第七十三話 『裏側の腐臭』

 水上神殿は参拝者用の礼拝室と聖職者用の礼拝室を別に備えた大型の施設だ。


 開けっ放しにされた両開きの扉を抜けると、すぐに参拝者用の礼拝室が広がっていた。

 波模様の石柱が並ぶ礼拝室の中は掃除や手入れは行き届いているが、昼前だというのに薄暗い。

 潮の匂いがする空気に混じって、すえた悪臭が漂っていた。

 八角形の礼拝室に人の気配はない。石橋の崩落前に神殿にやって来て取り残された者はいないようだ。


 セラーナは床に目を凝らした。


「濡れた足跡……あと、雫が落ちた跡があるわ」

「……確かに」


 濡れた足跡は途中で乾いてしまっているが、それは右手前の扉に向かって進んでいた。余程急いでいたのか、扉が開け放たれている。


「行こう」


 ロベルクが宣言する。

 セラーナが音もなく扉に駆け寄り、中の様子を窺う。

 彼女が頷いたのを確認して、一行は扉の中に進入する。

 そこは歪な形の小部屋になっていて、水神アレイルにまつわる神話を描いたタペストリーが掛けられていた。

 奥には廊下に繋がる扉があり、やはり開け放たれていた。

 短い廊下を抜けると、中庭に面した広い通路に出た。

 屋外と繋がっている通路だというのに、先刻感じたすえた臭いは強くなっていた。参拝者用の礼拝室とは打って変わって、通路の隅には埃が溜まり、中庭は背丈程もある雑草が生い茂っていた。


 不意にセラーナが身を低める。

 即座にロベルクとノルビットも頭を低くして身構えた。


「あははは、あははは……」


 小さな笑い声が耳に飛び込み、三人は肌を粟立てた。

 ロベルクは霊剣の柄を掴む。

 同時にノルビットは音を立てないよう慎重に三叉槍を背中から取り出した。


「中庭から聞こえるわ」


 三人は中庭から離れて壁際に寄る。


「あははは……」


 不意に雑草をかき分けて、人影が通路に飛び込んできた。それは薄汚れてぼろぼろになった聖職衣に身を包んだ男だった。

 三人は一瞬、身構える。

 だが男は三人のことなどまるで眼に入らないように、通路の奥の方へぎこちなく飛び跳ねていく。

 直後、茂みになった中庭から女が飛び出してきた。


「あははは……」


 女もまた、ぼろぼろの聖職衣をはためかせている。やはりこちらのことは眼中になく、男を追って飛び跳ねていった。


「今の人たち、精霊力が……」

「うむ、乱れておるな」


 ロベルクとノルビットが顔を見合わせる。


 水神アレイルは、愛情を司る神でもある。それは慈愛、友愛から性的な感情に至るまで多岐にわたり、娼婦・娼夫などが信仰する神という側面も持っている。

 目の前の聖職者達は、精霊力の乱れによって、愛情とも呼べないような原始的な感情に突き動かされて跳ね回っているのだった。

 二人の聖職者は追いかけっこを続けながら、中庭の草むらへと飛び出していく。


「あははは、あははは、あっ……」

「あはははははは」


 警戒する三人の前で、飛び跳ねていた二つの頭が消える。どうやら男が女に追いつかれたようだ。

 笑い声が消え、男と女のくぐもった呻き声が漏れ聞こえてくるだけになった。

 セラーナは若干血の気が引いたような顔をしていたが、軽く頭を振ると無理に笑顔を作った。


「い……行きましょう。領主を追わないと」

「ああ、その通りだな」


 ロベルクも即座に同意した。中庭の奇行に近寄っていると、こちらまで精霊力を乱されてしまいそうな危機感を覚えたからだ。


 通路を進むと、三人の視線は正面の扉に吸い寄せられた。中庭沿いに柵を備えた曲がり道があったにも関わらず正面に見入ってしまったのは、その扉が不作法に開け放たれていたからに他ならない。

 あからさまに誘われているような状況に、ロベルクは思わずセラーナの顔色を確かめた。


「どう……思う?」

「領主はこっちに逃げ込んだと見ていいと思うわ」


 セラーナがゆっくりと扉に滑り寄る。


「ラウシヴ神殿ではこの奥に食堂があった筈だけど……うっ」


 室内の様子が視界に入ったセラーナは、思わず呻いた。

 何事かと室内を覗き込んだロベルクとノルビットも、同じ発作に襲われる。

 同時に百人は食事ができそうな食堂には机や椅子の類は並んでいなかった。石張りの床には、そこかしこに痩せ衰えた全裸の男女が転がされていた。よく見れば皆若者で、目鼻立ちも整っていた面影がある。元は美男美女であったのだろう。


「な……何だ、これは……?」


 言いかけてロベルクははっとする。先日の領主の言葉が、閃光のように脳裏を過ぎった。


「まさか、生け贄か……」


 一行はその言葉に答えることもできずに食堂に入ると、転がされた裸身の群れを見回した。


「……死んではいないようだ」


 生命の精霊を探ったノルビットに、ロベルクは頷きを返す。


「まるで精気を吸い取られたかのようだ」

「ちょっと待って」


 不意にセラーナが口を挟んだ。


「何か聞こえるわ」


 三人は耳を澄ませた。

 食堂には呻き声のような音が微かに響いていた。


「こいつら……ではないようだな」

「あれ……かしら?」


 セラーナが指さしたのは、食堂の片隅にある小さな扉だ。


「場所的に……食料庫かしら」

「食料庫から声がするなんて、気持ちのいい話ではないな」


 扉に近づくと、呻き声はさらにはっきり聞き取れるようになった。

 セラーナが鍵や罠の探索を行う。


「あら? 鍵が掛かっていないわ」


 首を傾げるセラーナ。

 ロベルクとノルビットはそれぞれの武器を取り出した。


「領主を捕まえて、帰り道を塞がれると面倒だ」

「私もロベルクに賛成だ」


 セラーナは頷くと、扉に音もなく近寄って取っ手に手を掛けた。


「いくわよ……」


 小さな軋み音を鳴らしながら、扉が開いた。

 ロベルクとノルビットは、敵がいつ飛び出してもいいように武器を構えて待つ。


「…………」


 しかし、部屋の暗がりから何かが飛び出してくる気配はない。相変わらず呻き声と、ごそごそと何かが擦れる音が聞こえてくる。

 セラーナは差し迫った危険がないと判断し、扉を大きく開く。

 中には、六人の若者が床に転がされていた。男が一人と女が五人。衣服こそ身に着けてはいるが、皆後ろ手に縛られ、猿轡を噛まされている。


「餌……ね」


 その言葉を聞きつけた若者達はびくりと震え、呻き声が大きくなる。


「静かに」


 ロベルクが若者達を窘める。


「僕達は、神殿に逃げ込んだ領主を追ってきた者だ。領主を捕らえたら迎えに来るから、もう暫くここに隠れていてほしい。状況を見るに、あなた達は人質にはされないだろうから、その方が安全だ」


 激しく頷く若者達。

 助けが現れたことに対する興奮が冷めたのを見計らって、ロベルクは彼らの縛めを解いた。


「誰か知らないが、ありがとう」

「不安だろうが、少しだけここで隠れていてくれ」


 若者は口々に、小声で応援の言葉を囁く。

 ロベルクはそれに答えつつ、扉を閉めた。


「じゃあ、行こう」


 ロベルクは霊剣を鞘に納めると、二人の顔を見た。


「領主は……?」

「多分あっちね」


 セラーナが指さした先には、細い通路があった。ラウシヴ神殿と似た作りなら、もう一部屋の広間があるということになる。


「多分、あの先を曲がったところに階段がある筈。領主は多分、上の階よ」

「何故、あっちだと?」


 ノルビットの問いに、セラーナは食堂内の至る所で無造作に倒れ込んだ裸体を指さした。


「奥に行く通路だけ、人が倒れていなくて歩きやすい。領主が慌ててここに入ってきたなら、そのまま奥に行ったんじゃないかって思ったの」

「成程」


 ノルビットは感心した表情でセラーナを見下ろした。


「追い詰めつつある気がするぞ」


 ノルビットの太い低音の声に、一行は意気を奮い立たせた。

 遺体のように血色の悪い人体を避けながら、奥へと進む。果たして、広間の左端には階段室があった。


 ふと、ノルビットが脚を止める。そして誘われるように階段室の方へ顔を向けた。


「どうやらセラーナの予測は当たったようだ。わかるかロベルク?」

「ああ。階段の上から強烈な水の精霊力を感じる。セラーナ、警戒した方がいい。」

「精霊使いじゃなくても、この異様な湿気は警戒するわね」


 三人は、人間並みの生き物なら擦れ違える広さを備えた階段の前に立ち、上階を見上げた。禍々しいまでの水の精霊力が川のように落ちてくる。


「セラーナ、ここから先は精霊力の乱れが強い……僕が先頭に立とう」


 ロベルクは濃密な精霊力がひたひたと流れる階段に足を掛けた。

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