」


 シャルレグが口を開き、青い奔流を吐き出す。それは狙い過たずザンモを捉え、その身体をみるみる凍結させていく。

 ザンモは声すら上げる暇もなく、氷の彫像に変わっていった。そこに大気中の水分が張りついていき、樹氷のような物体が形作られていく。

 おぞましい氷像を苦々しく見守っていたロベルクだったが、やおら霊剣を振り上げる。


「氷像になっても立ちはだかるか……未練がましい」


 そして、霊剣を握る柄に力を込め――跳び退る。

 直後、氷像が爆ぜた。

 中から、全身を黒く凍結されたザンモが姿を現した。


「くふう……イシュアーの力がなければ危なかった」


 ザンモは全身を震わせると、黒い凍傷が徐々に引いていった。自身の再生能力を満足そうに眺めるザンモ。


「だが、御使いの力はこんなものではないはず……イシュアーよ、吾輩にさらなる力を与えたまえ!」


 ザンモの周囲に、さらに水煙が立ち込める。

 と、急に彼は腹部を押さえ始めた。口からは呻き声が漏れる。


「ぐおお……何故でございます、イシュアー様!」


 十本の触手で必死に上半身を支え、身体をくの字に曲げるザンモ。その震えるようにうねる触手の間から、ごとりという音と共に水の霊晶が転がり出た。


「わ……吾輩の……霊晶……」


 ザンモが呻く。

 その声を遮るように、艶っぽい女性の声が漏れ出てきた。


「水の使徒よ……汝が我に捧げたのは愛ではない……」

「そ……そんな、イシュアー様……うげぇ!」


 ザンモの声帯を無理矢理奪い、水の御使いイシュアーは己の声を発した。


「獣欲のままに男女の身体を弄ぶことを、愛とは呼ばぬ」

「うがが……」


 よろめくザンモ。

 その様子を見ていたノルビットが立ち上がり、叫ぶ。


「ロベルク、水の霊晶を奪え! そして海に投げ込むのだ!」

「よし!」


 ロベルクが霊剣を構え、一気にザンモとの距離を詰める。


「ざぜるがぁ!」


 ザンモが呻くと、身体を支える以外の触手を全てロベルクに突き込む。

 ロベルクはそれを紙一重で交わし、あるものは斬り落とし、肉薄する。一本が二の腕を掠り、触手の先が薄赤色に染まる。


「くっ!」

「次はど真ん中に刺します!」


 触手を振りかざすザンモ。


「喰らいなさい!」

「氷の盾!」


 ザンモが触手を震うのと、ロベルクの眼前に透明な氷の壁がそそり立つのはほぼ同時だった。

 氷の盾を突き通した触手がロベルクの眉間の直前で食い止められる。

 同時にロベルクは体勢を限界まで低く落とす。


「せぇぇやぁぁっ!」


 そして盾を回り込み、床すれすれの所から身体の発条ばねのみで切っ先を突き出す。

 切っ先は烏賊の下半身と人間の上半身の丁度境目に突き刺さった。


「ぐぶっ!」

「吹雪よ……爆裂せよ!」


 霊剣の切っ先が藍色に輝く。

 くぐもった破裂音と共にザンモの身が引き千切られる。下半身は数歩先に、上半身はさらに数歩先に転がった。


「…………」


 暫く攻撃の態勢を解かずに待つロベルク。ザンモが起き上がってこないのを確かめると、ようやく霊剣を鞘に納めた。


 副伯と結託し、水の精霊を搾取し、愛情と欲望を履き違えた傲慢な聖職者は、その所業に相応しく醜い肉片となり果てた。

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