第七十四話 『変異する命』

 階段を上りきる。


二階の通路はひっそりと静まり返っていた。

 三人は押し黙ったまま通路を進む。ロベルクとノルビットは膨れ上がっていく水の精霊力をひしひしと感じていたからであるが、精霊使いでないセラーナでさえも、空気中にひしめく水気に異様さを感じていた。


(近い……この先だ)


 曲がり角の手前で立ち止まる。

 セラーナが進み出ると曲がり角に張りつき、懐から小さな手鏡を取り出して先を窺う。と、即座に手鏡をしまって振り向いた。


「いたわ」


 曲がり角の先は扉のない広間になっていて、今しがたウモンが辿り着いたところのようだ。

 途中の廊下に仕掛けの類はないと見ていいだろう。

 ウモンの他には、頭の禿げ上がった司祭衣の男がいる。


 ロベルク達は頷き合うと、広間へと駆け込んだ。

 ひっ、とウモンが喉を鳴らす。そのまま尻餅をついた。


「こ、こいつらだ! こいつらが私の屋敷に侵入して、今までの事業を全て潰しおったのだ!」


 恐慌を来しているウモンに、司祭衣の男は慈愛に満ちた顔で微笑みかけた。


「成程、それで副伯様は吾輩の水上神殿へ狼藉者を従えてお逃げになったと」

「そうだ。捕獲した精霊の均衡と、いざという時の避難先……その為に今まで莫大な喜捨をしてきたのだ! さあ、私を守ってこの狼藉者を消せ!」

「では、吾輩がお助けいたしましょう」

「おお、ザンモ。頼むぞ」


 ウモンが両手を両手を差し出す。

 司祭衣の男――ザンモはそれを握り返すこともせず、ウモンが持つ霊晶を見下ろしていた。


「ですが、どうやら相手は強大。吾輩の力を高める為にもの喜捨……その巨大な水の霊晶をお納め願えますかな」

「な……何⁉」


 肩を震わせ、僅かに後退るウモン。


「こ……これは私の……栄光の証……」

「ふむ」


 しどろもどろなウモンの反応に、ザンモは痺れを切らす。


「全く、じれったいですな」


 ザンモは司祭衣をたくし上げた。水を吸った丸太のような二本の脚が露わになる。羞恥の情もなく股まで露出させると、そこにあったのは生殖器ではなく、人の頭程もある黒い嘴状の顎板だった。


「いただきますぞ」


 言うや、ザンモは股の顎板を見せつけたままウモンの霊晶に両脚で飛びついた。顎板が口を開き、霊晶を一飲みにする。


「ぐああっ!」


 ウモンが跳ねるように跳び退き、左腕を庇う。床には鮮血が小さな斑模様を描いている。

 ザンモはウモンの左手ごと、霊晶を囓り取っていた。


「うふふふふ。水の霊晶、確かに受け取りました。これは……滾りますなぁ!」


 呻くウモンを見下ろしていたザンモだったが、徐々にその身が膨れ上がり始めた。

 眼球が隆起する。捲れ上がっていた鼻は低く潰れていく。脂ぎっていた赤銅色の肌はざらつき、薄灰色に染まっていく。顎と両頬がぶよぶよと膨らんでは弛み、垂れ下がる。そして腰回りが蠢き、顎板の周りに烏賊のような触手が生えた。それはザンモの頭を見上げるような高さにまで持ち上げると、ぴしりと床を打った。


「きっ……!」


 セラーナの口から抑えきれなかった悲鳴が漏れる。

 ザンモは、自身のおぞましい身体を満足げに見回すと、含み笑いを漏らした。


「素晴らしい。これも数多の美男美女をご招待し、愛を与えてきた成果か……愛を司る水神アレイル様も吾輩を祝福してくださっているようだ!」

「招待……愛……」


 ロベルクが嫌悪感に眉を顰める。見れば、ノルビットも同じ感情に襲われているようだった。


「まさか、あれだけの数の男女を犯し尽くしたというのか……」

「犯す? なんと罰当たりな」


 ザンモがぴちゃぴちゃという音を立てて笑う。


「地位も、理性も、何もかも忘れて享楽に浸る。それを与えることが愛でなくて何であろう!」


 ザンモは口と顎板で同時に笑いながら、うずくまるウモンの元へ躙り寄る。


「この滾りはたまらん! 領主様、あなたの生命の精霊もいただきますぞ!」

「なん……」


 言葉が終わる前に、触手の何本かがウモンの身を絡め取る。

 彼の身は薄灰色の触手の中へと引きずり込まれていき、見えなくなった。

 螺旋状に蠢く触手の中で、何かが砕ける咀嚼音が聞こえる。

 触手のうねりが止まり、再び脚のように二股に開いた時、ウモンの姿はすでになかった。

 足元の血溜まりだけが、彼の末路を物語っていた。


「ううむ、霊晶程の感動はありませんねぇ。ですが、かなり力が湧きました」


 試しとばかりにザンモは直立のまま三本の触手をしならせ、ロベルク達に振り下ろした。

 熟練の鞭捌きのような触手をロベルクとノルビットはすんでのところで回避する。

 無論、最も素早さと身のこなしに秀でたセラーナは何の問題もなく余裕で回避する

――そのはずだった。


 ぬめる触手に眼を見開いていたセラーナは行動が一瞬遅れた。

 左足首に薄灰色の触手が巻きつく。

 慌てて振り払おうとするが、吸盤を持つ触手はぬらついていながらがっちりとセラーナの足首に纏わりつき、彼女を引き摺り倒す。


「ぃぃぃいいいやああああああぁぁぁっっっ!」


 金属を磨り潰すような悲鳴が広間に響き渡る。

 いつものセラーナではない。困難があれば迅速かつ冷静に対処する筈の彼女が、脚を引き摺られるがままに両手で顔を隠し、頭を振り立てている。


「嫌、嫌、嫌ぁぁぁっ!」

「セラーナっ!」


 ロベルクは振り向くと同時に反応した。

 抜剣。

 斬撃。

 反対の手でセラーナの腕を掴み離脱する。

 牽制をノルビットに任せ、ザンモから十分な距離を取ると、力の抜けきったセラーナの足首から触手の切れ端を毟り取り、投げ捨てる。


「どうした⁉ しっかりしろ!」

「ロ……ロベルク。ごめ……あたし、ああいう、の……駄目なの……」

「わかった」


 ロベルクは震えて嗚咽まで漏らしているセラーナの手を引いて壁際まで後退すると、寄りかからせる。


「ここにいて」

「ありがと……」


 セラーナの言葉に頷くと、ロベルクはノルビットの元に戻る。抜き身の霊剣は凍気を放ち、空中には氷の王シャルレグが現れる。


「うふふ。別れは済みましたか?」


 ザンモはにやつきながら触手の斬り口をしごく。気合いを入れて握ると、おぞましい水音を立てて触手が再生した。


「さて、あなたがたの精霊もいただくとしましょう。まずは心を蝕んで闇の精霊をいただき、しかる後に命の精霊をいただきましょう」

「いただくだと?」


 ロベルクの放つ凍気がもやを纏って渦巻く。


「セラーナに薄汚い触手を巻きつけたな……全て斬り落としてやるから覚悟しろ」


 ロベルクの動きが緩やかになっていく。

 凍気と殺気が霊剣の切っ先に集中していく。『月の剣』の構えだ。

 一方でザンモは、いよいよ触手を激しく蠢かせて昂ぶっていた。


「おお、活きのよい心を持っておる。吾輩がいただくに相応しいぞ!」


 ザンモは両手を組み合わせ、祈りの言葉を紡ぎ始める。

 その響きを聞いたノルビットが叫ぶ。


「『激流の祈り』だ! 命あるものに使えば、身体の巡りを高めて再生能力を高める!」

「ほう……物知りですねぇ。それだけではありません!」


 ザンモは嘲笑しながら触手を振り上げた。


「身体能力も、かなり向上していますよぉ!」


 ザンモが触手を繰り出す。セラーナを襲った時よりも更に速さを増して二人に襲いかかる。


「ちっ!」


 跳び退るロベルクとノルビット。直前まで二人が立っていた石造りの床に触手が突き刺さり、破片を撒き散らした。


「ふん!」


 体勢を崩されながらも三叉槍を突き出すノルビット。だが紙一重の差で触手に逃げられた。


「やりますね。吾輩も一本の脚で相手をしている場合ではなさそうだ」


 ザンモは四本の脚で床に踏ん張ると、残りの触手をもたげた。ロベルクに三本、ノルビットに三本の触手が狙いを定める。


「どうですっ!」


 突き出す。打ちつける。弾き上げる。触手が全く異なった軌道をとって、唸りを上げながら飛んできた。


「ふっ」


 短く息を吐くロベルク。三本の触手を紙一重で見切る。

 霊剣が小さく、鋭く舞い、全ての触手を横に斬り落とす――のではなく、縦に斬り裂いた。回避から反撃への淀みなき動き。『月の剣』の真骨頂だ。

 同時に攻撃を受けたノルビットも体術と槍捌きをもって触手を回避する。突き出された触手に合わせて三叉槍を突き返して刺し貫いたのは流石といったところか。


「ぐぎょぉぉぉっ!」


 触手を引き攣らせて悲鳴を上げるザンモ。


「おぉぉぉ……なんて、冗談です」


 ザンモはにやりと笑うと、触手を掲げ、ふらつかせた。すると、見る間に傷が塞がり、もとの触手に戻った。


「吾輩はアレイル様の加護を受けているのですよぉ!」


 ザンモはさらに苛烈に触手を振り回す。触手の唸りは六つの不協和音となって二人に打ちかかる。

 代わる代わる襲ってくる触手はまるで一度に三人の敵を相手にしているかのようだった。


「面倒だ……なっ!」


 ロベルクは触手を柔らかな身のこなしでかわすと、同時に霊剣を振るう。が、今度は触手を斬るだけでは終わらず、斬り口を凍りつかせた。


「ぐっ!」


 呻き声が漏れる。

 だが、声は一つではない。

 ロベルクが横目に窺うと、ノルビットが触手の一本を避け損ねて弾き飛ばされているところだった。


「串刺しでぇす!」


 まだ凍っていない触手がノルビットに殺到する。

 ノルビットは三叉槍を杖にして何とか身を起こしている最中だ。彼は迫る触手に眼を見開き――


「水撃!」


 ――水の精霊を召喚すると、爆発的な威力の水弾を放った。

 伸ばしすぎた触手が弾き返され、絡まりながら床に転がるザンモ。


「ごはっ! う……海妖精風情が、このザンモ主教に楯突くとは!」


 ノルビットは苦悶の声を上げるザンモを眼にして鼻を鳴らした。


「神殿内で水の精霊力が高まっているのは、お前だけではないぞ!」


 弾丸を放った水の精霊を空中に浮かべながら三叉槍を構えるノルビット。多少胸元を庇っているが、まだ戦えそうだ。

 ザンモは藻掻くようにして起き上がると、氷柱と化した触手を重たげに持ち上げる。そして床にたたきつけた。


「ぎゃっ!」


 凍結した触手が砕け散り、苦痛に顔を顰めるザンモ。

 だが、直後には爛れた破砕面が泡立ち始める。次いで吐瀉するような音を立てて薄灰色の触手が再生した。


「!」


 ロベルクが霊剣を構え直す。

 それをおののきと捉えたザンモは高笑いを上げた。


「くははは! この麗しい再生能力! 恐怖の余り声も出ませんか!」

「……いや」


 ロベルクは汚物でも見たかのような不快な声を漏らした。彼の脳裏には、半年程前に戦った不死身の草原妖精の姿が浮かんでた。


「そういうのを見るのは二度目だ。何度見ても反吐が出るような醜い眺めだ、と思ってな」

「言ってくれますね……」


 ザンモが薄笑いを浮かべながら、印を解く。


「ですが、吾輩もそろそろ戦いに飽きてきたところです。これから吾輩の愛で街中の皆さんを包んで差し上げねがなりませんので」


 そのままザンモは、別な形に指を組み合わせ、祈りの言葉を紡ぎ始めた。


「こ……これは!」


 ノルビットは張り詰めた叫びを上げた。


「どうした、ノルビット?」

「これは『神降ろしの祈り』! 自分の身体に神を召喚する気だ!」


 ノルビットの声に呼応するように、ザンモの身体が水煙に包まれた。

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